日記について
本人の死後に本の形になったスーザン・ソンタグの日記を読んでいるうちに何度めかのこの後悔がやって来る。彼女は思う。私も、もっと十代のうちに文章を書き残しておくべきだった、と。
日記を書こうとしても彼女は書けない、今も昔も。
初めてノートにじぶんの身に起こったことを文章として残そうとしたのは小学二年の頃だった。きちんと書くべきことを書こうとした記憶が彼女にはある。それが苦しくて止めてしまったことも未だに鮮明に記憶しているが、びっくりするのは、あの頃と全く同種の苦しさがあることだ。今でも日記は絶対につけられない彼女のままであるということ。
大前提として、アクティブに日々を生きていない、それはある。というか、ほぼそれが理由になっているのだけれど、始めから探求しなければならなかったものだって彼女にはなかった、彼女にはセクシャリティに関し揺らいだことが今までない、その意味では気楽な生き方を可能にしたといえるのだが。
他者から受ける暴力によって暗い道に入っていくことも今のところは経験していない彼女は、人格形成期を比較的この国の人間らしく、穏やかな環境の中で過ごした。それを可能にしていたのは彼女自身の性質がそうさせていた面もあるのだろう、無意識にしろ何にしろ、リスクをとらない青くさい人間特有の臆病さ潔癖さはでも確かに身を守る手段として有効であった。
残しておくほどの価値のない、パラグラフであれ、まずい詩であれ、中学の間かなりお世話になっていた養護の先生宛てに書いた手紙の下書きみたいなものであれ、やはり残しておいて大人の目で読み返すことには少なからず意義がある。現在彼女の手元に残っている中で十代だった頃書いた文章は、実際に書いた分量の三分の一にも満たない量しかない。
彼女が突き詰めたいのは、愛着という感情についての考えではなくて、現在と過去の間にある断絶に対する、彼女自身の対処の仕方、生じる混乱や痛みに対処するその仕方についてである。
そして彼女はカーヴァー式みたいなのにはうんざりしている、あの時の俺は俺じゃなかった、というようなところに堕するのは私は願い下げなのだと。
ファッションのことを考えるのが何よりも好きな人たちが、自己の確立について考えるようには彼女は考えられなかったし、事実考えてこなかった。もっとヘヴィーな、主に外的な要因により自己の確立までには時間をかけて困難な道を歩まざるを得ないような人たちとも、当然考え方も心構えも違っていた。漫画、写真、油絵、釣り、天体観察。もっとアブノーマルな領域でもいいけれども、とにかく人間の趣味とは多様だし、外部の助けは欠かすことができない。彼女にはこの助けがいるというところが気に入らなかった、写真や絵には道具がいるが、それは優秀な外部の人間の手助けが第一条件としてある。そう、言葉の構築物である小説や詩は相対的にピュアなものに彼女の目には映っていた。ずっとそうだった。散文はこの世にある存在する全ての中でも、といっていいぐらいに本当に私好み、遊び心も備えられるところ、好きに乗り回せるところ、何より私はそれに一人で乗れる、他人の助けが必要ないところが安心感があって良い、と。
彼女個人の考えでは日記という表現形態は、足がついていない。詩や小説はついている。だから感情のままに文章を書いていくと、詩や小説は、最初の一行からは予想もしていなかった場所に向かうことになる。日記では100パーセントそうならないし、そもそも詩や小説が行くところに行っては駄目なのだ。日記を書くことは、嘘をつくのが目的として始められるべきじゃない。
きっと、遠くまで行きたいからじゃない、むしろ反対で、近くに行くために書く。今日のじぶんが何を見て何をしたのか、何ができたのかいつも不安に思っている人が書く。見定めるために書く。今日は明日だから、昨日は今日だから、明日は今日だから書く。もうじぶんが思うようなじぶんでは恐らくいるわけにはいかないから書くのだ、最悪の事態を招くわけにはいかないから書く。はっきりしたものを示したいから書く。両親に申し訳なく思っているから書く。いつも昨日のじぶんが怖くてたまらないから、いつも明日が来ることが怖くてたまらないから書く。今日こそは怖いものが減っていればいいのにと思う人が書く。放置することが現在不可能になった人が書く。それがどうして起こったのかが分からない人が書く。風向きは変わるのだし、彼や彼女には知る必要があるから、前に進みたいから、思うように呼吸をしたいから、安らぎを得たいから、死ぬ日はまだ先だって、ずっと先の話だってそう感じたいから、あと期待したくないから書く。それと同時に、期待したくもあるから書く。
それは、他者を信じきることができずにいる時間、だからそうやってじぶんを見ている時間が多く取れていた。時間は恐ろしいほどに淡々と流れていった、そのうちに見なくても大丈夫なものとしてじぶんを捉えられるようになりたいと思う日がやってくる、そういう人はだから、書くのだ。




