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 伊場安輝の性的指向は揺らいでいることすらなかった。強い関心を持つほどの他者に出会ったこともないままだったから。

 弱い父親と強い母親、二つ違いのしっかり者の妹と野良出身の飼い猫という家の中で伊場は育った。ようやく就職先が決まったのを機に家を出たのは、小学校中学年の頃から姉弟のように過ごし、いつも遊び相手だった猫が、大学二年の時に死んでからは家に帰る理由があまりないと内心で思っていたから。後々になってみると、独り暮らしなんてろくなものではないと思う羽目にもなってしまったけれど。



 勤め先の上司と寝てしまった日、伊場は初めて分からなくなった。服を脱いで他人とベッドに入るのは伊場にとって初めての経験だったし、相手が同性だったのは予想もしてなかったことだし、その上司が部屋に見知らぬ少年を呼び出して三人で一晩じゅう行為に没頭したことについては、もはやどう感じるべきなのかが伊場には分からず、激しく混乱した。分かりたくもないのかもしれない、と思いながら、伊場は無断欠勤を続けた。そうしてしばらく経つと深夜のアルバイトを始めた。朝の光の中、玄関マットを視界に入れながら伊場はここのところ眠っている。



 高月がやって来た朝も、玄関扉の前で横になっていた朝だった。訳を話せない伊場に、引越しのもろもろを頼まれても、決して高月は余計な真似はしたりせずにスムーズに事が進むように考えてくれる。酷い一年間だった。この一年、じぶんを知る多くの人間、例え書類上であろうと顔と名前が一致して頭に入っている人間であろうと、総じてレッテルを貼られているとしても文句はいえないのだって分かっているつもりだ。でも高校の頃から浮世離れしている存在だった高月のような人間を見ていると、もっと方法は他にもあるんだろうかとぼんやりと思う。



 じぶんを見るその目もろくに見られない。

 高月はじぶんを立たせようとしている。何か部屋の中にあるもので、要るものと要らないもののことでどうとかいう意味のことを話しているようだ。どうでもいい、と口に出していってしまわないようにすることで精一杯だ。

 眠い、とじぶんはいったかもしれない。分からない。



「こんなとこで寝てんじゃねーよお前。背中痛くなってんじゃないの」

 いってしまわないよう、考えてしまわないよう、涙でも使ってやろうかと思う。でも伊場は泣けない。

 あの日直接の上司であったはずの男を酔った時のいい気分で部屋まで連れてきてしまったことを、暗闇の中の少年の肌や坊主頭に不意に手が触れた時の感触を、二人の男のうちのどちらに対しても一発もじぶんは殴らなかったことを、病院まで一緒に付き添ってくれた両親とのこの先のことを、何も知らない妹とのこの先のことを。



 俺は男に耳打ちされたんだ、とそれが伊場の、いちばんいいたくていえないことだった。午前の、人目のある職場でだ。

「もう嫌だ」

 じぶんはまたそれをいう。

 何も知らない友達がいう、わるかったよ。

「ほら立て。サンドイッチとか色々買ってきた。まぁホント早く引越し済ませたいよなお互いに」



 引越したい。本当に本当に本当に、今すぐに引越したい。

 この友人の言葉に伊場は心中で深く同意する。早く引越し済ませたい。全くその通りだった。当の本人でもない高月が、貴重な休日を潰して手伝ってくれている。しかも事情も知らされないまま。伊場は、昔からの友人のため、誰よりもじぶんのためにできるだけ早く引越しを済ませたい。

 だから立った。











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