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小さな夜






 未だにわたくし共は、風の強い夜などになりますと、あの名もなき旅人のことを思い出します。



 当時も今も、わたくし共が暮らすのは、常に薄暗い、常に臭う、常に狭くてみすぼらしい、それに何よりも寂しいこの場所でした。



 ですが、それでも言葉を発することに対して日々返され続ける暴力に怯えなくてはならなかった、都会の日々にくらべれば、と続けている、こんな洞穴暮らしです。



 あの年若い旅人は、嵐のまだ通りすぎない夕方ごろに、どうしようもなくなって、わたくし共に大人しく捕まったのでした。



 この森に迷い込んできた人たちを、わたくし共のところに置いてやるのは、それが初めてだった、ということではありません。色々ありました。



 わたくし共は、泥水をすすりながらこの惑いの森のなかを数日間歩きまわって、弱りきった人たちの前に、まずは具なしスープを出します。芋や木の実を持たせてやり、彼らに安堵をしてもらいたくて、離れたところに位置どります。

 ここで、わたくし共が女性の集まりでなく、男たちもいるということを初めて知ってもらいます。最初から旅人の死角となる位置に潜んで機を窺っていたのです。



 この時に、旅人たちの足を潰しておきます。予告なく旅人を男たちがホールドします、その足めがけて石を振り下ろし、大声で何をいわれようとも何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、石で足を打ちます。

 連中にあまり大きな顔をしてもらっては困りますし、こっそり働いていく盗みなどの面倒ごとも避けたいですし。



 わたくし共は、よろよろと動くようになった彼らの世話をします。

 それ以上はもう、怯える彼らが内心不安がっているようなことは、決して致しません。



 わたくし共の隙を見て逃げ出す人間ももちろんいます、それに足が治るようになるまで食べ物が運ばれてくるのを、礼もいわずにただ待つだけの人間も。

 根が明るいのか好奇心からか、交流を持ちたがる人間、隠し持っていた武器でやはり一悶着起こす人間、隠し持っていたゲームボーイを出すようになり、可愛らしい言葉のないコミュニケーションをはかろうとする人間。様々な人々をわたくし共は見てきました。



 パーフェクト。彼はそういいました。

 わたくし共の暮らしをニコニコしながら観察し、出されたものを食べて、ある日潰された右足を高く上げて静止させわたくし共の中の数人から視線を浴びると、初めてその、彼独特の口癖をわたくし共に聞かせました。

 そして、じぶんはダンサーをやっています、といって彼は笑いました。



 あんなに美しい人はみたことがないと誰がいい出したのだったか。

 あんな白い歯を、口を大きく開けて笑ってみせることの脅威を、久方ぶりに皆が感じていました。

 食事時にわたくし共が、互いによそよそしく、無論会話もなく黙々と匙を動かし、スープやかたいパンを体に取り入れていくさまを見ても、あの美しい青年は怯むことがありませんでした。



 わたくし共が後にしてきたあらゆる物事が、この場所に彼が存在するようになったために、再び眼前に迫ってきたのです。

 彼は、わたくし共には不都合な存在だったのでした。



 けれど、これはちゃんといわなくてはなりませんが、わたくし共の一部分はこういった存在を欲していた、歓迎していた、そこは認めていました。

 彼は火を恐れず、闇の住人たちの立てる音や気配も恐れず、ただわたくし共のためだけに毎夜、月の下で踊ってみせました。



 足が完治していなかった時から、彼は舞い、途中で彼は度々倒れました。

 わたくし共がのたのた寄っていき、まんじりともしない青年を覗き込むと、星のことで何かいっています。

 この暗い森の片隅で、無様に倒れて、独りだというのに、何故彼の目はあんな、不安も何にもないような表情だったのでしょうか。

 すっと二つの腕が上に伸ばされ、わたくし共は旅人に手を貸して起き上がらせて、穴蔵に運びました。

 その身体の軽さを今も憶えています。



 わたくし共の中から、最も清潔な人間、最年少の若い者が一人いて、旅人の去るきっかけになりました。

 あれは危険だと、皆の中で話されるようになっていた矢先の出来事でした。



 もう二度と森にも、わたくし共のことなんかも思い出せないぐらいに、死なない程度の目に遭わせて、魂に痛みを刻んでから外の世界にかえしてあげよう、そんな考えがわたくし共の中で浮上していたのです。

 わたくし共は、本当に弱く、じぶんの心が望んでいることを認められないのです。皆が欲しいのは安定でした。

 若者はこれら全てのことが嫌だったのです。



 だけど、だけどです。

 それにしたってですよ、若さがどれだけの愚かさを撒き散らすものなのかという、そのことがあります。

 あの後、二人の青年が消えた朝から、もしかしたら、と幾度となく考えてきたことか。

 もしかしたら憧れてやまない美しいものに、何も守るもののない、縛るもののない彼が今はなりかわっている、そうとも考えられますが、いいえ、その反対、もしかしたらあの旅人のほうが、共に逃げだした青年のことを、なぶり殺しているかもしれません。



 二人が互いに尊重しあい、穏やかに、とりあえずは無事に今も暮らせていられる絵を、わたくし共は想像することができません。どうしてもです。



 何にしてもあの夜から時だけが流れていて、もはやわたくし共の知る、二人のあの若い青年はこの世界からは消えていました。



 なんて淋しいことだろうかと、このごろのわたくし共はいい合います。

 わたくし共は、彼らの行方を知らない、何よりもそれが知りたいのに知ることができないままなのが、身を切るように淋しい、と。あの二人にかんしては、多くの者が素直な思いを口にできるようなのは発見でした。



 月も雲に隠れ、暗い空をそれでも見上げることを、今でもあの旅人がわたくし共に教えています。今でもです。本当にそうなのですよ、だから夜の森の恐ろしさをよく理解しているわたくし共ですが、彼らのことを想いたくて町の人間のように、夜の散歩をしてみる日もあるのです。

 これは微かに甘く、恐ろしく冷たい。

 ですがこれは、いつまでもとても大切な、わたくし共の思い出です。











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