大晦日
師走の澄みきった空気の中を、汽船の笛の音が響き渡る。
真新しい洋館が建ち並ぶ坂の上で雪代珠子はその音を聞いてはっと顔を上げた。
青空の下にはどこまでも広がる海が広がって見え、その中を近年珍しくもなくなった外国船が隙間を縫うように世話しなく往き来していた。
「やだ、急がなきゃ」
手に持った風呂敷をぎゅっと抱え直し珠子は石畳の坂道を下駄で鳴らしながら駆け下りる。小さな振袖がその勢いに合わせてゆらゆらと揺れた。
約束のお昼の時間はもうすぐだった。
冬の日暮れは早い。お昼を過ぎればもうすぐにでも夕方になってしまう。
暗くなる前にと夕飯の準備で只でさえこの時間の港街は人々で賑わっている。だが、今は師走。しかも今日は大晦日という事もありいつも以上に人が集まっていた。
珠子はそんな中をとぼとぼと歩いていた。その姿は、昼間元気に坂を駆け下りた姿とは大分様変わりしている。その姿は忙しげに行き交う人々がすれ違うたびにぎょっとした顔で後ろを振り返るほどだ。
そんな人々の視線を受けるたびに、珠子は顔を赤くして顔を俯かせて歩調を速めた。
だが、その顔が赤くなっているのも周囲にいる人には見えていなかった。というのも、珠子の着物と顔は泥だらけだからだ。それも、ただ転んだというには些か眉を顰める位、まるで泥の中に飛び込んだほどに真っ黒な状態だった。
「珠ちゃん!?」
珠子が次に顔を上げたのは、いつの間にか大通りにある夏元堂の前を小走りで通り過ぎようとしていた時だった。はっとして、急いで止まればそこには目を大きく見開いた顔なじみの店主さんがキセルを片手に店先に立っていた。
「そんな泥だらけになって、どがんしたと?」
「あっ、ははは。また、転んじゃって」
そう言って、珠子は苦笑いする。転んだといっても唯転んだのではない。不運なのか、ある意味運がいいのかとしか言いようがない確率で、今朝降った雨でぬかるんだ泥の上に転んだのである。
その、言葉にならない部分を苦笑いから感じ取ったのか、店主は呆れた顔をした。
「はあ、珠ちゃんは本当に鈍臭いけん。気をつけんさい。一応女の子なんばいけん」
「は、はい。気をつけます。あっ、遅くなってすみません!お嬢様が注文していた英語の本を」
「ああ、入っとるよ。全く、大晦日に届けろなんて何考えとるんかね男爵のお嬢様は。はあ、まあ持ってくるから、中で待ってなさい。それと、手ぬぐい持ってくるからせめて顔を拭いていきんさい」
そう言って、店主はカンと煙管の中の灰を道路に落とすと店の中へと入っていった。
その後姿を見送って、珠子はほっと息をつく。実を言うと声をかけられるまで店の前に来ていたことに気付かなかったのだ。危うく通り過ぎるところであった。
せめて少しでも着物の泥を落とそうと手ではたいてから珠子は薄暗い店内へと入ろうとした。
「「「「「わあああああああああああ」」」」」
だが、一歩踏んだその足は後ろから聞えた大歓声で止まった。
珠子は気になって後ろを振り返った。
店の前は大通りになっており、道を挟んで小さな広場がある。そこに大勢の人だかりができていた。皆、何かを囲んで見ているようだ。少し間をあけて再び完成が上がっている。
そんな人々をじっと見つめていた珠子は、店内の方を見る。店主はまだ本を探しているのか、奥から出てくる様子が無い。
再び歓声があがった人垣に顔を向け、珠子は通りを小走りに駆けた。
歓声の上がる人垣に近づいた珠子であったが中の様子は全く見えなかった。
爪先立ちになって何とか覗こうとするが人垣の黒い頭しか見えない。
と、その時中から男性が一人出てきた。そのお陰で人垣に間ができる。その隙を狙って珠子は人垣の中へと突き進んだ。
「す、すみません」
ぎゅうぎゅうと人の隙間を縫って歩き、なんとか前の方へ出る事ができた。
いつもは歳の割りに小さすぎる体が嫌でしょうがなかったが、こういう時に限ってはありがたいと思う現金な珠子である。
ほっと、人の熱気から抜けて冷たい空気が顔にあたり前を向く。
そこには、真っ白な燕尾服を着た男性がお辞儀をしていた。
頭に被ったシルクハットを手で押さえ、顔を上げた瞬間にそのハットを脱ぐ。すると、中からハトが飛び出してきた。
周りから歓声が上がる中、珠子は空へと飛び立っていくハトを眼で追い、そして、目の前に立つ男性へと再び目を向け目を多きく見開いた。
「い、異人さんだぁ」
そこには、シルクハットを胸に抱いて再び周りの人々に礼をする金髪の異国人がいた。
長崎という土地柄、幕末の頃から外国人が多く暮らしている街ではあるが、それでも珠子は目を輝かせた。なにせ、珠子自身はつい一年ほど前に奉公のため山奥の田舎からこの長崎に来たばかりだったからだ。
それに、目の前の男性はとても男の人とは思えないほど綺麗な人であった。白い燕尾服とサラサラとした金髪がとても幻想的な雰囲気をかもし出していた。
と、男性は胸に抱いたシルクハットに、いつの間にか戻ってきていたハトを中に入れた。そして、その上に手をかざす。そして、珠子には分からない異国の言葉で何事か呟いてシルクハットの中を観衆へと向けた。
観衆が見守る中、シルクハットの中は明らかに空であった。
周りからは驚きの声が上がる。
男性は側にいた、子供に確認のため帽子の中を確かめさせる。
「入っていない!鳥どっかいっちゃったよ!」
子供の驚きの声に、周りからも驚きの声が聞えてきた。
その様子を微笑ましそうに見ていた男性は再び空のシルクハットを手元に戻して上に手をかざし何事か呟きだした。
じっと、観衆が見守る中、珠子もじっと固唾を呑んで見守った。
と、男性は突然かざしていた手を外し、顔の横に持ち上げて人差し指を立てた。
「ワン!ツー!スリー!」
そう、男性が高らかに叫んだ瞬間であった、シルクハットからは次々と無数のトランプが噴水の水のように飛び出してきた。
「「「「「わああああああああああ」」」」」」」
周りからは大きな歓声が上がった。
トランプが舞う中、男性がトランプを出し切ったシルクハット手に持ったまま腰を折ってお辞儀をする。
周りから拍手が起こる中、その様子を珠子は呆然としたまま見ていた。
人々が立去っていく中、珠子は呆然と立ち尽くしていた。先ほどの興奮が冷めず、まだ夢の中にいるようだったのだ。
と、ふっと影が差した気がして珠子は顔を上げ目を丸くした。
「えっ!な、何?」
「ハロー?コンニチワ」
珠子の目の前には先ほど、目の前で夢のような事をしていた異国の男性が立っていた。
目の前に来ると大分大きい。だが、金髪の髪に、真っ白な肌そして今日のような青空色の瞳は男性だというのにやはり美しいと思った。
そんな事を考えつつも珠子は混乱の極みにいた。どうしたものかと、目の前で笑顔で立っている異国人を見上げているしかなかった。
と、突然、男性は両手の手の平を見せてきた。その行動にさらに困惑した珠子の目の前で男性は開いていた両手を握る。そして、力をいれているのかぶるぶると小刻みに震え始めた。
珠子は混乱したまま何事が始まったのかと、じっと目の前の手を見つめる。すると、突然ぱっと手のひらが開き中から白いハンカチが出てきた。
びくっと初め驚いた珠子であったが、出てきた物に数度瞬きを繰り返しじっと見つめた。
きょとんとしている珠子に、男性は手でハンカチを広げるとそれを差し出してきた。
「レディーはキレイにしないとね」
「へ?は、はあ」
「せっかく、プリティなレディーなんですから。まあ、ドロだらけでもプリティーですけど」
そう言って、男性はニコリと笑いぼけっとしている珠子の手にそのハンカチを握らせてきた。
その行動を唖然としたまま目で追っていた珠子であったが、はっと手に握らされた真っ白なハンカチを見つめて慌てて顔を上げた。
「あっ、あの!」
「珠ちゃん!!そこにおったん!!」
後ろから夏元堂の店主の声が聞え、珠子ははっと振り返った。
店主がやっと見つけたと言わんばかりに手に風呂敷包みをもってこちらに小走りで走ってくる所だった。
「どこに行っとんの?探したとよ!」
「ご、ごめんなさい!!人が集まってたから、ついっ」
「ああ、洋妻師が何かやっとったもんなぁ。ほら、ご注文の本。汚さないように風呂敷に包んどいたから」
そう言って2、3冊包まれていそうな風呂敷を差し出される。
珠子は慌ててそれを受け取った。
「あっ、す、すみません!!」
「いいえぇ。ん?何持っとんの?ハンカチーフ?」
店主の目線に珠子はあっと手元を見て、慌てて振り返った。
そこには、すでに男性の姿は無かった。
「珠ちゃん?どがんしたと?」
「いえ・・・・・・」
店主が心配そうに覗いてくるが、珠子はじっと先ほどまで男性が立っていた場所を見つめた。そして、手に持ったハンカチをぎゅっと握り締めた。
これが、珠子にとって大晦日なのに今年一番の思い出となった。