時々
私は、私だけの思い出に、ほぼ圧倒され続けている。沢山の人間がよく知っているとおり、人は思い出に負けて生きていくしかないのだろう。
私の場合、私だけの思い出はちょっと他の人間より小さく、姿勢が低い。
私のは、しょっちゅう息を潜めてどこかに隠れている。
そして、ふいうちに私の腕にかみついてくる。
まだ、存在している、こんなにも鮮やか、昔のことと済ませていい問題ではない、そういわんばかりの唐突さで。
思い出は、気恥ずかしく痛いものだ。急に出てくる。はつらつとしている、いつ見ても彼はそう。
彼は私の日常生活を狂わせる。私の一時間や二時間くらいは平気でとっていく。私の手が、私のために入れたコーヒーを捨てさせた。コインランドリーに戻らなくてはならない時間を、私の頭から吹き飛ばした。私の食欲を減退させた。人けのない早朝のうちに返却ポストに入れておかなくてはならなかったCDのことも、私の目には入らないようにさせた。読書時間をいつも奪っていく。思い出は私をかむ。思い出は確かに人にとって大切なものだろうけど、時々あまりに人間味がありすぎる。私じしんの思い出なのに。私じしんの思い出に対し私は、他人に接する時のような扱い方を知っていかねばならなかった。私じしんの思い出に対し私は、いつも身構えている必要があった。
思い出作りに失敗した、といういい回しを耳にする時、これまで首を傾げてきたが、最近ではそれはごみの出し方のようなものなのだと、何となく了解できてきた。
もっとも、私には悪い癖がいくつかあり、その一つに、拾いに行かなくても良いとされているものまで、行こうかどうしようか迷うことというのがある。
それを考えると、こうなったのも仕方がないことなのかという気がしている。
時々、同じ椅子に二人して座っているのだと強烈に意識している。
私は、私の精神の安定のために、じぶんのことを、いつも少しは嫌いでいたかった。
私の感じる居心地の良さというやつは、いらないものを連れてくる性質をしているらしいからだ。




