捌縁
初夏である。中間テストが鎌首もたげて近づいてきても、俺は生徒会室でなすべき使命を遂行していた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
「もう……いいな?」
「……待って。まだ……出しちゃダメ」
「ハァ……ハァ……ハァ……んっ」
「もうダメだ! もう出すからな!」
「ダメぇぇーー」
「おりゃ! クイーンのフォーカードによる革・命!」
今は生徒会室にて俺、咲乃、姐さん、恭子の四人でにぎにぎと大富豪を開催していた。優希は何を思ったのかランニングマシーンを引っ張り出し、絶賛息切れ中で水分補給。「んっ」とかガキの●いの笑ってはいけないシリーズ警察編での、窓口のお茶飲みまくるおばちゃんが出てくるからやめてくれ。
「で……優希はなぜにそんなのやってんの?」
ミネラルウォーターを補給し終えた優希は渋々ながら語り出した。
「んっ……見たまんまダイエットよ。最近油断してたらちょっと……」
数日前、事件が起きた。表沙汰にはなっていないが、優希が男数人に暴力を振るったのだ。
男数人というのは取り巻きの一員で、必要以上に優希に迫ってしまったのが原因。優希は単に父親の面影を持つ男と仲良くしていたいだけだというのに、一部の男には違うベクトルで受け取られたらしい。ハァハァしながら集団で取り囲まれたそうだ。
幼いころから喧嘩に明け暮れ、付け加えてかの通信空手を習った俺が全力で相手しても勝てるかどうか微妙な相手だ。そこらの奴では圧倒的な数で押し切らない限り、歯が立たないことであろう。結果として、男共は例外なく血祭りにあげられ、病院送りとなった。
姐さんの水面下の根回しによって、事態が白昼の元に晒されることはなかったものの、取り巻きが何人も病院送りになっていれば当然噂は広まる。一説には、俺、古賀海斗が暗殺したのではないかという噂があるが、これは全くもって事実無根である。なんで俺がそんな事をせねばならんのだ。まあ、咲乃にちょっかい出す奴がいたら丁重にお消えいただきますがね。行き先は三河湾。
「実際体重とか個人的にはどうでもいいと思うんだけど、やっぱそんな大事?」
恭子で遊んでいる姐さんが答えてくださった。
「私も気にはしませんけど、大抵の女性には大事なんですよ」
「そうそう。胸でかいとか、お姉のように身長高いとかでもないと余計目立つんです!」
なぜかキレ気味に優希。その辺はドンマイとしか言いようが無いんだけど。そもそも優希って現状でさえ細過ぎると思うんだが。
小さい順に――と言っても恭子以外大差ないのだが――恭子、咲乃、優希、姐さんと、顔より少し下へと視線を移す。姐さんが唯一平均と言われる域に達するか否かである。
「まあ、神様も全て与えるわけじゃないって事だな」
三人の殺意が集中し、口による集中砲火が入った。
「またボクを侮辱したなー!」
「どうせ世間的にちっちゃいわよ!」
「そんなにこの制服似合わない?」
咲乃はいつも通りというべきか……。スカートが少し短いと思いますが似合ってますよ。
「ダメですよ古賀さん。大抵の女性は気にするものですから」
姐さんは気にしてないご様子で一人梅こぶ茶を啜って一息ついていた。
ああ、本日は梅こぶ茶なんですね。あれも美味しいお茶である。
隣では優希が再びランニングを始めていた。
「まあ男遊びが減るのはいいんじゃないか? 親としてもその方が嬉しいと思うぞ」
優希にとっては普通に友達と遊んでいるだけなんだろうが、周りはそう見てくれない。何度も異性交遊を理由に生徒指導を受けているのも事実だ。
「ああ……親は何にも言わないから」
優希は声を詰まらせた。今までに見た事のない反応。父性を異常に求めている辺り、何か理由があるのだろうと思ってはいたが、そのような複雑な問題らしい。
「家庭は人それぞれですよ。私の家は厳格ですので、そういう放任主義は羨ましいものがありますね。神坂さんの所も自由でしたね」
こういう時、姐さんの心配りが効く。まずは話題自体は変えず、扱いやすい人物に移す。それをいとも自然にやるのだ。ここでアイコンタクトを図れる自分が誇らしいね。
俺の発言でこんな事態になった事を忘れる事が可能なの話だが。
「ボク? どうなんだろ? 咲乃は?」
お前の所は放任主義だったろ。どうやら土佐ジロー以上に放し過ぎで精神年齢が止まってるようではあるが。
「お父さんとお母さん? もういないけど、優しい人だったよ。といってもお母さんは私産んですぐ死んじゃったし、お父さんもずっと前に死んじゃったんだけど」
こんな所にも地雷が埋まっていたなど、誰が予想しただろうか。このメンバーで家族関係の話は御法度と、我が裁判所は判決を下す。
どうこの話を切り換えるべきなのか。俺には経験不足でそんな話術スキルそもそも持ち合わせていない。情けないが、姐さんに託そうと思う。
姐さん、助けて☆
「お父さんってば凄いんだよ。筋萎縮性側索硬化症っていう珍しい病気だったんだから」
確かに聞いたこともない病名だが、そんな楽しそうに言われても笑えるはずがない。人として。
「筋萎縮性側索硬化症と言うとあれですね。古賀さんは知ってます?」
姐さんまでのらないでください……。今この場の雰囲気を変えれるのは貴女だけなんですから。恥かしい事に。
「どうやら知らないようですね。筋萎縮性側索硬化症と言うのは発症確率こそ低いものの、罹患なさると確実に死に至る難病です」
「必ず死んじゃうの?」
意外というか、やはりというべきか。興味を抱いたのは優希だった。
「現在ではまだ確かな治療法が無いはずです。他にも類似の症状がいくつかありまして、それらを総じて進行性筋萎縮症と呼んでいると記憶しています。なにぶん、うろ覚えですので鵜呑みにしないでくださいね」
何故そんな事をご存じなのだろう。普通は知りませんよ。などと思ってもさすがは姐さん。雑学で皆を虜にしてしまい先程までとは違う雰囲気になっている。
「筋萎縮性側索硬化症の症状としては……土岐多さんは御存じかと思われますが、まず全身の筋肉が硬化し始め、筋力が低下します。筋肉とは何も運動時に使うものだけではありません。例えば、私達の心臓は心筋と呼ばれる筋肉を使って全身に血液を送り出しています。心臓に限らず、肺を膨らませる横隔膜も筋肉です。そのような筋肉全てが硬化していくので死に至るのも当然のことです。また、障害を受けるのは運動神経のみですので個人差はあるものの、平均として息を引き取るまでの約三、四年の間、苦痛が続くそうです」
まともに呼吸も出来なくなっていくのに、苦しみが安らぐ事は死を迎えるその時まで訪れない。希望の一つもない病。
「お姉って物知りなんだね!」
「さすが和泉♪」
純粋に褒めるおばかさん達。乳酸菌取ってる?
「以前そんなお話を伺った事があるんです」
あの……そんなの一体いつ、どこで伺ったんでしょう。
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週末。沙耶の見舞いも終わり、暇だったので三十分程掛けて名古屋まで出てみた。親族がお金だけは振り込み続けてくれているとはいえ、そう使えるもんではないので何かを買うなんてつもりは毛頭なかった。単に定期テストの気分転換みたいなものである。例え、全く勉強しなくとも、こういうのは大切ではないだろうか。
滅多に来ない名古屋の地下街を彷徨っていると、見慣れた人物を発見した。
遠くから一番分かりやすい人物。それは、姐さんではない。姐さんはオーラを隠せるようで、隠してしまえば漆黒の黒髪で日本人ばかりの街中に溶け込む事が出来る。恭子も同類だ。そして咲乃は名古屋に来ない気がする。
消去法にする必要もない。そこにいたのは、優希だった。
金色が織りなす双対の髪尾を揺らしながら闊歩している優希の隣には見知らぬ男が居り、二人は始終笑顔だった。
眺めていた所為か、優希が俺の視線に気付いて振り向いた。
優希はただでさえ大きい目を広げ、口も半開きになった。
そんな新鮮な反応されても困る。ギザ十を使ってまでお釣りを無くすか、諦めて札を出すべきか悩むぐらい困る。
手を振って返してみると明らかに機嫌を悪くし、男そっちのけでこちらに詰め寄って来た。男も気付いたのか、俺を睨みつけながら優希の後を追う。
「何で手なんて振んのよ」
「こっちに来る方がオカシイだろ!」
「知り合いに会ったものの、声を掛け辛いから手だけ振ったとか、そんな距離感ってアタシ一番嫌いなの!」
「分かってんならそれでいいだろ」
「嫌いとも言ってんでしょ」
もっと反論したかったが、口が動く前に男が優希の隣に追いついた。こちらを舐め回す様に観察している。同性に凝視されて喜べる性癖はまだないからマジ勘弁してくれ。
「なぁ、優希。こいつ、誰?」
軟派でゆとりな代名詞が似合う喋り方をする男。この喋り方には隔靴掻痒の感がある。
男の方も俺の敵意を察したのか、目を細めて顔を近づけてきた。時代錯誤甚だしいうえ気持ち悪い。
我慢出来ず、ついつい頭が出てしまった。
「いっでぇ!」
抑えきれない俺と頭を押さえて蹲る男の間に、優希が立ち塞がった。
「ちょっと何してんのよ海斗!」
「条件反射だ、仕方ない」
「仕方なくなんて無いわよ!」
やろうと思ってやったんじゃない、自然に動いてしまっただけだ。何故、ここまで責められなければいけないのだろう。
言葉にしたい気持ちにも駆られたが、口に出せば何かが崩れ落ちる気がした。
優希の目も、本気だった。
一度、大きく深呼吸する。肺が空気で満たされ、身体のすみずみまで酸素が行き届く。
「悪かった。俺が悪かったよ」
これが最善なのだろう。既に周囲にはヤジ馬が集まり始めている。これ以上事態を悪化させないためにも、三十六計逃げるに限る。
「じゃあ、またな」
「待って! 海斗」
優希の白く細い指が俺の肩を掴んだが、俺はその指を振り切った。
「海斗!」
「あのなぁ」
恥ずかしいのであまり人混みの中で名前を呼ばないでいただきたい。
そう忠告しようと後ろを振り向くと、先程まで蹲っていた男が目前で右腕を振り被っていた。
咄嗟に後方へ飛び退きながらも、左足で男の右脚の付け根を軽く蹴って距離を取る。
男の拳は俺の遥か前で振り落とされた。
「危ねえだろ」
距離を保ちつつも吐き捨てやった。
「あぁ?」
しかし、男の眼は既に血走っていた。
「ちょっと! 雅も海斗も落ち着いてよ」
「俺は落ち着いてるっての」
尋常じゃないのは、雅とかいう奴だけだ。
「テメェもどうせコイツの身体目当てなんだろ?」
雅とかいう奴の醜悪な笑顔を見た時、何かが弾けた。
「ぁあ?」
こいつはそんな目的で優希に近づいているのか?
「俺がたっぷり楽しんだら渡してやっからよ。今は 消 え ろ !」
イラつきはもう限界を越えていた。
俺の理性は死海まで飛んでいき、水面でプカプカと浮いていた事だろう。
帰って来た時には目の前の男が血塗れで倒れていた。
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忌まわしき中間テストが目前に迫っていた。しかしそれ以上に、生徒会室が静かである事に焦燥感を覚える。
名古屋で目撃して以来、優希が学校に来ないからだ。いつも何かと突っ掛かってくるやつだが、何日も居ないとそれはそれで淋しいものがある。
「ゆーちゃん今日も来ないんだね……」
ここ最近、静かな生徒会室に咲乃の呟きが響いた。
咲乃がそんな事言うと俺も一層淋しくなる。なんで優希とあんなに仲良いんですか……。
ふと、姐さんと視線が合った。
かの名古屋駅地下街暴力事件も、姐さんが水面下で動いてくれたらしい。あれだけのギャラリーがいたのだから、相当な労力が必要だったのは確かである。
本当に、本当にすいません……。
姐さんは軽く息を吐き、お茶を啜った。
「優希さんは今、家に帰る事もなく男性を取っかえ引っかえして遊んでいる様です。最近は落ち着いてきていたのに至極残念です」
な……なんて破廉恥な! いや、想像はつきますけども。また勘違い野郎共によって暴力事件が起きるのは時間の問題ではなかろうか。
「実は昨日、彼女を見つけて指導しまして。今日はお母様と一緒に家にいるようにと忠告しておきました」
懐深い姐さんがそこまでするのは珍しい。優希は姐さんですら許容出来ない一線を画してしまったのだろうか。
などと思いに耽っていて今まで気付かなかった。何故か俺に集まる視線。
確かに淋しいとは思った。ああ、認めてやる。この静かな生徒会室は何か足らないのだ。しかし、だからと言って他人が関わるようなことではないと思うぞ。家庭内で解決すべき問題だ。俺が出しゃばっちゃいけないんだきっと。
「お願いね……海君」
咲乃による会心の一撃。気付いた時には既に退路は全て断たれていた。ただ、前進あるのみ。
「恭子。優希の住所――」
「ダメ! ぜ~ったいダメ!」
生徒会長による拒否権の発動。いつもなら諦めるだろうが今日はワケが違う。優希はやっぱここにいてほしい。連れ戻せるものなら連れ戻したい。それも俺の本心。
「頼む恭子! 強き心を取り戻せ! そして失った誇りを呼び返せ! 観柳邸で止まった時間を動かすのは今なんだ! 目醒める時は今なんだ!」
「二次元が初恋じゃダメですか?」
こ……このアマやりやがる。俺の発言が、る●剣の台詞且つ、う○われるものラジオの三宅×也さんがゲストの回を聞いていないとこんな返しは出来ない。困った時の姐さんヘルプ!
「恭子。いざという時に判断出来ないのは貴女の悪い癖です。しかし、それは私がどうこう申し上げても治る訳ではありません。そこで、こういうのはどうでしょう? 私はこの紙を古賀さんに渡します。その代わり、これでどうでしょう」
姐さんがヒラヒラさせている紙の内容は俺には見えないが、恭子には見える様になっている。それを見た恭子は数秒間微動だにせず、ついに動き出したと思うとふてくされて渋々許可をした。
「では古賀さん、これを」
渡された紙には優希の個人情報がいろいろ書かれていた。なんと準備のいいこと。つまりはこの取引、俺が大損する仕組みだったと言う事か。相変わらず姐さんは底の知れない御方である。
姐さんに渡された紙の内容を読み、俺は優希の事を全然知らなかったという事を悟った。
優希には二つ離れた姉がいた。そう、いたのだ。もうこの世にはいない。
俺にはよく解らないが、姉は容姿端麗、頭脳明晰。それだけに親の期待は非常に大きく、長女を悼んだ両親は、自助の優希の育児に興味を示さなくなり、冷めきった二人は別居を始めた。優希は今、母親の元にいる。優希が父親の面影を求めているのもこの辺りが大きな要因となっているのだろう。
中学の頃には既に男を侍らしていた優希は、同性から強く妬まれ、虐めの対象にもなっていた。あまりに陰険なイジメに耐え切れなくなったのだろう。クラス、学校を巻き込んでの大騒動を起こし、一ヶ月の停学を食らった。それがこの高校に進学した一因でもあるようだ。
「安心できました?」
目を通し終えると同時に、姐さんがコロコロと笑いながら尋ねてきた。どこに用意していたのか、右手には扇子まで握られている。
「えっと……どの辺りに安心する要素が」
姐さんは華麗に広げた扇子で口元を隠した。広げられた扇子には、口に出すにはためらわれる漢字二文字が大きく、赤文字で、書かれていた。
「ですから、優希さんも処――」
「姐さーーーーん!」
姐さんの言葉を掻き消せれた事を祈る。
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高校から遠く離れた地。車でも一時間近くかかる場所に、優希の住まう屋敷があった。
フィクションなんかでよく見る、大金持ちが暮らす広大な敷地。庭だけでまことちゃんハウスが何軒建てられるのか気にもなる。
「こちらアルファ。予定通り一九○○時より作戦を開始する、どうぞ」
姐さん情報によると、優希の家はセキュリティが張り巡らされており、残念な事に立花に手伝ってもらっている。本当に残念なことである。
そんな事も知らずに本人はやる気満々で音標記号を使っている。二人しかいないと言うのに何の意味があるのだろうか。どうせ死がふたりを★かつまでのシエラにでもヤられたんだろう。
しょうがないので別作品でノってみる。
「古賀、出る!」
俺は塀を飛び越え侵入を試みた。
センサーに関しては全て姐さんに任せている。産地を公表する野菜よりずっと安心度が高い。
問題は囮となる立花。ここ天城家では三人の使用人が仕えてえているらしい。立花が三人、ないし二人を引き付け、その隙に俺が優希の元へ行くことになっている。
「来た! 二人だ」
もう一人はどこにいるのだろうか。己の周りを警戒してみるものの特に気配は感じない。
「ヤベッ。あとは……任せた」
「ああんっモット!」という悪い意味で鳥肌の立つ断末魔を最期に、立花との通信は切れた。流れるのはノイズのみ。さらばだ立花。それはもう永遠に。逢ってももう近づかないでくれ。
という馬鹿やる暇はない。急がねば二人が戻ってきてしまう。案の定立花がやられたのでもう特攻しかないのだ。案の定。やっぱり大事な事だから二回。
姐さんが調べ上げた警備のスキ間をかいくぐり、室内へと踏み込む。
――今更なんだが、こんな事出来たなら姐さんだけで良くないか? 俺っていらない子?
ややあって、入ったのは地下。十分ほど前の情報によれば、優希は三階の部屋にいるそうだ。
外は初夏らしく、半袖だと肌寒い程度であったが、地下は輪をかけて冷え切っている。
吐いた息が白い煙と化す。
三階までの道のりがとてつもなく遠く感じる。外にいる使用人達がいつ戻ってくるかもわからない。見つかるわけにはいかないのだ。相反する焦りが身体を締め付けてくる。もう三階まで走り抜けよう。天城邸の見取り図を思い出し、部屋までの最短距離を手繰る。
――行こう。
飛び出したその先に、黒衣の青年が立っていた。いわゆる執事というやつか。
「お前が海斗か」
自分のことを知っている。こちらの事は調査済みという訳か。使用人の待ち伏せ。どうすべきか、俺。
「今なら何もなかったことにしよう、帰れ。これ以上優希様に近づいたなら、しばらく病院で過ごしてもらう」
どうするも何も無い。やはり、後退などあり得ない。もう、迷わない。目の前にいる相手を、退けていくだけ。
幾度かのフェイントを入れ、右から切り込んでフックを放った。
「交渉決裂、だな」
気がつくと、歪んだ床を這い、左側が真っ黒に染まっていた。左の瞼が熱く痛む。距離を取りながら立ち上がろうとした所で、ぼんやりとした頭でもようやく確認できた。
左瞼を裂かれたのだ。理解した頃には視界のブレが多少治まり、血が止まらないことにも気づいた。結構深い。頭が痛い。吐き気がする。
――この感覚が、懐かしい。かつて暴れ続けていた自分を思い出す。
自然に笑いが起きていた。熱いはずの頭の中が、冷めていく。
おそらく優希に稽古をつけているのは、この執事であろう。ほんの一撃ですら、優希と同じ体捌きだと確信出来た。
最大まで引き付けてからのカウンター。当たると確信出来たその時、防御への意識が薄れ、その甘くなったガードを抜いてくる。
「優希様はもうお前に会いたくないそうだ。大人しく帰れ」
「んなもん知るか。そもそも訳の分からん男共捕まえているなら、俺一人会ったって構わんだろうよ」
執事の眼光が一層鋭くなった。
「もう一度だけ言う。大人しく帰れ」
相手は自分よりも格上。弱者が強者に勝つためには、奇策しかない。しかし、片目を潰されたというのは非常に不利。
思いつく作戦はただ一つ。失敗すれば病院暮らしは免れない。それでも……
――そこにしか、道がないのなら。
再び、一気に距離を縮め、懐に飛び込んだ。
片目の距離感など曖昧なもので、タイミングがずれてしまえば、迎撃されるだろう。
それこそが、罠。
相手の右肘を俺の左腕で捌く。左腕の骨が軋んだが、その痛みをした唇を噛んで耐え凌ぐ。
そのまま、上半身を左へと捩じり、右肘を最短距離で執事の顎へと振り抜く。
衝撃は無かった。
右肘は執事の顎が合った場所を虚しくも通過した。執事がどこにいるのか、分からない。
――カウンター。
「終わりだ」
背中の方から、冷たい声が響いた。
いくら執事とはいえ、距離を取りきれてはいまい。超至近距離からの、ダウンさせられる程の攻撃。それを、背中から。
首。
敵である執事を信じ、左手を後頭部の方へとまわす。まわしきる前に、視界が大きく揺れ、外側から黒く染まっていく。それでも、中央にはまだ光が射している。左手がクッションになってくれたに違いない。それでも、踏み止まれる力など残っていない。頭から、崩れ落ちていく。
否、踏み止まる必要など無い。
――カウンター返し。
視界は近づく床を通り過ぎ、天井を仰ぐ。
造り出した遠心力の全てを、左足に懸けた
「あたれぇぇぇ」
胴廻し回転蹴り。
「ぇぇぇええええええ!」
確かな感触がした。と思う。自分だけを見れば、前宙を失敗して右肩から床に激突した状況である。右腕は痺れなのかわからないが、動いてくれる気配もない。それでも、左足に確かな痛みを感じた。
立とうと思っても立てなかった。壁を頼りにして、強引に上体を起こすと、執事は仰向けで気を失っていた。当たるか微妙だった胴廻しだったが、運良くクリーンヒットしてくれたようだ。
世界の歪みも、吐き気も治まらないが、一刻を争う。これ以上、障害物は一つとして越えれない。三階の部屋まで何もないことを祈るのみ。
「ま……まだだ」
振り返ったその先には執事が立ち上がっていた。足元もおぼつかない様子で、それでも確かに二本の足は彼自身を支えていた。
「お前などに優希様は渡さん!」
前方に立ち塞がれている訳ではない。無視して三階へ行っても良い。むしろ他の事を考慮するならば、無視した方が得策である。
だがしかし、俺はこの執事が嫌いではない。
「お前は多分……勘違いしてる」
俺はただ、優希も生徒会室に居て欲しいんだ。じゃないと、咲乃が悲しむ。ついでに、俺としても傍に阿呆が居るに越した事はない。俺はあくまでついでだが、な。
右半分の歪んだ世界が平衡感覚を狂わし、右腕も動かない。それでも重い左拳を掲げ、構えた。
執事も足を震わせながら、構えをとっていた。
「お前の事情など知らん。優希様の頼みは唯一つ」
執事は曲折しつつも速度を乗せて迫ってきていた。
「私はそれに応える!」
執事が消えた。否、左側の暗黒に潜られた。
後退すべきか、前進すべきか。一瞬の駆け引きを余儀なくされる。
選択は、体当たり覚悟で前へ。
「うおおぉぉおおお」
平衡感覚が完全に無くなる。自分でも何が起きたのか全然分からない。視界が黒く霞んでいき、意識が遠のいていくのが分かった。
終わりを告げようとした世界が、歪な影を捕捉した。
その影は、微笑んでいたのかもしれない。あれこそが執事だ。そんな気がした。
息を吸い込み、今にも千切れそうな左腕を執事の胸元へと伸ばす。掴める全てを握りしめ、息を止めて己の全体重を掛け、引き寄せる。踏ん張りの利かない俺も、同時に執事へと迫る。
鈍い音が響き渡った。
数多くの強敵を沈めた技。頭突き。
既に視界がおかしくなっていたのに、頭突きをしたものだから、頭が余計に響く。それでも、今回も例外ではない。額に残るのは、後を引く心地良い鈍痛。
何故、こうして俺が今立っていられるのか。それは全く分からない。分かりたいとも思わない。とにかく、俺は勝てたのだということで十分である。
足元にうつ伏せで眠った執事に今度こそ別れを告げ、満身創痍の重い身体を引き摺りながら階段を上る。その間にも幾度となく意識は薄れ、平衡感覚も一向に戻らない。それでも踏ん張り、一歩一歩近づく。
遂に、目標の扉が眼前に現れた。意識の糸が切れかけたマリオネットに、今一度言い聞かせる。
――あと少し、あと少しだけ耐えてくれ。
引扉は、静かに開いていく。
重厚な扉の先に待ちかまえていたのは、優希だった。口を動かしていたが、よく聞き取れない。
言いたい事を考えてきた。けれども、それは言葉にならず、空気となって口を出て行った。
優希が、頭に付けた二本の尾を揺らしながら駆け寄ってきた。
優希は胸に飛び込んできた。俺にはもう踏ん張る力など微塵も無い。優希を受け止めることなどできす、仰向けに倒れてしまった。
胸を何度も叩かれた。さっきのような倒しに来る様な力強さはない。しかし、叩かれる振動が頭に響く。何度も、何度も、何度も。
張り巡らせた緊張の糸が解けてきた所に、乾いた拍手が響いた。
音の先にはいくつものディスプレイがあり、そこには恭子と姐さん、そしてもう一人いた。霞んでいるので良く分からないが、おそらくは優希の母親なのだろう。少なくとも、咲乃ではないことは分かった。
「残念ですが咲乃さんは諸事情で居ません」
「退くのだ和泉。ふふふふふふ……。ついに……ついに! この邪気眼を晒す時がっ!」
どうせこんな事だろうとは思っていた。全ては姐さんの掌で踊っていたに過ぎなかったのだ。
薄れゆく意識と、暗くなってゆく世界の中で、頬に冷たさを感じた。
傍らまで寄ってきた姐さんが、濡れたハンカチで顔を拭ってくれていた。
「お疲れ様です海斗さん。後は、おまかせください」
まるで臨終を看取るような言葉の中に、姐さんの真意を見たような気がした。
「ああ。まかせた、姐さん」
何度も離れかけた意識の手。俺は、今度こそ手放した。
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
雀の鳴き声で目が覚める。開かれた視界は、どこか仄暗い。左目に触れてみると、包帯が巻かれていた。
辺りを見まわそうと頭を動かすと、脈打つように痛みが響く。当分、この痛みとは立花以上に仲良くせねばならない様だ。
「おはようございます、海斗さん」
激しい頭痛を堪えながら起き上ると、姐さんがお茶を啜っていた。
「スティックタイプのしいたけ茶ですけど、飲みますか?」
朝一番に姐さんの頬笑み。普段のならば昇天確定。しかし、今は姐さんの目の下にうっすらと隈があり、本日の頬笑みパワーは半減していた。
「遠慮しときます」
「そうですか」
姐さんは残念な素振りも見せる事無くお茶を啜る。あれって確か十本で何百円とかいう普遍的な品なのだが、姐さんが啜っているだけで高級感が醸されている。
今一度、痛みを堪えて辺りを見回す。
まるで人かと思うちっこい人形が、床に転がって寝息をたてているが流す事にする。
恭子が心置きなく転がれる生徒会室の二倍ほど大きな部屋。その部屋には高そうな調度品がいくつか置かれており、その最たるものが自分が座っている王室みたいなベッドであろう。
「ん~? 海斗ぉ?」
ふいに優希の顔が、眼前に現れた。口から洩れた涎を拭こうともせず、うつろな目を擦っている。どうやら、気付かなかっただけで傍らで寝ていた様だ。
「優希さんが手当てをしてくださったんですよ」
姐さんがしいたけ茶を啜りながら、仰った。
「ありがとな、優希」
涎を親指で拭いてやると、優希の白い顔に朱が差したように思えた。顔を伏せてしまって、優希の顔を確認出来ない。が、伏せていた顔はすぐに上げられた。
「ねえ、今のもう一度やらない?」
「だれがやるか! 汚ねぇな」
わざわざ涎を出しやがるな、阿呆め。
「まあ、冗談はさておき」
不意に、優希が微笑んだ。
「お礼を言わなきゃいけないのはアタシの方よ」
包帯越しに濡れタオルを当てられた。切られた左瞼上はまだ熱を持っているようで、タオルの冷たさが心地良い。
「海斗とお姉のお陰で、またパパも一緒に住めそうなの」
優希の笑顔はとても幸せそうに見えた。
俺は暴れただけで、ほとんどは姐さんのお陰だろう。
「海斗さんの雄姿と優希さんの想いが、優希さんのお母様を突き動かしたのです。私は一押しさせていただいたまでです」
しいたけ茶を啜った姐さんが、ほっと小さな溜息を吐いた。
「というわけで」
優希は額と額が当たりそうな程まで寄ってきた。
「ありがとね」
額に軽い衝撃が走った。優希に悪意はないのだろうが、頭痛が増長され正直物凄い痛い。
それでも、何故か笑いが込み上げてきた。
昨晩、執事と対峙した時の様な冷めていく笑いではなく、自分が暖かくなる様な笑い。初めての感覚だった。
「なんて事ないさ」
「そんな姿でよく言えますね」
しいたけ茶を啜る姐さんから漏れる小言に、ぐぅの音も出なかった。
少し湿った額。ご褒美にしちゃ、充分過ぎると思うだろ?




