戦意喪失
同じ高校でもその日初めて声を認識したような女子生徒から、彼は指摘を受ける。
制服をぐいと引かれたのを感じ、首だけで振り返ると、小柄な女子の意外な距離の近さにうっと声を上げそうになった。
声を堪えていた男子高校生は、じぶんが今何をいわれたのか分からない。
「ねぇねぇ、何その戦意」
戦意。
彼のそれは、今までにちゃんと鏡に映しどんな姿をしているものなのか確かめてみたことがなかったし、いつの時点で芽生えたのかとか拾い上げたかとかいった意識も一度もしたことはなかったし、しかしいつの時点でかそれは身の内に当然あるものとして、ただただ彼のそれは本当に当たり前に内側に隠れていて然るべき時には彼はそれを見せることができ彼自身にとって彼の戦意とはそういう、どこまでいっても辞書で目を合わせたあの時のままの戦意でしかなくて挨拶を交わさないで済む活き活きしているところなんてぜんぜんない隣人のような戦意だったのだし、それで何も問題はなかった。
これまでの間は。
彼にとって本当に思いがけないことだった、彼の戦意が彼のいるところに姿を見せ離れなくなったことは。
そしてこの日、はじめの女子の質問と同じような言葉を彼は四十回ほど聞く羽目になった。
高校生はどうしていいのか分からない、むろん戦意に言葉は通じない。
授業中もずっと対処法を考えていた。
そして彼は結局、いつもと同様に、楽観視する。
けれども、今回に限ってはじぶんは考えが甘かったと彼もただちに認めなくてはならなくなる。
戦意というものは多くの人にとって、とても赤いものだったから。
確実に朝の駅のホームには舌打ちが増えてるよなぁ、彼は思う。彼にまで聞こえはしないけれども、溜息もそうだった。変わらないのは彼の姉ぐらいのものだった。
戦意を持ったまま彼は風呂に入り、戦意を持ったまま彼の姉が差し出す皿を受け取り、戦意を持ったまま彼は皿を舐める、彼女が洗いもの当番の週はものぐさな姉にいわれて弟のほうは汚れを舐めさせられる、これはとても昔からのこと。戦意を持ったまま彼は寝仕度をして、戦意を持ったまま彼は寝返りをうって、朝がくれば戦意を持ったまま薄暗い姉の部屋に入っていき女子大生の身体を揺さぶって、戦意を持ったままに彼は戦意を持ったまま弟がベッドのそばに立っていることに驚いた姉に殴られることになる。
戦意を持ったまま朝刊チェック。戦意を持ったままごみ出し。
ただし朝は、マンションのエレベーターを一人待つ。
戦意はエレベーターを持つことができないので先に外に行ってもらうことになる。
授業中の教室でも、戦意は戦意らしく堂々としていることができなくなるため居眠りを始めることがしょっちゅうだ。
その横顔を、彼は頬杖をついて眺めていた。
よく晴れた五月第二週だった。
前から二つめの窓際から二列目の席で彼は、その横顔を見つめすぎて、教員からのやんわりとした警告を受けた。
数人分の苦笑がもれ、彼は前に向き直る。耳が赤くなっていくのを感じる。
風で膨らんだ白いカーテンと、うごかない戦意。




