飢えていた
飢えてる俺がいた、わかっていることは明らかなこの事実だけだ。
当時の俺は、ひとりぼっちで街中をうろついて回ってばっかの、人以下の犬で、しかも珍しくもないことだが、餓死寸前の犬だった。透けて見えてくるような、孤独そのものみたいに見えるような、犬。
あの日々の中で俺が何を考えていたのか? 今ではもう俺自身にだって、よく思い出せなくなっているし、それは、ひょっとしたら俺自身が望んだことによりそうなっていったんだって気もしてる。
思うんだが、当時同年代だった子供からしたら、あの時期の俺はとてもよいサンプルではあったに違いない。
俺は飢えていた、俺は相当噛みたかった。飢えがそうさせるだけだ、ほんとの俺は噛みたくなかった。
俺は噛んだ。
俺は噛み、俺は噛み、俺の目はそれを俺自身に十分なだけ見せたりはしなかった、俺の頭はごみ缶みたいなもので、虚しいとかいった思いすらろくすっぽ漂わせてられないぐらいに、何もつかめてなかった。本当に何も。
あの頃、ひたすらに俺は噛めるものは噛み、そして噛みたくはなく、噛みながら、だから俺は涙目になってたに違いないんだ。
それを、見られているせいだと周りは誤解していた。だが、人目なんて問題じゃないんだ、じぶん自身があるということが一番の問題だった。過去とか未来とか呼ばれるそれに貼り付く、色々な思いが俺の中にだってあったから。
俺はよく、背を壁にくっ付けて長時間座っていられる場所に好んで通ってはそこにいた。いられる限り俺はいた。
その飢えは俺に、疲れている俺をきちんと使わせまいとする、ここで俺は、主従という言葉を使うべきかどうか迷ってしまう。でもどうだろう。結局俺はどこにも行けないままだったわけだから。行くところなんて、俺の人生においてはあった試しがない。誰も俺に石を投げてこない場所、その場所にすら持ち込まないわけにはいかない飢え。
消えてなくなりつつある俺に、飢えが悲しみを教えていた。何を見たって悲しい、と当時の俺の頭は考えていたわけでは全くない。
俺は風に吹かれても、気づけないでいた。弱い風は嫌だった。俺はそんな時のじぶんを言葉にはしなかった、きっと寝返りをうつぐらい。いうまでもなく、草いきれは俺にその飢えを蘇らせる邪魔な連中だ。
当時俺が漠然と一番見たいと思っていたもの、それは破けているものだった、表側が破け、あるいは破かれて、覗き込めばそれが何なのかがわかる状態になったもの。モノによっては、口をつけて啜るべきもの。
いつも親は食べさせてくれず、学校も食べさせてくれなかった。俺は彼らのいうことがよく聞こえていなかった、彼らのいうことは俺にはまるで飲み込めなかった。
何もかもが固かった。
矛盾しているように聞こえると思うけど、不思議に、飢えた俺は歩き回った。飢えてることのこれが最も矛盾するところだけど、誰にも見られたくない時に部屋にいること以外何も望むはずはないのに、それでも部屋にはいられなくなり、どこか知らないところまで勝手に体が動こうとする、あれはやっぱり食べるもの欲しさになんだろうか。俺にはよくわからなかった。
いくつもの曲がり角と出会うのに、いつでも頭の中は同じ。俺は転がって、転がした。学校じゃないところだからとは俺は想像もしてなかった。歩くのが楽しいとだけ俺は考えていた。
いつも、どこにいても駄目だった。欲しかったものは与えられなかった、それを探しに行く足はあった。全ての曲がり角のためにきっと足はあったんだろう。聞こえない声のためにもきっと、足はあった。
ただ俺は、じぶんのためのいい場所を知らなかった、それだけがあった。
俺は家から遠く離れた、誰も知り合いのいない街にまで何回か行ってしまった。そしていうまでもなく力尽きて倒れた。警官連中にしたら俺の自宅ということになるあの場所にまでまた戻されるということを、どうして繰返す必要があったのか、俺自身にもよくわからない。じぶん自身についてさえ、俺には行動の多くが今もまだよく理解できていない。
水だけはどこにでもあった。
それだけが一杯あって、そのことを俺はあの頃度々身をもって思い知る羽目になった。
俺には何も聞こえてこなかった。
それに何をいったって、何を見たって俺の胸に穴を増やしてる。穴の中に手を突っ込むのは俺には恐ろしかった、穴の中に穴があり、見失えばいい、たまに同級生の声が俺に向かって何かいっていたとしても、いつごろからか俺は同じことしか返さなくなっていたはずだ。
「見失えばいいよ、お前らも」
いつも見ていたのは影の数だ、または影の長さ。いつも影をただ身動ぎもせず俺は見ていた。
ケーキみたいなあの教会の前では穴からは静かさだけが出るようになるのはあの頃の俺には発見だったといえそうだ。坂の多いあの街、何年もずっと俺が一人で歩いていた通学路。
ページに涎が垂れ落ちたことがあり、図書館は俺には行きづらいところになっていた。でも行っていいところがあったことなんて俺にはあった試しがないんだ。
ボールは友だち、友だちの友達のボールは友だち。
ボールを投げつけられ、どれも上手く俺に当たった。避けた記憶が俺にはなかった。
「ボールは友だち」
そのフレーズが踊る。正直いって、今でも。
生温いある種の視線が縛るもの、それはあまりに多すぎて笑みみたいなものに異常に繋がりやすい。
結局は怖いものはもう何もなかったというしかない。
俺は飢えていた、それを何とも思わない人間の歌う歌があった。それがあの頃俺に行けるどの街にも降っていることがわかった、俺にはわかっていた。
俺はとても飢えていた、どこまでも俺は飢えていた。
あらゆる場所、あらゆる時刻を俺は試してみた。でも駄目だった。あらゆる場所の裏側に俺は立った、でも駄目だった。
いつも俺は飢えていた。
よく午後には校舎にもたれて座り、無意味に心臓のところに手を置いて、ずっとそのままでいたりしていた。
初雪になら俺は気づけた、虹にも。
飢えていて特に、一点を見つめている際に俺が好んで顔を向けていたのはいつもドアだった。
目も唇も駄目になりつつも、ちゃんといなくならないでいる訳を知りたいといつしか思うようになっていた。
音楽はひたすらに飢えと相性が悪いと俺はいつから思うようになったのか俺は覚えていない、明るい教室にいなきゃならないこと、ぐらつく椅子にかぶりつき、誰が見ても理由は一つしかないそのときの涙を俺が堪えていたこと、なぜかいつも涙を堪えていたこと、一つだったら視界にも入らないでいたこと、どこにもなかった言葉が、拳を解いた手の中にはあったこと、俺はいつから飢えている状態になったのか見定めようとしても俺には無理で、そうした時俺は唇に指で触り、俺は誰も、何も使い物にならないという思いで一杯になる中で、たった一つ、それを覚えた。
朝には俺は起き上がった、毎日なぜかそうした。
俺はよく聞いていた。見ていたし、触っていた。橋の欄干、並木道、新しく出現した看板の裏も必ず触った。全部俺が欲しくないものだった。欲しいのかどうかじぶんに問うこともしてなかったもの。
夜が更ければ俺は横になった、毎日なぜかそうした。
確かな闇には震えもした。でもそれは麻痺状態とは遠かった、可能性が夜には燃えていた、可能性が夜にはこれの表側を照らしていた。
俺は、昨日って言葉が好きだったのだと思う。
俺はいいと思ってた。
俺としてはそれで問題がないわけではもちろんなかった。それでも何故かそうなっていた、いつからかずっとそうでこれから当分はそうで、終わりまでずっとずっとそうかも、と考えるときには俺はちゃんと怯えたし、怯えがあるせいで夜は夜だしで、何も終わりやしないのだった。
こっちとしては単に、どうやるべきかわからないでいただけだと、そう俺は思いたがっただろうか?
わかりたい、と思っていた時期ならおそらくあったと思う。あまりに飢えていたときには彼らのところまで再び行ってもみたんだから。俺はちゃんといおうとしたんだから。
だけど、何かが俺には足りてなかった、つまり俺では駄目だったってことなんだろうか?
俺がいい方を覚えていなきゃ駄目だったっていう、あれはそういう話だったのか?
俺はちゃんといおうとした、本当に本当に本当に。
完璧な発音、と学校は誉めてくれた。
俺は何度も何度も、じぶんにいえそうなことを、じぶんの精一杯のいい方でいった、すると学校はいった、いいですねえ量は完璧ですよ、と学校はいつもいうことだけをいった。それだけだった。いつも絶対にそうだった。
連中のあの目を、今もまだ忘れずにいる。隣の席だった女子が最初の日から机を手で持って、距離を離したことそれさえもまだこうして忘れずにいる。
あらゆる声には色があることを、飢えながら、俺は覚えた。声たちに意味はなく、今それは色として俺の中に残っている。当時はまだ知らなかったが、俺はちゃんと、彼ら全員を呪っていた。優しい人も優しくない人も等しく、全員。
あれから時間がずいぶん過ぎた。
飢えをしのぐために俺はそれをやっていたんだと、そういえたのならどれだけよかったか。
俺は善いものじゃないだから俺は飢えていた、俺の存在すること自体が悪でありだから俺は飢えていた、俺が学ぶ意欲におおいに欠けててだから俺は飢えていた、彼らはいった、お前が出発点を間違えてだからお前はそうなっているのも仕方がないんだとまた彼らはいった、お前がひれ伏すのなら私たちだって悪魔じゃないんだし考えてやっただろうけれどお前の目つきが高潔な私たちの保たれているべきプライドを傷つけだからお前はそのまま飢えて死ねと彼らはいった、俺たちは読まなきゃいけないお前は野垂れ死にしろ。死ね。死ね。そこで死ね昨日今日明日いつでもいいからお前は死ねさっさと。死ねよ本当、うっとおしい。もうお前死ねよ。死ね。彼は。彼は善いものじゃないのだもの。当然だよ、あいつなら当然だよ彼。彼ならいいやあの子なら別に別に別に別に別に別に別にどうなろうと別に別に別に別に別につーか死ね死んどけ死ね死ね死ねお前なんか死ね。飢え死にとか。マジうけんな? はよ死ね。そこで死ね。ぼくちんが寝てるうちに。あたしが眠ってる間に。死ね! 死ね! 死ね、死ね! うんもう死んどけ。えっまだ? 早く死ね!
死ね、いるとうざい。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ななかったとしてもちゃんと死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。死ねねぇ仕方ない、彼は優秀な生徒とはいえず、だから優秀な息子ともいえないんだろうしだから別に死ね! 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねいや死んどらんのかーい早く死ねよ、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死んどけお前お前みたいなあんたみたいなのとか早くお前死ねよ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね! 死ねなんか死ね死ねお前なんかお前なんか死ね死ね死んでいいし死ね死んでいいから死ね。
時々、こうして今でも残ってしまっているものについて俺は考える。
新年の誓いを、俺はしない、俺は願いごとは一切しない。
他の人たちがやっているから、という理由だけで俺がやらないでいる、たくさんのこと。
俺は考える、残っていること自体もそうだが、残らなかったことについても考えることがある。ここにこうして残っていて、今も残っているものがあることがあたかも、と俺はそこまで考えた時点で首を振る。
俺はあの目や声たちに今も見られている。
この世界に残っている俺はずっと、力尽きるまでずっと、逃げ続ける者としていつまでもあり続け、そうして俺は、他の誰でもない、俺は過去の俺から見られている。




