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あなたの破棄された小説






 もうすぐ完成するあなたの小説、平日の自由時間を全部使えば、来週の日曜日には一つの小説作品を書き上げることになるあなた。あなたはこの達成が信じられない。何度もあなたはこれに軽く驚く。まさかこんなに長い散文が書けるとは。あなたの机の引出しには膨大な量の詩編の書き付けてあるルーズリーフを仕舞ったクリアファイルがある。あなたは習慣的に物を書く人、現代のレイ・カーヴァーにでもなったつもりで日々の考えや発見を詩にしていた。けれども、小説の骨格を持ったものを書いて終わるのではなく、それをしっかりと最初から最後まであなたなりに物語として語ることは今回が初めてだ。しかもあなたは本当にそれを、もうじきに完成させることが確実となった。あなたの固有のリズムと作中に描かれる現代日本の中学生たちの息遣いがその小説を特別なものにしているが、それよりも何より実在する紙の束として、頭の中にではなく完成品として、机の上に置かれるということがまずもってあなたの作品を特別なものにした。どんな作者であろうと無事に書き上げる小説作品とは特別なものだった。それが最初の経験となるとなおさらだ。あなたは駅のホームに立っている時、コンビニの精算待ちの列が解消されるまで商品棚を眺めていることにした時になど、小説のことを考える。あなたは小説を他人に読ませたいと思い始めている。それは底上げしたい気持ちからだが、あなたには気がかりがあった、執筆中は問題となる部分は敢えて見ない振りを続けたあなただった。至極当然ながら、完成間近の今となってはもはや見過ごせない瑕疵としてあなたにはそこの部分は感じられる。具体的に読んでほしい知人が二人、あなたの脳裏には浮かんでもいた。一人は、小学校高学年の頃に両親が離婚している一人っ子の女性。もう一人は三人兄弟、男だらけの中の長男として大学卒業まで実家暮らしをしていた、高校生活に入った辺りから彼の父親は諸々のトラブルを抱えていた、そういう男性。あなたは平々凡々な子供時代を過ごした。ぬくぬくと不自由なく暮らした。彼とは違ってあなたは、母親が料理をするのは彼女の義務だとずっと考え、母親自身がそんな毎日をどう感じるのかについては一切頭になかった。彼女とは違ってあなたは、父親の存在にしろ非存在にしろ、影響を受けるということについて考え付くことすらなかった。彼女は成人するタイミングで、いないものとして暗黙の内に母親と一緒に扱っていた父親のことに向き合わなくてはならなかったという。彼女から話を聞かされた時のあなたは、そういうのが分からないと思った。全然、本当に意味が分からなかった。シリアスな問題となることがありえるのかどうかさえあなたには判断がつかない。あなたの中にあった、自作小説に対する不安の正体。それは、普段のあなたは百パーセント、じぶんのためだけに書き物をする人であるところから来ている。小説作品は日頃あなたが書き慣れている詩とも日記ともまるきり異なった何かだった。根本のところから。読み手である時にもあなたは意識がそこに向かったことがなかったのだ。小説が書かれるのは作者のためでも作者以外のどんな人間のためでもなかった。現実には存在してはいないけれど、そこでしっかりと生きている登場人物のために書かれているべきだった。それこそが小説と呼ばれるものだ。あなたは書くことでようやく肌でそれを理解した。書くことでしか分からないことは山ほどあり、あなたがこの今特に気にかかっていることといえば、複雑な家庭環境の中で実際に育つことでしか見えないものがあるのは間違いのないことだが、中流の地区で生まれ育ったようなあなたにはそこは見えないだろうということ。同時に、あなた自身がそこを理解していることにかんしても、今あなたは苦しくなってきているということがある。読んでほしいとあなたは思いはするのだが、思うだけのあなたでいるのは、同じく不安だったから。過信だろうか? そこを案じるような出来映えではないだろうか、ともあなたは思っている。あなたは執筆中に一冊、同じ本をいつも視界に置いていた。直感的に影響を受けたいと感じていつも手元に置くことにしていたわけだが、ただ自分の選んだ題材とは隔たりのあるその『ナタリー』という小説を読んでちょっと思うところがあった。もしも自分の書くものがこの主人公ナタリーのような、愛する人を予期せぬかたちでうしなう人間が中心に立つ作品だったなら、必ず女性に完成原稿を熟読してもらうだろうと、そうあなたは思った。似たような人生を歩んだ女性たちに、とあなたは頭に浮かんだ思いに、じぶんではっとする。フィクションと同じ、悲劇的な経験をした人に、そのフィクションを読んでもらいたい、と思うと思ったあなた自身に、ただちにあなたは、いや、待って、と思い、いや、いや、いや、と思う。

 汚い、とあなたは思った。







 以上のような経過を以てあなたの小説、世界に唯一のあなただけの小説は、破棄された。













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