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 あるところに虫を手で叩く女がいた。

 どこへ行っても女は嫌われ者だった、虫を手で叩く女が、虫を手で叩く少女であった時分からずっと、誰かに好かれた記憶が少なくとも女自身にはなかった。







 虫を手で叩く女の場合、事をややこしくしているのは、女にとって、多くの感情の、その発露の仕方がそう見えて仕方がないのだという点である。それらがいつも黒くて、いつもこちらに向かって飛んでくる、羽虫だからだ。そして毎回、虫を見ると手で叩いた。どうしたいのか決めるよりも早く、彼女は虫を手で叩いた。

 よくても、かるた取りゲームのような動作で、隠したり、振り上げたり、寸前で手を止めたとしてもそれはもう、叩いたのと同然の行為。

 当の彼女が最も印象づよいのは、中学校時代で、同級生のノートを叩いたあの時のこと。最も叩いてはいけなかった、なぜならその娘は、女とも親密になろうとしてくれていた初めての娘だったのだから。

 それはその娘が好きで覚えている途中の歌詞だった。ノートに目を落とした女は反射で手で叩いた。教室じゅうに音が響いた。笑い声が上がった。けれども、とうとうその日、その中に女子の声は一人分もなかった。







 虫を手で叩く女はそのまま歳を重ねる。女の職場に虫を逃がす女の子がバイトで入ってくる。

 学生バイトは、休憩時間や帰りなど駐輪場でよくメモ帳を手に持っている。ある日休憩室の自販機を背にした女は、学生バイトになぜか噂のメモ帳を開いた状態で寄越される。

 女は羽虫だらけのそれを叩き落とした。学生バイトはもちろん驚いた。

 でもこの学生バイトはいい娘で、歳上の女の青ざめて戸惑いを隠しきれない様子のほうがむしろ心配だと考えることができた。何ともないことだと伝えるために拾い上げると、平然とまたページを繰った。そんな学生とは反対に、歳上の女は会話がいぜん続いていることのほうにむしろショックを受けた。







 それ以降、虫を逃がす女の子はまるで仲間同士でやるように、女相手に日々書き上げている詩を読んで聞かせるのだった。

 大抵、聞き手であるはずの女は焦点の合っていないまなざしで、限りなく無に近い存在だ。しかし詩の朗読が虫を手で叩く女に変化をもたらしているのについては、両者ともが十分に意識している。虫を手で叩く女の中身がどれだけ空っぽかということも。







 仕事場での彼女たちは、ひそひそ話をする同性のふたりとしか認識されていない。事実、ふたりのあいだでは他に何があるわけでもない。ただ主導権は常に少女のほうが握っている。

 そして虫を手で叩く女は、女子学生の連れてくる羽音を次々に飲み干す。

 方法もそうだが、このような明確な意思があって女に触れようとする者は今まで生きてきたなかで存在しなかったという思いに、女はぼんやりと打たれている。

 学生バイトに耳打ちをされる、するとたくさんの羽音を内側に送り込まれる、それでも全て女は受け容れる。訳も分からずに。でも、いつだって拒みはせずに。







 ふと思い出したというように少女は女に訊ねる、こうされるのは嫌な気分なのかどうなのかと。

 嫌いも好きも見当たらないと、そう女は思ったし、そういったのだが、結局はこの娘が頭の中で考えているであろう通りのことになっていると考えるべきなのかもしれない。彼女は羽音を飲んでいるあいだ、こうしていてほしいと、頭のどこかで思っている気が今はしている。







 それは小さな黒い点だった。女自身、いつ潰しても構わないような種類の点。

 しかしこの小さな願いはひとつの願いには違いないのだった。














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