彼女の敵
電車の中やクリニックの待合室といった場所で彼女はしばしば手帳を取り出した。そこに書き込まれている彼女自身のいつもの小さな弱々しい字、スペースをけちって文字を小さく書こうとしすぎるのもあるが、一番の理由は人目を気にしないで千々に乱れた心といった感じにのたくっても心地よく無視できるためだった。時には漢字が判別困難なこともある。だがそれと同じくらいの頻度で、言葉たちが何を意図して並んでいるのかが、大して日が過っているわけではないし筆記者本人であるはずの彼女にも理解が困難な場合も多く、理解に努めるためじいっと同じ箇所を読み続ける羽目になった。そういう時には猫背の彼女を背後から冷静に見下ろすもう一人の彼女がいて、まるでじぶん自身のではなく他人の考えを見ているかのように、幽体離脱じみた体験にこれはなり易い。実際のところは昨日のじぶんのナイーヴな感情の動きについて思考を巡らせているだけにすぎないのだけれど。
彼女の手帳には概ね敵について書かれていた。
二十代になってからの彼女は特に敵と遭遇してばかりの毎日を送っていた。それなりに年齢を重ねて彼女は敵の弱点を見つけ出すことと、じぶんのある部分、敵につけこまれやすいところを摑むことと対応を上手くやれることにかんしてどうにかスピードもつくようになってきていた。残る問題はむろん感情面だった。敵の存在によりフラストレーションを抱えると彼女は手帳を出して屈み込むくらいの猛然さでもって文章を書く。誰に見せるためでもなく恐らくは基本的にはじぶんに何かを示すための行為でもない。それはその前の段階で、彼女が書く彼女の敵にかんする文章は、実体はよく知りもしないのだが錯乱した散文詩人の書くもののように彼女自身には見えた。内的要因にしろ外的要因にしろ歪められたその世界で敵の数は正確なその数とは一致してない気も彼女にはする。敵の数を数えることは今の彼女はもうしない。女の敵は誰だろう、と若い日には考えていたことも考えない。大切なことは一つ、彼女の立ち居振る舞い、敵に対して何をいい、何をいわずに、何をいおうとするのか。そして彼女の考えでは心は打たれ弱いとしても、敵より頭は弱くなっていてはいけなかった。ある意味、味方も敵も彼女にはもう存在しなかった。じぶん自身を含め、彼女は全てを敵に回す準備はできているといえるようになりたかった。
全てに対して正解を出したい、白黒はっきりさせたいなんていう母親のような愚かさはなく、グレイゾーンの中、そしてもちろん窮地でしか、彼女は全ての敵について正しい判断はできないことを身を以て学んだ。正しい判断を敵の前でちゃんとできることがどれほど大切かを彼女は学んだ。
必要があるから、彼女は書いたものを読み返す。じぶんを理解するための手段でなく。彼女は敵が自滅するのを幾度か見てきた今となっては、落ち着いて対処するじぶんの姿も見るようになっている。歳を取るメリットはそれだ。
彼女は手帳の前のページを何度も開いて読み返す。世界があり、彼女がいて、彼女がいるところにはいつも敵がいる。サイズ感は色々だが、敵は敵だ。
彼女の敵について書かれている文章を彼女は読み返す。怠惰、気弱、忘れっぽさ。それらの特色を持った彼女自身のことも彼女は味方とは呼べないのだった。
人はいくつかの理由で手帳を買い求めるけれど、これが彼女の手帳の理由だった。
敵に囲まれてそれでも息をしたい人が何かに希望を持てるとしたら、それは言葉だけだから。




