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  作者: 黒金蚊
9/14

玖縁

「世の中金やぁ! 裁判だって金で解決しとんのがええ証拠ばい」

 期末テストも終わり、教室の後ろに貼ってあるカレンダーには大きく夏休みへのカウントダウンが始められていた。無論数字を減らしていくのは立花とその一味である。

 そんなクソをつけたくなるほど暑い中、相変わらず政治経済の時間に金の素晴らしさを熱く語る馬鹿教師。それに熱心に耳を傾ける馬鹿立花。世の中馬鹿ばっか。

「つーわけでぇ、玉の輿相手募集してま~すぅ」

 ショタコンということを暴露すんなと心の中で叫ばせてもらった俺も馬鹿。

「ん~……そんなにお金って重要だと思う?」

 違うクラスのはずなのに俺に耳打ちしてくる優希。いくら夏休みまでの消化試合であるといえ、試合会場くらいは守っていただきたい。ちなみにこいつは馬鹿ではない、阿呆だ。

「あ~でも、他で許嫁ならしゃあないから百万で許したるぅ!」

 すまん優希、俺が間違っていた。ここは単なる宴会場だったらしい。

 そんな俺と優希のやりとりを見て、頬を赤らめている咲乃は天使様。あの、優希とは何にもないですから。

 二ヶ月程前、俺は優希宅へ侵入し全治一ケ月の怪我を負った。

 怪我を負った直後に優希が復学するともあれば、あらぬ噂が起こるのも道理である。特に朝倉和泉様を崇める会辺りから、韓国からのF5攻撃に匹敵するのではないかという攻撃もあった。どうでもいい事であるが、その会は現存しない。誰かの手によってデリートされてしまった。そう、誰かの手によって。誰とは言わないからな。

 ともかく、真実を知っている人はあの現場にいた人達のみ。咲乃は諸事情があったらしく、あの現場にはいなかった。当事者である俺が話しても説得力は皆無なのは明らかで、姐さんはそんな状況を面白がっているのか、何も話そうとしない。優希と恭子は姐さんに口止めされているクチだろう。

 つまりは誰も、咲乃にあの日の出来事を正確に伝えていないのだ。

 俺が優希の家へ行った。優希が戻ってきた。

 この事実だけを編集し、真実を歪にしたのは、立花の所業。なんと業の深い事か。血の池地獄で溺れてしまえ。

「おっ、時間だぎゃ。ほな先行くわぁ」

 ぴっちり五分前に授業を終え、エセ教師は去っていく。アレは教育委員会に報告した方がいいのではないかと思いつつ、優希のグチに付き合っているとチャイムが昼休みを告げた。

「咲乃。海斗。ご飯行こ!」

「だから……お前最近居過ぎだって」

「……嫌?」

 そんな上目使いされても知りません。悔しい事に否定も出来ませんがね。

「いっつも仲いいよね二人」

 咲乃さん、それはあんまりです。あくまでアナタのオプションみたいなもんですよ優希なんて。誰が好んでずっと一緒に居たいなんて思いますか!

「なんか今すっごい失礼な事考えてない?」

「滅相もございません」

 心の中見透かれてるんじゃないかと疑心暗鬼に陥る。

 日常と化しつつあるこの風景が無限ではない事。それは分かっていつつも、出来る限り続いて欲しい。その為に出来る事はしていきたい。

 以前、己に誓った事を改めて決意すると、教室内にノイズが走った。

「一年の古賀海斗、土岐多咲乃、天城優希は至急生徒会室に来てください。繰り返します――」

 機械的な発音。しかしそれは恭子の声だった。恭子があんな話し方をするのを聞いた事無いうえ、普段校内放送を占拠しているのは姐さんなので、人違いという考えが拭い切れなかった。それでも不安がよぎり生徒会室へと駆けた。


「和泉が来ないの~」

 第一声がこんなでは誰でも拍子抜けだろう。確かに姐さんが来ないのは不安よりも不思議と違和感のがあるが、どうせ長くても数日の事に違いない。俺にはそれ以上に知りたいことがあった。

「さっきの放送本当に恭子か?」

「あれはボクの対カノッサ機関用の言葉である。……っていうか、そんな事より和泉が大変なの~」

 驚嘆に値する事実がどうでもいいぐらい、姐さんの身に何が起こったのか。宇宙の果てを想像するぐらい想像出来ない。ひょっとすると、人類を凌駕したのか?

 ――それぐらいなら、恭子の声のが驚きだ。

「和泉がもう学校に来ないかもしれないよぉ……嫁いじゃうよぉ…………」

 ……パードゥン?

「和泉が嫁いじゃう~~~」

「と……トツグ? 誰だその羨ましい且つ可哀想な奴は」

 俺の裏返った声が生徒会室生室に響いた。

「何組って言ったかな。そこの次期頭って言ってたよ」

 カシラ。現代を生きる俺達には山賊等が存在してる感覚はない。考えうる使い方は危ない、そう、大手だと山○組だとか黒い社会しか想像出来ない。

 恭子は組と言ったからきっとそうなのだろう。そうなると、そこに嫁ぐ姐さんは―――

「一つ聞いていいか? 姐さんの家庭事情って……」

 いくらガキに見えようが恭子は生徒会長である。それ故か知らないが、生徒会長スキルというのか、感化能力は人並みにはあるようだ。

「和泉の家は浅倉組の一人娘だよ」

 薄々そんな世界の人じゃないかと思っていたんだ。けれど、俺は真実から目を避けていたのかもしれない。

 なぁんてかっこよく決めていきたいが、そんなの俺には不可能な事だ。姐さんの家庭事情がどうであろうが、姐さんは変わらない。しかし、そうなるとひとつの疑問が残る。恭子は何故慌てているかだ。たかがと言っては無礼だと思うが、嫁ぐ程度である。今日は挨拶とかで休みと言った所ではなかろうか。また学校来た時に、話したい事を話せばいいのではないか。

「だから、嫁いだら和泉はもう学校に来ないの!」

 だからという接続詞はおかしいと思うが、学校に来ないというのは聞き捨てならん。

「ちょっ……待てよ! どういう意味だそれ」

「ホリケン? いや、ホリ?」

 突っ込むなら木村拓哉にしてくれ、咲乃。

 空気的に突っ込む雰囲気じゃないし、そもそもホリなんて神功開宝ぐらい古いと思うんだ。嘘です、さすがに飛鳥時代は行き過ぎました。

 まあ、空気読まない咲乃も魅力的なんだけどね。

「ボクもよくは知らないけど、その筋の人に嫁ぐと完全に裏の世界の人になるから表にはいられないとかどうとか。でもこんな別れ方ボクは嫌。だからかーくんにお願いがあるの」

 とっくに治ったはずの頭が痛む。嫌な予感がする。

「……何だ?」

 だが、姐さんに会えなくなるのは、俺としてもお引き取り願いたい。奈落以外なら喜んで火の中水の中、飛び込んでやろうじゃないか。

「婚談を潰してほしいの」

 実に思考時間、一秒あったかなかったか。

 ――そこは、奈落。

「無理。さすがに俺殺される」

 こんな時、姐さんがいなくて良かったと感じる。いたら微笑まれて終わりかもしれない。視線だけで動物の息の根を止めるスキルとか持っていても納得できるお方なのだ。

「それに……そう。某幻想楽団による未だ見ぬ地平線が俺を待っているんだ」

「ボクの邪気眼が覚醒していたら……くそっ!」

 恭子は意味もない左手のリストバンドを擦っている。ガン無視しつつの中二病は大概にしてくれ。

「そういえば、さっきかーくん連れて来て欲しいってメールきたんだ」

 恭子の手中にある携帯のディスプレイには、要請内容が映っていた。

 ――古賀さんを。

 ――今すぐ。

 ――よろしくね♪

 全てを読まなくとも、この断片だけで把握できた。

 これはお願いではない。強制だ。

 偽造という可能性が無いわけではないが、恭子がそんな事するとは思えない。そうなるとこれは本人からの強制文であって……。

 微笑む姐さんと背後の禍々しいオーラが脳裏を、そして体中を駆け抜ける。全感覚が告げる。これは不可避たるFate。Shade。Destiny。キラ無双。

 何とか現実逃避しようとしている自我を保ち、恭子に正面から向き直る。

 恭子は、背筋を伸ばし敬礼していた。つられて敬礼してしまう。二階級特進だけは勘弁願いたい。

「それでは軍曹。頑張ってきてくださいね」

 こんな事をされたら、答えは決まっている。

「イエス・マム!」

 生まれて初めて、フル×タル・パニックを恨んだ。


 姐さんの連絡によると、今病院にいるらしい。連絡通り病院内にて指定場所で立ち尽くしているわけだが、柄の悪いオジサンがウヨウヨしていて、巨大マンボウの精巣の画像を見るぐらい気持ち悪い。

「おかしな光景でしょう?」

 いつの間にか、廊下に姐さんがいた。いつもの制服ではなく、落ち着いた色の和服を羽織っていた。表情はいつもと変わらず微笑んでいるが、いつもより荒々しい感じが向けられた。

「えっと……こういう世界の人って公共の病院使うんですか?」

 いつも完璧な笑みが微かに歪んでいた。あまりに些細な変化だが、今の自分には分かる。それほどまでに姐さんの笑みは芸術的なのだ。

「勿論使いますよ。ただ、いつも多額の投資があるので隠れていますが、今回は恥を晒してもらおうと、敢えてこういう行動を取らせていただきました」

 予感はありましたけど、案の定仕掛人はアナタ様なんですね。怒気も三割増しで、平然を装うので精一杯です。

 それにしても、どこのどいつですか。姐さんを怒らせた原因は。そして己の命を危険に晒しているお猿さんは。

 院内を響かせる攻撃的な足音が急速に近づいて来た。

 角から現れた人物は、左頬に大きな傷痕を残した強面のオッサンだった。

「嬢ちゃんか? こんな真似をしやがったのは」

 ストロベリートークとはかけ離れたものだったが、こんな加齢臭プンプンしそうなオッサンに乱入される道理も無い。邪魔者は邪魔なりに弁えてほしいものだ、全く。

「口に出てますよ、海斗さん」

 私こと古賀海斗。時世の節句を急遽継がねばならないようです。ああっ、おじ様の目つきが江田島平△に似てますわ。

「貴方も随分と肝が据わってきたみたいですね。実に喜ばしい事です。江●島平八なんて知ってる人は、あなたの年代には少ないと思われますが。それと、そこの貴方。こんな真似とは心外です。先に手を出したのはそちらです。彼には注意しておいてくだけます? 体を許可無しに触るから、こうなると」

 姐さんが味方だとこれほど頼もしいとはさすがです。姐さんがいなかったら、僕、おじ様に睨まれた時点で、この世の終焉を肌で感じられました。

 そもそも、姐さんに狼藉を働こうなんて自殺行為なのだよ、ワトソン君。

「さっきから下手にでておけば若の事愚弄しおって! 死に晒せや!」

 仮にもここは病院である。そこで尖った光り物を堂々と出す大人を見た事があるだろうか。

 ――ある。注射の針とかである。

 では、十七歳の女性がドスの刃を握り、大の大人を吹き飛ばす光景を目の当たりにした事はあるだろうか。

 ――俺は今、目の前でスロー再生にて直視した。

 テレビでも見る事の無い衝撃映像。オジサンはあらゆる関節があらぬ方向に曲がっている。グロテスクでモザイク処理が必要なぐらいの衝撃。

「姐さん? これ、死んじゃったんじゃない?」

「ちゃんと生きてます。死んだほうがいいと思える苦痛とは思いますけど。その様に加減しましたし、所詮は護衛術です」

 いいえ。護衛術なんて遙かに凌いでいます、姐様。

 今日ほど本物の武術と通信空手の格差を感じた事はないです。

 ドスを掴んだ姐さんの左手から鮮血が垂れていた。出血量こそあまり無いが、止まる気配もなく、流れ続けている。

「姐さん、手!」

 姐さんは左手を見つめ、何度か手を開いては閉じ、俺に微笑みを返してきた。

「骨までいっていませんし、神経も大丈夫そうです」

 この御仁に勝てる人などいないのではないのでしょうか。尊敬の上の言葉は崇拝でいいのだろうか。崇拝という言葉すら生ぬるい。崇拝の上の言葉を教えて欲しい。


 姐さんはそんな事より話があると言ったが、先に無理矢理病院で手当てして貰い、騒動が収まりそうになかった病院を二人で抜けだした。

 今は姐さんの強い要望によりファミレスで話す事になった。

「いや、なんでこんな所?」

 和服では目立つので着替えようと提案したものの、洋服が一着もないという姐さんは制服に着替えていた。また、姐さんの目の前に焼鮭定食とホットレモンティーが置かれた。さすがに合わないだろうと思いつつ、何も言わない事にする。

「いつもは親が許してくれないのですが、今は尾行もいないので来てしまいました。嫌でした?」

 笑顔は歪みのない、普段の完璧な笑顔へと戻っていた。

 姐さんとふたりっきりで嫌なわけが無い。しかし、姐さんの先程の発言。

 ――いつもは尾行されていたと受け取っていいんですね?

 毎夜の散歩は二人っきりじゃなかったんですね? シ ニ タ イ 。

「その事に少し関係がある話です。今回の事の発端は私のお父様の組の後継者がいないという事です。そして、私を嫁がせて合併しようという魂胆だったのですが、先程拒否致しましたので残された道は二つ。組を解散させるか――」

 再度、頭が脈打つように痛み始める。

 姐さんはホットレモンティーを注ぎ、香りを確かめながらも言いきった。

「婿を連れてくるか」

 また嫌な予感がする。そんな世界に住みたくないです。

「安心してください。私としては、解散させるのが最善と考えています」

 ホットレモンティーを上品に啜る。

「やはりレモンを入れてしまうと紅茶の風味が台無しですね」

「はぁ……」

 少し困ったかのように微笑む姐さんがとても珍しく、まともな受け答えが出来なかった。

 姐さんはティーカップを机に置くと、再び語りだした。

「しかし、お父様は病気を患って余命幾分しかない身。息を引き取る前に、少しながら不安を取り除きたいと思っています。ですので、尾行の報告の中に度々出ている貴方に、婿役を演じていただきたいとも思うのです」

 姐さんが鮭の切り身を口にするのを見ながら血の気が引くのを感じた。

 組長とやらに挨拶。いちゆとり学生には荷が重すぎる。

 目の前のドリアはもう冷めかかっていた。


 流れに流され気が付いた時、目の前には虎がいた。

「おめぇさんが古賀海斗かい?」

 殺意すら感じられるその迫力。まるで魔法少女が魔王と呼ばれる所以となったシーンを、映画館上映で一列目から見た様だ。つまるところ、姐さんの父親だけはあると言う事だ。

「皆さん下がっていただけます?」

 改めて頭の整理をしたい。

 俺は半ば強制的に、姐さんの家に連れていかれ、床に伏した虎の前に投げ出された。そして何回か学校で見た記憶のある男が、その虎に耳元で報告し、今に至る。

 周りには姐さんと虎様しかいなくなった。何をされるのだろう。もしかして拷問されるんじゃないのか俺。エンコ詰めるんで、タマだけは勘弁してください……。

「和泉ぃ、なんで断っちゃうん?」

 ――猫がいたような気がした。

 誰の発言なのか、全く分からなかった。消去法の結果と、その解を否定する思いがせめぎ合う。背理法とか必要なのかしら。すいません意味分かってません。

 姐さんは動ずる事も無くお茶を啜った。部屋中に広がる香ばしい薫り。過去の経験則からするとこれは黒豆茶だ。

「和泉。儂は普通の緑茶がええなぁ」

「丹波の黒豆茶ですよ?」

 完璧な笑顔は反論を許さない。

 やっぱり虎が猫になったとしか考えられないようだ。

 虎といえど子に弱いのか、それとも姐さんが強すぎるのか。

「断った件は、私の許容範囲を侵してきたからです。それに私はあの方を好きになる事は有り得ません。反論も受け入れません」

 反論 も なんですね、わかります。

 虎様の視線は何故か助けを求めてきているが、部外者である俺に出来る事など何一つないという想いだけ目に込めて返信を試みる。

 虎様は小さく唸った。

「あっ。吐血して布団とか汚さないでくださいね。布団が汚れますから」

 このお蓮さん発言。さすがに吐血ぐらい許してあげてください。

 虎様は何事も無かったかの様にカカカっと笑った。

「で、あんちゃんは何用かえ?」

 先刻まで伸びきっていた糸が、突然張り詰められた。

 いや、部下がいる時よりはずっと自然体であるのだが、それでも威圧感がある。普段から姐さんと居なければ、気を失ったかもしれない。四ヶ月近くも姐さんと関わっているのだ。何とか平然を保てるよう躾けされているのが救いだった。ワン。

「ほう。あんちゃん、肝っ玉据わっとるな」

 強くなった虎様からの威圧感が、急速に萎んだ。そこに反比例し、姐さんから紅黒いオーラが目認出来る。

「お父様。寿命の前に、私の手で、人生の幕を閉ざしてさしあげましょうか?」

「すんませんっしたぁ!」

 大猫は小さくなり子猫へと退化したようだが、すぐに大猫へと戻った。

「海斗様は、私の愛する方です」

 大猫様は唖然。俺は興奮。まさか姐さんから海斗様なんて呼ばれるなんて、至福。嘘でも姐さんから愛する人と言われるだなんて、至福。

 ――いや、極道はお断りですけどね。

「ホンマか! あんちゃんやるのー! このじゃじゃ馬をよー乗りこなしおるの」

 ハッハッハッ。そんな人間存在しませんよ。俺も忠告されていますから。「私が貴方に許す最短距離は十九センチです」ってね。二十センチよりちょっとまけてくれたんでしょうか。よう分からんがな。がはははは。

「どこまでいったんよ? えぇ?」

 大猫様。同性にもセクハラは存在しますからね。それに、裁判まで時間掛らない様な、横からありえない冷気が洩れてきてますから……。ご愁傷様です。

「お父様。冗談はお辞めていただけませんか?」

「冗談をしてるのはどっちだ。なぁ、和泉」

 虎は姐さんに動じるどころか、冷気すらもあっさりと呑み込んだ。

「去年と同じ過ちを繰り変えずつもりか? 和泉よぉ」

「それは」

 四つの瞳が俺を射抜いた。

「海斗さん次第です」

 えーっと……なんか責任重大? ですよね。

「海斗さん」

「は……はいっ!」

「以前、元会長の話をした事を覚えていますか?」

 皆で沙耶の見舞いに行く前日の事。あの時は姐さんは今はまだ話せないと言った。

「もう想像もついていると思いますが、原因はこれに関連する事です」

 ええ、『これ』ですね。代名詞にしてくれているのが姐さんの優しさなのだろうか。

「去年、健嗣さんはここで崩壊してしまいました」

 姐さんは俺との間にある、畳縁を指した。

「退くならば、今が最期。私を信じていただけるのならば、其処を越してください」

 吹き飛ばされそうな威圧。鳥肌を立ち、身震いが止まらない。

 たった一歩。それだけなのに、ベガとアルタイルの様に遠く感じた。

 かつて、姐さんが惚れ込んだ男ですら挫折した困難。それを俺なんかが越えられるのだろうか。

「あんちゃん」

 虎様と目が合った。返事をしようと思いつつ、乾ききった喉は空気を漏らすだけだった。

「一歩踏み出す。それだけじゃ」

 姐さんの笑顔の様に、虎様の目は優しくも厳しさが見えた。

「じゃが、少しでも悩むぐらいなら静かに去れ」

 有無を言わせぬ、野太く低い声。

 すべき事は、この目の前の畳縁を越えるだけ。それなのに、足は竦んで進んでくれない。

 虎様が息を吐いた。それは、諦めの印。

 終わってしまった……。

 どうして、たった一歩が出なかったのか。後悔ばかりが募りゆく。

「なぁ和泉。もうええやろ」

 姐さんが立ちあがる音がした。

「海斗さん」

 息の掛る域にまで近い場所に姐さんの究極にまで整えられた顔があった。

「今一度、本質を見つめてください」

「……本質?」

「ええ。老いぼれの余興に付き合う事でも、畳縁を越える事でも無いはずです」

「和泉?」

「何か、勘違いなされていませせんか? 海斗さんはまだ諦めてはいません」

 そうだ。一体……何を血迷っていたんだ俺は。これは虎様の威圧に耐え抜く事とか関係ない。諦めたくないという気持ちだけで、周りをなにも見ていなかった。

 姐さんが求めている事。

「何があっても、俺は姐さんを信じるよ」

 例えどんな事が訪れようとも、俺は姐さんを信じて進む。それだけである。畳縁を跨ぐのは、その為の一歩でしかないのだ。

 自然と俺の左脚は、目前の畳縁を跨いだ。

「という事です」

 大猫様は頭を掻き毟った。

「いや、反則じゃろ……」

「反則はお父様のが先です。脅して平常心を奪おうなどと姑息なマネを」

 大猫様は視線を逸らし、口笛を吹きながら外を眺めて始めた。

「おっ。そうじゃ」

 不意に好奇心溢れる猫目は俺に固定された。

「和泉。お前これからあんちゃんと行くんじゃろ?」

「ええ」

 何処に行くんですかね。いえ、なんとなく想像出来ますけど。出来れば当たって欲しくない場所ですが。

「万が一っちゅう事もあるわけだ」

「その万が一も起こさせるつもりはありませんが、絶対に起きないと保障はしかねませんね」

 やっぱり万が一ということもあるんですよね。きっと、怖い人ばっかり居る所ですよね。

「そうじゃろなぁ。そうじゃろなぁ」

 どう見ても企み顔。何を考えているんだこのサディストは。

「じゃあ、ちゅーぐらいここでせーよ。ええやろ? そんぐらい。こっちも老い先短いこの身。和泉の晴れ姿を見る事も無いんかもしれへん。誰かが死ぬ前に、明るい未来っちゅうんを見せぃや」

 織田信長も吃驚のサディストっぷりだよ!

 仮にそれを実行すると姐さんとの距離は零となり、俺の命の保証も零である。同時に、病院での、死んだほうが良さそうだった人が浮かぶ。ああなるぐらいなら、出来る限り痛みの無い様死んだほうがいいかもしれない。

「いや……あのですね…………」

 ――あれ、でもさっき顔近づいた時、数センチでした?

「愛し合う仲、なんじゃろ?」

 虎様の声はかの天●竜閃すら破った虎伏絶●勢より低い。今日感じた姐さんのどのオーラよりも暗く深く感じる。体温が下がり続け、全身が硬直する感覚に陥る。

「出来ん、言うんか?」

 前方の虎、後方の狼。どうしようが僕の命はありません。というか、さっき己で冗談だって決め付けただろ。今更そういうのは持ち出さないでいただきたい。

「別に構いませんよ。ねぇ、海斗さん」

 それは……咲乃への気持ちが揺らぎかねないので遠慮したいが、これ以上遠慮したら命を取られかねない。

 ――せめてここは男らしく。

 目を閉じ、少しためらったが勢いに乗せながらも軽く唇と唇を重ねた。

 何秒経ったのか。ゆっくりと唇を離していった。

「あんちゃん。口と口とは期待以上の事をしてくれるのぅ。イヤン」

 ………ほぇ?

 目前に降臨されている現代神、姐さん。その姐さんが動かない。

 今、口には出せないけど謝らせてください姐さん。すいません。すいません。すいません。ですから命だけはお許しを。

 世界を暗闇に閉ざし、全てを委ねる。

 しばらくしても、世界は何も変わらなかった。左目を開こうかとしたその時、肩に手をそっと置かれた。

 断罪の時がやってきた。自然と、肩に力が入った。

 塞がれたのは、口。とても柔らかく、ほんのり黒豆の香りがする。

 何をされたのか分かった時には、暖かく甘いものが入ってきていた。

「おぉおおおぉぉぉお」

 大猫様の歓喜が耳に入るが、すぐに薄れていく。

 これでも俺は健全な高校男児である。姐さんに舌まで入れられて、理性が保てるわけがない。俺にも出来る事を姐さんに尽くした。絡めたり、吸ってみたり、甘噛みしてみたり。

 やがて、口と口が離れる。

 恍惚とした姐さんの表情に、初めて人間らしさを感じた。美しさの中にある可愛らしさを、初めて見た。

 再び求め合いかけた時、姐さんが止まった。姐さんの顔を覗くと、既に人間味は消えていた。

「まあ、あんちゃんありがとよ。母ちゃんに似ちまった和泉に男が出来るなんて……夢のようでよ。もう安心して逝けるのぅ」

 アナタの嫁さんはこのような方でしたか。ずいぶんとご苦労した事でしょう。

 あと勝手に死亡フラグ攻略しかけないで。


     ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ 


 それから。

 突撃した俺達は何とか目標を達成した。何とかというのは、負傷者も少なからず出たからだ。とはいっても姐さんは擦り傷程度を数ヶ所。俺も打撲程度で済んでいる。一度、銃弾により、隣に置かれていた花瓶が破裂した時には漏らしかけたが、何とか踏み止まった事は内緒だ。

 基本的に二度と思い出したくない出来事だったので、多くは語るまい。

 一段落ついた後も、姐さんによるキス等の御咎めは無いようで、また、虎様もまだピンピンしてるとの事。

 夏休みが明けても、姐さんは未だ上の空でもあった。

「海斗これ何!」

 優希の手には、今日俺のロッカーに入っていたピンクの封筒が握られていた。

 隠していたはずなのだが、何故優希が持っているんだという疑問は持つだけ無意味である。

「止めろ! 俺もまだ確認してないんだよ」

「見せるんだ! カノッサ機関からの警告文かもしれない。あいつらは危険だ!」

 中二病は黙っていただけないと、色々とややこしくなるんです。おわかりかしら。

 まさかそんな古典的な……と思いつつ開けるに開けれなかった封筒。それはパスされた恭子の手によって、高々と朗読された。

 ――内容は、想像通りだった。

 優希と恭子は大騒ぎし、咲乃は意味を理解してないようだが、とりあえず騒いでいる感じだ。

 もう俺の手では止められない。

「お姉も何か言ってやってよ」

 上の空だった姐さんはわずかに瞑想し、普段の雰囲気に戻った。

「皆さんに言っておきたい事があります」

 皆が、姐さんに注目する。

 姐さんは一呼吸おいて、未来の事へのアドバイスらしき事をした。

「本妻足る者、余裕を見せましょう」

 それは今までで最高の笑顔だった。


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