漆縁
十年前、事故が起きた。トラックが自家用車に突っ込み大破。死者が出る大惨事となった。死者は自家用車の運転手と助手席に座っていた人。俺の両親だった。その後ろには俺と沙耶もいて、俺は傷痕すら残らない軽傷だった。その理由はただひとつ。沙耶がクッションとなってしまったから。沙耶は運び込まれた病院で一命は取り留めたものの、今なおベッドで眠り続けていた。
「ありえない……」
優希の呟き。
「ええ、驚愕です」
まさかまさかの姐さん。
「キレーだね」
微笑んでくれた土岐多さん。
静かな個室で寝続ける妹。沙耶を初めて見た三人の感想である。
「おはよー沙耶」
何故かあいさつ。唯一沙耶を知っている恭子。知っているといっても四歳の頃の沙耶。十年の歳月は起きる事ない沙耶すら成長させていた。
「恭子は除くとして……そこまで驚かれると切なくなるんだが。主に俺が」
沙耶が綺麗なのは認める。起きる事がないので色白で極端に細いのはあるが、造形的に俺には似ても似つかないということだって理解は出来る。しかし、理解出来るからといって認められるかは別問題である。
「海斗も十分カッコイイよ」
「その上で、想像を越えてきた事に一驚を喫したのです」
憐れみは時に傷付けるものである。優希はともかく、姐さんの眩しい笑顔は確信犯。
気分転換に窓に寄る。窓の傍らにある花瓶には鮮やかなガーベラが添えられていた。花を見るとさらに胸と頬が熱くなる。
それは、ここに来る途中の出来事だった。病院の最寄駅に真っ先に来ていた優希に、花はいいのかと尋ねられた。俺の知る限り、沙耶の病室に花が耐えた事は無かったので気にする事はないと言うと、優希はこう言った。
「まっ、華なら十分よね。アンタ以外」
別に上手くないからな。
この台詞を俺が最後まで言いきる事は無かった。途中で遮り顔面ウォッシュが炸裂していた、らしい。
――傍から見ていた姐さん談。
助けても良かったが、どうせ病院へ行くのなら一人ぐらい怪我してた方がいいのでは?と宣言された。いや、いいんだ。姐さんの事だもの。
そういうわけで現在、俺の頬は真っ赤だ。故に、これで格好良いなど言われても憐れみにしか受け止められない。
「沙耶ちゃん、起きると良いね」
土岐多さんの「純粋な笑顔」だけが今の俺の支えです。純粋じゃない笑顔は御察し。どっちも魅力だけはカンストしているので比べる事など無駄である。
ただ、沙耶の目が醒めてほしいかと訊かれれば即答できない自分がいる。万物に対等に流れる時間は沙耶も巻き込んだが、沙耶の時計は十年間止まっている。決して埋まらない誤差。それは残酷なノイズとなって目覚めた沙耶を笑い続けるだろう。生きる限りいつまでも。
「沙耶ちゃんの笑顔見たいな」
エヘヘと声を出しながら綻ぶ顔は、幸せそうに見えた。
「ああ、俺も見たいな。沙耶の笑顔」
それでも、もう一度沙耶の笑顔をこの目で。
「そんなの簡単だよ。ほら」
恭子は沙耶の口角を指で上げさせていた。
「あ。ずるーい。アタシも触らせて」
悪ノリして沙耶に抱きつく優希。このレイプ魔め。
「暖かーい」
「ねー」
「二人して何してんだよ!」
「女だけの世界に入ってこないでよ」
「入らせねぇよっ!」
「あ。ちょっとトイレ行ってくるね」
土岐多さんのジャイロボール。高度過ぎて俺には捕れません。
「咲乃。待ってるね」
「待ってて、ゆーちゃん!」
土岐多さんまで乱入されたら俺にはもう止められない。というかガン見させて頂く。姐さんはというと、ずっと入口で考え事をしているようで動く気配もない。
――ここが、最終防衛線。
最大の敵。それは優希。恭子など摘んで放れば終わりだが優希はそうはいかない。何か格闘技経験でもあるのだろうか、油断すればヤラれるのは俺の方だからだ。ならばこそ、狙うは優希の弱点のみ。
「おらぁ!」
優希の背後を取りつつ、短いスカートをまさぐる。しかし、なんで休日まで制服なんだ皆。
「ちょっ。何してんの変態っ!」
硬いボツボツ、これだ。獲物を捕えた。
「あっ」
スカートから出てきたのは携帯電話。ラインストーンとラメ加工の超絶デコレーション済み。これこそが、優希の弱点。
「無……無駄よ。ロック掛ってるし」
「内容なんてどうでもいいんだよ」
「どうでもいいとか言うな!」
「データを見るんじゃない、失くすんだよ」
「変態っ! 鬼畜っ!」
「さっきまで百合な世界繰り広げてた奴が言える事じゃ――」
咄嗟に首を亀張りに窄めると、白い脚が髪を掠めた。
当たり前だが、それだけに留まらない。蹴りを主体にしつつも、突きに搦め手、肘まで繰り出してくる。
天城優希の染色体再検査を要求します。こいつがXX染色体の持ち主であってなるものか。
次々と繰り出される手加減無用の連撃を危なげながらも捌ききった所で反転、病室から飛び出る事を決意。さすがに廊下でまでスカートを舞わせはしないだろう。
障壁をスライドさせると目の前に白衣の男がいた。
「逃がすかぁああ」
俺を捉え損ねた優希の飛びヒザは、黒縁眼鏡を細い身体共々吹き飛ばした。傍目から見て交通事故並みにグロい衝撃映像である。
「……」
優希、フリーズ中。
なぅろーでぃんぐ…………。
……動く気配が無い。
「ただいま~」
土岐多さん帰還。服も目も白い被害者を物珍しい視線で捉えている。
ふと、恭子と目があった。一流サッカープレイヤー並みのアイコンタクト。
全てが一つとなる。
「逃げるぞ!」
土岐多さんの腕を掴むと、階段目指して全力で駆け出す。しかし、土岐多さんは状況を把握していない様で、走ろうとしてくれない。その間にも、ロード完了した優希を先頭に、恭子が追随して階段へ墜ちてゆく。
姐さんは未だ病室から出ていないが大丈夫であろう。誰だって優希のとばっちりを受けたくはない。ぽけーっとした土岐多さんになすりつけるわけにもいかないが、このままでは危ない。
土岐多さんの身体を抱えあげ逃走を試みる。ファンシーに言うなれば、『御姫様抱っこ』して逃避行。
アハハハハー。幸せ!
階段を何十段と駆け下り、待合室の様々な視線を掻い潜りながらも走り抜ける。
九割の幸せと一割の恐怖を抱えながら病院から逃げ出す事に成功した。
病院って出入り禁止とかにはならないよな……?
邪推しつつ、自分の出来うる限り優雅に土岐多さんを降ろして差し上げ、携帯の電源を入れた途端、音を立てて携帯が鳴り始めた。
『大丈夫だった?』
「ああ。そっちは二人一緒か?」
『うん。駅前まで避難してきたとこ。あ、見つけた』
俺達の後ろに聳える看板には、駅から徒歩五分と大きく表示されている。
いや、確かに駅までの景観は開けてはいるけど……どんだけ全力で駈けて行ったんだあいつら!
手を振っている凸凹コンビが見える。顔までは分らないがあれに違いない。恥ずかしい奴等だな本当。
「行こうか」
「うん」
既に切られた携帯をポケットに押し込み、ゆっくりと歩き出した。
駅と挟まれただだっ広い交差点。赤い信号が俺達を止めていた。
「あの……」
少し俯きながらもアイコンタクトを試みる土岐多さん。意図的なのか知りませんがその上目使いは危険なので公共の場では止めて頂きたい。二人っきりなら是非。是非。是非。
「ゆーちゃんきょーっちも、古賀君の事下の名前で呼んでるよね」
きょーっちって恭子の事でしょうか。すごく言い辛いし分かり辛いです。
「だからね、わたしも呼んでいいかな」
この展開は……この展開はっ。俺も咲乃って呼んでもいいんだね。
「海君って呼んでもいい?」
君付き。なんですかそのサッカーとフットボールの違いみたいに微妙な距離感。
しかし、ここで負ける事無かれ。
「モチロンさ。俺も、咲乃って呼んでもいい、かな」
流れ的には了承されるだろうが安心してはいけない。なぜならば相手が咲乃様だからだ。普通に「ダメ」と言われても納得出来てしまう御方だ。
「うん、ありがとう」
不安をよそに咲乃の返事は満面の笑みだった。
赤い信号は青と変化し、歩み始めた。一歩一歩、確かに。
先に待っている二人は飽きずに手を振っていた。




