本を読めない夏がまたやって来る
半袖や半ズボン。特に目が行くのは、日曜で父親たちに連れられてきた男子のむき出しの腕や足。
レコード屋に単独行動中に寄った私は、動揺し頭の中のメモが何行か失われた。
グサヴィエ・ドランの新作で流れていて聴きたくなっていたブリトニーのCDだけを買って、表に出た。
私の恰好は、四月後半と考えるにしたって重たげなのがじぶんでも気になりつつ出てきたのだったけれど、それにしても晴れた週末の少年たちの身軽さに私はびっくりしすぎだ。でも考えてみると毎年そうだった。元々私は通行人たちの服装の変わるさまに、毎年の夏ごと、いつも驚かされている記憶がある。
じぶんがではなく、他人が今どう感じ取っているのかに対して私は、考えが至らなすぎる。夏に来てほしくないというのも大いにあるけど。
男の子たちにとっては、半袖の季節に入るラインが今なのだな、私は店での注文をカフェラテに決めながら思う。
席に座って鞄からブックカバーをかけた本を出す。マスクを外すとケースに仕舞う。
おいしいカフェラテだった。くっ付けた太腿を包むジーンズの上に本を置き、しばらくぼんやりとしていてどこも私は見ていなかった。それからまたマスクを着けると本を手に取る。
でも私は男の子たちのことを考えている。
大人に、成人の女性になってから独り身の時間が長すぎると多くのものを遠ざけてしまう。ああいう無防備な子供の姿に、わけもなく揺さぶられる。夏の入口に来ている。ほんとうに嫌だ。夏には私は本を読めなくなる。七月生まれなのに毎年夏には死にかける。料理はもちろん、風呂掃除も最悪のレベルになるまでしなくなる。辛い夏の日々、紙の本は読まずに私は電子書籍で物語を読む。ライブラリにはセールを狙って大量に放り込んでおき、スマートフォンやタブレットに落とすと、網戸にした窓の近くで寝転がって過ごす自堕落な読書時間。そんなふうに暗いところでスマホを見てたら目が悪くなると叱るような人もどこにもいない。夏には普段読まない日本のライトノベルや海外のヤングアダルト作品ばかり私は読んだ。読書の秋という表現は適切だ。冬は好きだし、集中力も増すけれど、指を隠したいと思わないでいることは難しい季節だ。夏は問題外。春は花粉症持ちには辛い季節だ。
でもこれらは、私が大人になって、鈍化していっている証拠。私が、買った本は綺麗なままにしておきたいと思うようになっていたり、じぶんの気分が世界の中心にもなっているから。
だって子供だった頃、最優先事項は物語を登場人物たちのことを見届けることだけだった、小説を読み終わる時にじぶんが何を受け取りどのような状態になっているのかとかいったことは一切、頭の中になかったはず。
まるで使い分けるように、本を見るなんて、と子供の部分がいうけれど、他の大部分はこういっている。それはでも自然なことで、大人になること、変化をするってことは、悪いことでも何でもない、避けられない。感性は錆びていく、それに大抵は、私じしんも、大人のじぶんはさして悪くないと思っている。私はこれを、ちょっとすごいと思っている。大して病気せずに税金だとか寄付だとかをしたりできるぐらいに稼ぎ静かで清潔なマンションの部屋で暮らしてて趣味もあまりお金のかからない読書で読書さえしてれば満たされるこんな、これを。
それでも今日、私はじぶんを止めることができずにいる。
存在しない視線を私は感じる。
あんなにも誇り高く、自由で現在進行形の少年という存在から見たこの私という存在は、どれほど重苦しく、どれほど多くを見失った女に見えているのだろうかと。




