感傷
六月第一週のこと。
何かしら特徴を口に出そうとしても校舎が古いのだということを口に出すしかない、そこはそれほどに古い公立高校だった。
午後三時を少し回ったところだった、一年の生徒たちが思いがけずライクと出くわしたのは。
どこのクラスのどんな男子の落とし物なのか、ライクが廊下の隅に転がっていることに一部の一年生たちは目を留めた。
この日、少年少女たちの目は、そんな落とし物に多少気をとられはしたのだが、それぞれの放課後に向かって足は動くことを止めないでいた。
彼らのうち足を止めた者は一人もいなかった。
だいいちこの午後の廊下じゅうに広がっている解放感と人の波の中、あえて立ち止まってまで、どこのクラスかも誰のかも全く不明なライクを拾おうとする、そんな高校生は存在しない。
ライクに気づけるのだってどちらかというと少数の者たちだ。
そして気づいたとしてもむしろライクに気づいて申し訳なく思う者が大半なのだった。
この日いちばん大きなリアクションといえるものは、せいぜい呟く者が一人いたぐらいだった。
「模様に踊り続けてほしい、ずっと。けど、人も踊る」
一部の一年生たちにとってそんな、持ち主不明のライクは、しばらく経てば記憶からなくなっている自信のあるライクだった。
翌日になるまでは。
前日にライクに気づいていた一年生たちの全員が、曇り日の金曜の朝、まだ廊下に転がっているままのそれにただちに気づき、そして今日はあからさまに反応した生徒が続出している。
ぎょっとした顔をしたり、思わず手で口を押さえたり。
まじでか、と大きく顔に書いてあったり、その男子の顔に書かれてある文のほうに気づいて、ライクのほうを見るまでもなく同じ感想を持ったり。
少年少女たちは、頭の中で急速に膨れ上がっていく考えに、この日一日、目の前のやるべきことを疎かにしてしまう。
午後になってもライクは消えることなく残っていて、埃を被っていた。どこかのクラスにいるはずの少年のライク、誰の手にもとられないままのライク。
一部の一年生は、帰り際にもそちらに視線を向けて依然それがまだ転がっているのを、またタイミングの悪い者は、外観もアクションも派手な部類の高校生の足に蹴られている場面を目で追っていなければならなくなる。
どうかしたのかと友人たちから訊かれても、当たり障りのないことしか答えられない彼らだったし、加えていうなら、落ち着きをなくしている自身の様子を取り繕いさえしない。
他人が失ったライクに気づけるような彼らには度々、器用さに欠けるだとかどっち付かずな面が見られるのだった。
そして何より彼らの多くが自覚ずみでもあるが、考えても仕方のないことを延々と考え込む一面も共通して見られる。
日を追うごとに、つい一瞥する者、さらには唸る者、歩行するスピードを落としたものの背後のライクに気づかない男子にぶつかってこられるのを懸念し何も手出しできない者、と明らかにライクへのリアクションを廊下で取る者が目につくような状況になっている。
周りの不審がる視線にしても、直接疑問符を投げかけられるにしても、彼らが上手いこと言葉を返せていた試しはなかった。
冴えたやり方なんて彼らは一つも知らなかった。
気づく者は気づく、気づかない者はずっとライクに気づかない。
静かな放課後にそちらに顔を向けずにいることは彼らにとって困難を極める。見るたびにライクが薄汚れていく、と確認するだけの作業であると知っていた。
時間は確実に流れていくもので、そして拾われないままの落とし物の存在感というものは、当然ながら、十数名の少年少女の頭の中では膨れ上がる。
そこのところには利口な高校生たちは考えが及んではいた。しかしこの間、彼らがやっていることといったら、大体が似たり寄ったりなものだった。
それは夕食前の縁側だったりする。
浴室だったり、ベッドに足を載せた状態での床の上だったりと、各自シチュエーションは異なるのだが、それでも、頭の中では同じだし、答えのない問いだと知っていてそのうえでやっているところもやはり同じだ。
ひとりでそれについて考えること。
考えて、色々な角度からただ見ている、ということ。
あれを落としたかわりに、男子は何かできたんだろうか。あのライクを失うだけの何が、彼にあったんだろうか?
もし、失くすだけの値打ちがあったとしても、同じくらいだろうか。
それに見合うと、彼は判断を下した。
その判断は、本当にそうしていいんだと彼には思えていたから出来たものだったんだろうか。
部活終わりに歩くいつもの道。
駅前通りで、じぶんのベッドの上で、彼らはそれについて考えている。
赤信号を見上げ、飼い犬の耳を見下ろし、フィギュアを、ウェザーニュースを、机の上に広げてはみたものの一向に手がつけられないままの課題に目を落としながら。
高校生たちは、それぞれ別の場所で、同じものを見ているようでも、別のものを見ている。
ある日一人の少女は、前髪を触るのをやめてまでも、それについて考えているというようなことは、じぶんが本当にやりたいこととはいえないなと思う。バスの中で。
だから彼女は窓に映りこむ自身の姿に目の焦点を合わせる。
同じ頃、別の少女は夕食の席で考えに耽っていたせいで、右手に握ったスプーンで掬うべきない姉の言葉を掬うという、痛恨のミスをおかしていた。
「こっち見てんなし」
無操作状態でおそらく三十分が経ったことで暗い画面になっている。そこに映るじぶんの顔。
あるいはまた、読まなきゃならない雑誌や、気づかずに水溜まりに突っ込ませた、買って数日にしかならない靴。
または、返却義務のある映画。登場キャラクターにかんして理解を深めていないといけなかったアニメや。
日頃からただでさえ取りこぼしの多い、彼女らの手が、顔も知らない一人の、どこかの少年の落としたライクのために、取り逃がしてしまったもの。余計に支払わなくはならなくなったもの。
私の心はこっそりコップ、と今夜ある女子は一人の部屋で考えている。
カスカスの責任感、それを持って歩く。
歩くから、と別の女子が夜道を行きながら考えている。
ライクは落ちていったのか?
剥がれ落ちて、いや、無理に剥がされたのか剥がしたかったのか。
それなら、と別の女子は明るい食卓を家族全員と囲みながらも、頭の中で考えている。
なぜ痛みは彼に何もしなかったの?
もう行くべきだってことにしてしまう痛み、そんなだったりした?
冒険を進める気が失せつつあるのに、コントローラーを持ったまま、別の女子はそれについて考えた。
全てが急に起こったんだとわたしは考えたい。
他に術がなかったのだとわたしは考えたい。じゃなきゃ、悲しいことだと考えてしまいたくなる。
心は、それにどう向いたかな。どういう善があり、どう汚しにいったのか。
高校に上がってからの彼の見たものの中で、新しい日々はどんな感じだったかな。
それはただのライクだ。
それは、だからこそただのライクではないとも、数人は薄々気づいている。
ランニングマシンに、落とし穴はない。
でも、七月の最初の夜、その男子は見事にじぶんの過信に気づかされた、よそ事に気をとられすぎていたために、派手に倒れそうになるが、何とか耐えられた高校生としてじぶんを保った。
優しく不動の、フローリングの床に移りぺたりと両ひざをついた格好だ。
ペットもいない空っぽな家で、彼以外に家人はみな不在で、空しく床を見つめている彼を止めてくれる者はいない、彼以外には。
「やめやめやめやめ」
彼は、声に出していいながら立ち、そしてもう二度とライクのことは考えない。全ての、どんなライクのことも今後一切、もう彼は一人では考えない。
同じ夜、別の少年は自室にいて、カーヴァー氏の詩集にずっと前に挟んでおいたあの正解ならば、二度とみつからないでいい、と考えていた。
少年は電気もついてない部屋にいて、わざと椅子を軋ませる。
目の前にあるものの意味の重さが見えてはいても、手をつける気にはなれずにいた。
ライク、と世界のすみっこでひとこと呟いてみる少年少女たち。
天井をじっと見上げているのは、少年少女たちがその一点をずっと見つめ続けているのは、甘いからじゃない。
分かりやすい苦しさも、やりきれなさも、漠然とした不安さえ、塵一つ分もどの胸にもない。疑わないようにしながらも疑いがあり、疑いたくない疑いも疑いたい彼らの胸。
分からない、と思うと同時に高校生たちは、皆一様にこうも感じられていたのだ。
絶対なんて、と。




