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遠くまで行けない人






 いつも遠くまでは行くことができない人、それが僕の兄だった。

 シングルマザーの母は息子ふたりを育てるのにそれほど熱を持ってはいないようなやり方を続けていた筈なのだが、パターン通り、兄に対する彼女の執着心は年々、彼女の衰えとともに漏れ出てしまっている。



 兄としては、母を敬う暖かい気持ちはいつまでも消えずに持続しており、つまり僕は冷たいのだった、僕の物事を見る見方も、声も手もだ。何より証拠となることは、僕は時おり母の暮らす町の存在を忘れるほどなのだった。

 行きたいところが沢山、やりたいことも色々、そうして同じぐらいに何もしないこと、繭の中のような沈黙の時間を僕は求める。

 兄はそういうふうになれず、なるわけにもいかない。



 ただ問題は兄のあの持続性を僕以外が問題に思わないところだ、問題視するほうが問題だといわんばかりなのだ。

 距離感といういい回しなど頭にあるほうがどうかしている、と。

 間違っているのかもしれないが、日本人特有の家庭神話というものには僕は背筋が冷える瞬間がある。



 ちゃんと付き合っている女性もいたし、仕事仲間と旅行にだって行く。

 にもかかわらず、兄は遠くまで行くというのがどういうことか理解できないのだという。

 いつからそうなっていったのか、兄自身にも思い出すことはもう無理なんだろう。

 遠い異国にいても子供だった頃の帰り道の記憶や、取り込んだ洗濯ものの山を前に座っている記憶、夜ごはんを幼い僕とふたりして食べている記憶を兄は確かめる。それは愛情からくるものではなく。

 兄は、いつまでも過去と現在とがうまく見定められない世界にいた。明日のことを思って眠った経験がない。

 じぶんというものが何なのか、今いる場所も、兄にとってはいつも不可解だという感想しかない。誰にだって、夢と現実の区別がつかない感じになら覚えがある。兄の場合はそれと似たような感覚なのだろうか。

 正確なところは僕にだって分からない、いつまで兄はああなのだろう、そう弟としては思ってしまうという、結局はそれだけのことだ。

 きっと、母が死ぬ時までは、ともいい切れない。








 兄は保持されている記憶を頻繁に確かめるという。兄が母をずっと一番上に置く、僕みたいな自己愛まみれの毎日とは正反対な暮らしを続けていることも恐らくは、そこに結びつくと兄自身は考えている。安全な物語の登場人物になることがそれでできるから。

 常時不安が全くないことに対する不安。そこに兄は子供時代にちゃんと気づけたのだ。誰が何をいおうと、周りでどんな変化があろうと、何も感じない人。もちろん、人は、じぶんがどういう人間かについてはいつか気づかなくてはならない。考えて、行動しなくてはならない。わけても兄のようなタイプだったら、タイミングなんて早ければ早いほどいいに違いない。そのまま大人になるなんて恐怖映画だとしかいいようがない。



 誰も、どの土地も、そんな兄の根本的な部分に影響力を及ばすことはとうとうなかった。人生に劇的な出来事なんて起こるわけがなく、兄の本質は今も変わらないまま。現実は現実味がない場所だった、ここはどういう場所なんだろう、と兄は思い続けている。なんでなんだろう、と。オレはなんでオレなんだろう。



 良くないよそれは、と僕は一度本人にいってみた。お母さんのこともじぶんのことも、無いものとして考えてみてほしい。

「それで、こう、躰っつか心っつか、捨てるみたく遠くまで行くんだよ。遠くまで行くって、そうゆうことをいうんだよきっと」



 でももちろん、世の中にいる兄がほぼ全てそうであるように、この兄もまたじぶんより切れ者なわけでも全然ない弟の言葉など考慮してくれやしない。弱く笑う。

 オレの話はこのへんで、みたいな口調の変わり方で兄はいうのだ、例えばお前が見てきたもののことを話して聞かせてくれることが、オレにとっては移動になってると思うんだ。

「それでこっちが納得すると思うの?」

 また弱く笑う。

「兄弟に理解されたい、ちゃんと納得してほしいって願うのなんて、大それた願いだとお前も思うだろ?」












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