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  作者: 黒金蚊
13/14

拾参縁

 横たわる咲乃の病室に、皆が集まっていた。突き付けられたのは、現実。

 現実という残酷なノイズは、淡い希望すら掻き消した。ノイズは、咲乃を中心に入り乱れる。

 ――運動ニューロン疾患・筋委縮性側索硬化症。

 筋委縮性側索硬化症とは通称ALSと呼ばれる。ALSは進行性であり、半数近くは三年以内に亡くなるが、中には三十年以上生きた人もいる。

 咲乃は、半年間以上無理をしたせいなのか、病状は一気に悪化してしまった。

 通常はこんな若い頃から発症することも少ないという。咲乃の父親もALSで亡くなっているので、遺伝の可能性が高い。しかし、運動ニューロン疾患が遺伝することは十%程度でしかない。

 また、ALSの大半は呼吸を行う筋肉の低下により呼吸困難になるのだが、咲乃は呼吸器官以上に心筋の低下に強い傾向がある。

 咲乃の発症自体は二年程前で、本来は四月には入院するはずだった。しかし、咲乃は限界まで投薬してでも学校に来ていた。文字通り、歩けなくなるまで。

 そう伝えるのは、保健室にもいた黒縁眼鏡の細い男だった。その医師の前で、俺は聞き入っていた。

「どうして……」

 どうして今まで話してくれなかったんだ。その想いが溢れ、最後まで口にすることが出来なかった。

「私が、止めていました」

 応えたのは医師でも咲乃でもない。ドアにもたれ掛っていた姐さんだった。

 いつから……いつから、姐さんは知っていたのか。何故教えてくれなかったのか。全ての疑問を瞳に込める。

「沙耶さんの見舞いに訪れた際に、先生からお聞きしました」

 医師は何も言わず、姐さんを見据えていた。

「先生は何も悪くありません。止めたのは私の提案であり――」

 姐さんの視線は、ベッドへと移された。

「咲乃さんの意思でもあります」

 この言葉が、痛かった。咲乃が隠していたのだ。

 真っ先に出た感情は、悔しみ。咲乃にとって俺は何なのだろう。この半年は、一体なんだったんだ。俺は、皆にとってその程度だったのか?

 優希と恭子は目を背け、床を見つめている。

 どうやら、知らなかったのは俺だけ。

「ハッキリと言いましょう。今の貴方では、時期尚早でした」

 湿った唇から、鉄の味が漏れた。

「しかし、事態が悪化してしまったので、お伝えしたまでの事です」

 もう、限界だった。

 最小限の動きで、それでも全力で姐さんに向け拳を突き出そうとする。が、踏み込んだ瞬間、足を払われ、逆に床へ叩きつけられた。

 打った額が煮えきるほど熱い……。

「今の貴方が知ったところで、何が出来るというのです。暴れた所で、咲乃さんの為になるとでも思っているのですか」

 以前、姐さんは病状に関しては教えてくれた。今、咲乃に待っているのは、目に見える死。誰も、治す事など出来ない。

「姐さんだってそうじゃないか!」

 不治の病の前では無力だ。それが、姐さんであろうとも。

「確かに私にも治せません」

「だったら!」

 俺の疑問は姐さんに遮られた。

「治す事が全てではありません。私達はそれぞれの形で、彼女を支えてきました」

 優希が、恭子が、姐さんが、訴えかけていた。それだけは、事実だと。

 俺は、咲乃に何をしてやれたのだろう。そう考えた時、俺は何もしてあげられていない事にようやく気付いた。

 俺は咲乃の一挙手一投足に舞い上がっていただけ。一方的に。俺は、こんな所にいてはいけない人間だったんだ。

「ハハハッ」

 自然と、腹から乾いた笑いが出てきた。

 音なんて何も耳に入って来ない。ただ、一秒でも早く咲乃の前から消えたかった。少しでも離れたかった。もう二度と、逢わない場所まで。


 ようやく聞こえてくる音は、自分の鼓動だった。そして、激しい呼吸。先月までは心地良かった風は冷気を帯び、汗に塗れた俺の体温を下げていた。

 息を整えると、近くにある小さな橋の上から流れ続ける水面を眺めた。猿投山から流れ出ている水は透明なまま、この橋の下をくぐって川端公園の矢作川へと合流する。俺が見た水は、何時頃辿り着くのだろうか。

 一陣の風が背中から吹いた。

「遠いわぁっ」

「グベェッ」

 背中の痛み。そして、それよりも迫る水面。下腹部が締め付けられるかのような落下の独特な感覚。

 気が付くと、川へと転落していた。

「何しやがる!」

 橋の上にいる犯人。それは、優希だった。

「まだまだ!」

 既に優希は手すりに乗り上げ、飛び上がっていた。物理法則に則り、降下し始め、明らかに俺を目掛けていた。

 ――衝撃、暗転。

「げぶぁふっげぼっごふ」

 水を吸った冬服が非常に重く、避け切る事も叶わず満身創痍で優希を受け切った。幸い、深めで下も砂地だったので怪我こそ無いものの、溺死する所だった。

 優希を退かし、息を整えようと、まずは入ってしまった水を出していく。

「おりゃぁ」

 優希は噎せている相手だろうが、無慈悲に水を掛ける。

 なんなんだこいつは。今は一人になりたいというのに……悪ふざけしやがって。

 左手で優希の胸ぐらを掴んで引き寄せる。今ある全ての悪意を込め、碧色の瞳を睨みつけた。

 また、冷たい水が頬に掛かった。

 拳を握った右手が、優希の顔を目掛けて直線を描く。

 ――拳に鈍痛が走った。

 拳は優希の顎を跳ね上げ、止まっていた。幾許か置いて、優希の顎が次第に下がってくる。優希の白い頬は赤みを帯び、鼻から血が垂れていた。

 三度、冷たい水が頭に掛けられた。

「少しは頭冷えた?」

 何事も無かったかのように、優希は微笑んだ。まるで、咲乃かの様に。

 俺は誰を殴ってしまったのだろうか。不意に、罪悪感が沸いた。

「………すまん」

 優希は優しく俺を抱いた。そしてその瞬間、

「すまんで済むかぁー!」

 強引に押し倒してきた。手足を見事にロックされ、なす術無く川底へと沈みゆく。優希の鼻から溢れ続ける血は、水と混じり合い流されながら消えて行く。

「ぶはぁっ」

 なんとか解放され、咳き込みながら浅地に座りこんだ。

「痛いわ! 本気で殴らないでよ!」

「いや、避けるかと思って……」

 実際、避けられると思った。次の一手だって考えていた。

「避けられるわけないでしょ」

 優希は溜息を吐いて、続けた。

「アンタの想いを」

「……無駄に臭いな」

「うっさい!」

 赤くなる優希に、自然と笑いが込み上がった。耐え切れず、笑いが漏れる。

「笑うなぁっ」

 優希は鼻血を垂らしながら、ムキになり始めていた。

「そもそもどんだけ走ってんのよ。途中、酸欠で死ぬかと思ったじゃない」

 腕時計を確認すると、針は止まっていた。しかし、病院から五キロ近く離れているので随分走っていたのだろう。そして、優希は追い続けてくれたのだ。

「ありがとな」

 ――少しだけ、楽になれた気がした。

 優希は静かに捲り上がったスカートを正し、隣に座った。

「まだ、礼を言われる事をした覚えなんてないけど?」

 確かに、行動だけならば俺を橋から突き落とし、さらに水を掛けてきただけだ。何にもしていない。騙される所だったじゃないか。

 その優希は、鼻を拭っていた。

「アタシが知ったのはね、親がまた同居して、ちょっと経ってからなんだ」

「大分前なんだな……」

 あれはまだ初夏の頃だった。恭子とデートに行っていなければ、姐さんの父親とも対面していない。あの執事とやり合った直後の事。

「アタシも、ショックだった」

 隣の顔も、俯いていた。

「その日にね、咲乃と話をしたの」

 俺は逃げてしまったのに、優希は事実にしっかりと向き合って話をした。

 姐さんが俺に言わなかった訳だ。俺は、優希よりずっと弱いのだから。

 水面に映る自分を見つめながら、己の弱さを噛み締められた。

「海斗の、お陰だよ」

 優希の顔は、こちらに向かれていた。鼻からはまだ、血が滲んでいた。

「俺の?」

「全部変えてくれたのは、海斗」

 背中を強く叩かれた。落とされる際にも跳び蹴りを受けた背中が、ヒリヒリと痛む。

「待ってるから」

 優希は何かを掴もうと手を伸ばし、遥か彼方の見つめながら立ち上がった。

 空を掴んだ手は、ゆっくりと胸に降ろされた。

「咲乃の所で、アタシも待ってる。だから、暗い顔でなんて来ないでよね」

 まるで咲乃の様に優しく微笑む優希は、動けない俺の頭に額を乗せて、しばらく重ねていた。

 座っている俺と立っている優希では、どうしても俺の方が低い位置になり、目の前で水が滴る制服が広がり、落ち着かない。

 静かに額を離していった優希は、川を走って横切った。河原まで走ると、水飛沫を上げながら、こちらを振り返った。

「アタシ、イイ女でしょ」

 何がイイ女だ。川に突き落としてまで好き放題しやがって。

 まだ、何一つ解決もしていない。それでも、少しは楽になれた気がした。

 優希。お前は本当に――

「ああ、イイ女だよ」

 と、優希にも聞こえないように呟いた。

 優希の小さなクシャミは、冬の到来を感じさせていた。


 あれから、ご丁寧にも着替えを用意してくれた優希は、あの執事の運転する車で帰って行ったのだが、その時の執事の目には、俺に対して明らかな殺意を持っていたのは良い思い出。

 寮に帰ろうかと思ったのだが、いつの日にか姐さんが言っていた事を思い出した。猿投神社は縁運びの神なのかも知れないと。

 両親を奪い、

 恭子を傷付け、

 そして、咲乃と出逢った。

 誰が何と否定しようが、俺にとって猿投神社は、縁を運んで来る場所となっている。

 もしかすると何かが見えるのかも知れないと、猿投神社まで足を延ばしていた。

 参道を歩いていると、先日の祭りの活気の残り香を感じる。両隅に続く屋台。あの時も咲乃だけは居なかった。勝手に落ち込んでいただけだ。いや、まともに落ち込んですらいなかった。優希がいて、恭子がいて、姐さんがいて。それで満足しかけていた自分がいた。

 拝殿にまで辿り着くと、中門の前で誰かが立っている事に気付いた。

 上背は俺と同じぐらいだろうか。少し茶色掛かった短髪に長い手足。それでいて、広めの背中が男である事を証明している。そして、男の左手には柄の無い鎌が収められていた。

「奉納祈願ですか?」

 男は声をかけた事でようやく気付いたのか、こちらを振り向いた。

 やつれてはいるものの、均整の整った顔。

「ええ、今更なんですけどね」

 男は苦笑いを浮かべた。

「本当、今更なんですけど……」

 きっと、結ぶに結べない理由があるのだろう。

「まずは結んじゃいましょうよ」

 今の俺には大丈夫だなんて言えない。大丈夫じゃない事もあるのだと、知ってしまったから。それでも、この人の願いは間に合ってほしいと思う。

 鎌に書かれた文字。そこにはよく見る名があった。

「……姐さん?」

「和泉の知り合いか?」

 男の目には、先程まで無かった輝きがあった。

 一人の名が脳裏を過ぎる。

 ――かつて、姐さんが愛した男。

「健嗣さん……ですか」

「君は?」

「古賀海斗。一年で、姐さんの世話になっています」

「これはどうも。僕は森宮健嗣」

 健嗣という男は、俺をまじまじと見ていた。

「君は、あれを越えたみたいだね」

 やつれた顔がそう見せているのかわからない。しかし、確かに羨望を感じる目であった。

「ええ、なんとか」

 本当にギリギリでしたけども。思い出したくもない。あんな世界はまっぴらだ。

 それほどまでに、姐さんを信じると言う事は過酷でもある。

「あ……」

 ――俺は今、姐さんを信じられていない。

「良かったら、僕の話に付き合ってくれないかな」

 森宮健嗣は姐さんの様に微笑み、拝殿に腰掛けた。拝殿とはいっても解放されている。土足で上にあがるのはともかく、腰掛けるぐらいならば問題は無いだろう。

「僕は和泉を信じ切れなかった」

「俺も今……同じです」

 森宮健嗣は笑った。

「和泉は厳しいなぁ」

 この猿投神社での出逢い。これも縁なのだろう。俺は、今までの事を包み隠さずに話す事にした。姐さんとの出逢い。散歩での数々の会話。そして、現状を。

 話している際、森宮健嗣は真剣な眼差しで、愛の手を入れることなく聞き入ってくれていた。やがて、俺の話が終わると、一息だけ吐いてから、呟いた。

「縁を運ぶ場所かぁ。いいね」

「はい。俺もそう思います」

「僕は、人間であろうが、神様であろうが、力の大小っていうのはやっぱりあると思う」

「そうですね。姐さんを見ていると実感します」

「本当、和泉は格が違うね」

 同時に笑いあった。涙腺を指でなぞると、再び口を開いた。

「出雲大社は知ってるかい?」

「ええ。それなりに」

 出雲大社は、大国主神を主祭としている。大国主神には全ての縁を結ぶ神ともいわれ、出雲大社は縁結びと場としても名を馳せ、神楽殿で結婚式等も開かれる。

「大国主神は多くの災厄を克服した。因幡の白兎なんか有名だよね」

「その経験があるからこそ、縁を結ぶ力もあると?」

 森宮健嗣は頷いた。

「大国主神は、神の中でも最上級の力を持つ。出雲系の中核だから当然と言えば当然だよね」

「この猿投の神には、結ぶまでの力は無い、という事ですか」

 だからこその、縁運び。

「神頼みというのは本来、己の尽くせる事を全て為した後にする事だ」

 宮森健嗣の言いたい事が大体分かってきた。

「結局のところさ、縁っていうものは、自分で結ぶものなのじゃないかな」

 この人は壊れたのではなく、意図的に姐さんから離れたのではないか。そんな疑惑すら浮かんだ。しかし、森宮健嗣は、目が合うと首を横に振った。

「去年、僕は逃げたよ」

 乾いた自嘲が響いた。

「姐さんはまだ、待ってます。あなたに会わない事で、償おうとしています」

 このままではいけない。こんな終わり方、許したくない。

「お願いです」

 どうか、姐さんに会ってあげてください。その思いで、頭を下げる。

 森宮健嗣の答えは淡々としていた。

「和泉の元から逃げたからこそ、僕は色んな物事に気付いた」

 森宮健嗣は伏せながらも、力強く宣言した。

「だから、僕は和泉には会わない」

 再び、目が合った。

「少なくとも今はまだ、ね」

 彼の目には、確かな意思が宿っていた。

「和泉と肩を並べられるぐらいに成長したその時、会えますようにってね」

 中門に掛けられた多くの左鎌を見つめた。それこそが、彼の願いなのだろう。

「君は己が悩んでなお、他人の相談にのってくれる素晴らしい人だ」

「いえ、そんな事ありません」

「君はまだ、逃げていない」

「違います。俺もただ逃げているだけです」

「いいや。確かに君は目を背けようとはしているかもしれないが、留まっているじゃないか」

「留まって……」

 そんな風に考えた事もなかった。逃げると目を背けながらも留まる。この違いに今まで気付けなかった。

「少し言葉遊びもしようか」

「言葉遊び、ですか……」

「僕はさっき、成長、という言葉を使ったよね」

「ええ、確かに」

 姐さんお肩を並べられるぐらい成長したらと。

「僕はこの一年で大きく変わったんだ。でも、これが成長だとは思っていない」

「成長じゃ……ない?」

「変化に成長は真で、成長に変化は偽という事さ」

「また姐さんみたいな事を言いますね」

「和泉の受け売りだからね」

 同時に小さく噴きだしてしまった。姐さんらしい考え。

 だが、理解も出来た。成長とは変化のうちの一つでしかない。例え変化しても、それが成長かだなんてすぐには分かりかねないのだ。特に、人の内面というものは。

「成長しようと思って成長するということは、難しい事だと思う」

 確かに、その通りだと思う。

「今の自分には足らないと思った時に大切なのは、変化する事。変化して、変化して、変化して。いつの日か、自分の通った道を振り返る。その時、自分はあの時よりも成長出来たと思えば、それは十分に素晴らしい事じゃないかな」

 ようやく俺にも何をすべきかが見えてきた。俺はまた、本質を見誤っていたんだ。

 姐さんが俺に教えてくれなかったのは、まだ足りない部分を感じていたから。その部分も見誤って、いじけていた自分が恥ずかしい。

 俺がすべき事は、足りない部分を埋めるべく変化する事。そして、その足りない部分も彼が答えをくれていた。

「本当にありがとうございます。お陰で、色々と見えてきました」

 この人も、尊敬するに値する人だ。

「いやいや。僕は自分の話をしていただけさ。こちらこそ付き合ってくれてありがとう」

 縁運びが持ってきた、この人との縁。俺は、自力で結んでみせる。

「俺、やっぱり納得いきません。このまま終わるだなんて」

 このままでは必ず後悔してしまう。自分も、宮森健嗣も、姐さんも。

 だったら、自分の出来る事をしよう。出来るようになろう。

「俺も姐さんも待っています。いつまでも」

 この縁を、次へ結ぼう。


 俺がすべき事は見えてきた。しかし、それは俺だけじゃ、ダメな気がした。必要なのは、俺の事を良く知る人物の協力。

 恭子に電話をしようと思ったが、川に落とされた際に壊れてしまったようで、近くの恭子の実家まで赴いた。

 チャイムを鳴らす。

 どうでもいいんだが、なんか人の実家のチャイム鳴らすのってすごい緊張するのは俺だけだろうか。

「かー君……」

 玄関から出てきたのは親ではなく、恭子だった。

「大丈夫……?」

「ああ。ありがとうな」

 俺は未だ、恭子への答えを出せていない。

 ――過去を棄てるのか、受け入れた上で、見据えていくのか。

 もう少し、時間が欲しかったというのも本音だ。

 しかし、世界はそれを許さなかった。

「話したい事があるんだ。いいか?」

 恭子は静かに頷いた。

「あの公園で待ってて」

 あの公園というのは、俺と恭子が幼い頃一緒に遊んだ公園。恭子の家から歩いて数分の距離にある。

 公園には、雑草が好き放題生えていた。ただでさえ若者離れが叫ばれる田舎。公園には犬の散歩で来る人ぐらいしかいないであろうことを物語っていた。

 ブランコを漕ぐと、錆びがこすれ合う音を立てながらも動いた。

「おまたせ」

 恭子を見ると、あの時のゴスロリ服を纏っており、思わず噴いてしまった。

「汚いなぁ、かー君」

「お前が変なもん着てくるからだろ!」

「かー君が買ってくれたものだもん! 大切に着るよ」

 さすがに堂々そんな事宣言されると恥ずかしい。顔が真っ赤になっているのが、自分でもわかるぐらいに火照っている。

 ――今度また買ってやろう。今度はまともな服を。

「それで、話って?」

 恭子は隣のブランコに座り、漕ぎ始めた。空気抵抗の大きいスカートだからあまり漕ぐんじゃありません。

「ちょっとな。昔話に付き合って欲しいというか」

「お姉さんにまかせなさ~い」

 恭子はスカートの事を気にも留めず、力の限り漕いでいた。

「事故が起きるまでは、二人でよく遊んだよな」

「うんうん。ここでね」

 お陰で苦手意識も根付いてしまったがな。

「その後、事故が起きた」

 恭子は返事をしなかった。鉄が擦れる音が響く。

「その後、俺は全てを壊してやりたくなった」

「随分と長かったね……」

 思わず、苦笑いをしてしまった。

 八年以上も荒れていたのだ。人生の半分荒れていた事になる。長いわな。

「どうもその時、咲乃にも出会ってたらしい」

「知ってるよ」

 意外な言葉に、目を丸くして恭子を見てしまった。

「和泉が最初からかー君の事、色々知ってたのを不思議に思わなかった?」

 ……成程。姐さんが俺なんかに寄って来たのは恭子が原因だったのか。

「かー君は怖いんだよね。その時の自分に戻る事が」

「ああ。怖い。怖くて……仕方ないんだ」

 鉄が擦れる音は、いつの間にか止んでいた。

 暖かな身体が、背中から包んだ。

 左手にはもうリズトバンドは無く、傷痕が見えている。

「今度は……今度は何を言われても、傍にいるよ」

 振り向けば、そこに恭子の顔がある。だが、振り向けなかった。

「恐怖はボクが全部包んであげるから」

「恭子……」

 恭子の頭を撫でた。これが今、俺に出来る精一杯のお礼。

「ありがとうな恭子」

「ふふーん。お姉さんだからね」

 恭子も、以前に増して笑うようになったと思う。

「過去を、受け止めてみせる」

「うん」

 これが、先延ばしにした恭子への答え。そして、今の自分への答え。

「ちなみにさ……」

「何?」

「恭子は咲乃の事いつ知ったんだ?」

「かー君が知る数分前」

 これもまた意外だった。ほとんど俺と一緒に知らされただなんて。

「何とも……思わないのか?」

 背中を勢いよく蹴られ、ブランコから突き落とされた。

「いだっ!」

「辛くないわけないじゃん!」

 恭子の顔をよく見ると、目が赤い。

「でも、かー君のが辛いのだって、わかるよ。ボクはお姉さんだから……お姉さん、だから」

 恭子の強がりを、俺が崩壊させてしまった。

 恭子の元により、そっと抱きしめた。恭子が泣きやむまでは、胸を貸してあげよう。子供っぽくて、強がりで、ずっと見守ってくれていたお姉さんに。


     ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ 


 病院に赴いたのは、翌日の事だった。

 咲乃の部屋には、医師と姐さん、優希も恭子もいる。

「答えは出た様ですね」

「ありがとう、姐さん」

 姐さんのお陰で、また少し変われた気がする。

「本当に、世界とは残酷です」

 姐さんは医師とアイコンタクトを図ると、医師が動き出した。

「古賀君には、早速だが聞いてもらいたい事がある」

 姐さんに負けず劣らずの重圧が、医師から放たれていた。

「事前指示書というものを知っているかな」

「……いいえ」

 医師は一枚の紙を取り出した。

「これを読んで欲しい」

 そこには事前指示書に関する事が書かれていた。

 事前指示書というものがある。これは意思決定不能状態に陥った場合に、医療ケアに関する個人的希望を伝える法的文書。ただし意思決定不能状態と判断されない限りは有効とならない。また、事前指示書というものには二種類あり、患者本人の意思を尊重するリビングウィルと代理人の意思を尊重する医療判断代理委任状がある。また、代理委任状には連帯代理人と単独代理人とがあり、こちらは医師の考えも介入される。

「咲乃はね、今後の決定を君にしてもらいたいそうだ」

「今後の決定……?」

 医師は静かに紡ぎ出した。

「ひとつ、このまま何もしないこと。咲乃君自身の生命力が途絶えたその時で終わりだ」

「それ以外にも手はあるのか?」

 咲乃の病気は不治のはずだ。

 しかし、医師は首を横に振るだけだった。

「ひとつ、咲乃君の肉を切り裂き、筋力を機械で代替し延命し続ける事。この二択だ」

 やはり、出来て延命治療しか無かったのか。

「これを、キミに決めてもらう」

 咲乃は、最期を俺に一任したのか。

 この俺に。

「咲乃自身は延命を望んでいない。この延命は医学的価値がない。……いや、僕がそう思いたいだけなのかもしれないね。ともかく、僕としても咲乃の意思を尊重したいと思う」

 咲乃は選択させる気など端からない。このハードルを越える為に、飛べと言っているのだ。

「前に、お父さんの幸せの話したよね」

 窓の方を向いている咲乃は、目を合わせることはなかった。

「私も、わかんなかった。どうしてお父さんが、幸せそうに笑い続けていたのか」

 咲乃の握られた右手が、胸に置かれていた。

「お父さんが死んじゃってからの三年間。ずっと部屋に籠もって考えてたけど、わかんなかった」

「咲乃……」

「無理矢理部屋を出されて、学校に行ってみたら、いきなり殴られるし」

 謝ろうと言葉を口にしようとした時、咲乃が先に出てきた。

「ううん。殴られた事自体は痛くなかったの。私が痛かったのは、その後。海君が、お父さんを侮辱した事」

「……ごめん」

 過去の俺は、咲乃まで傷付けていた。既に、傷だらけの咲乃までも。

「ごめん……本当にごめん」

 もう、逃げないと決めた。今の俺に出来ることは、謝ることしかない。

 窓の外を見続ける咲乃の横顔には、珍しく険しさが含まれていた。

「海君の理想に近づいて、わたしの虜になってもらって、そして、大好きな人に置いていかれる」

 咲乃の目が、ついにこちらを向いた。

「それが、私の復讐……だった」

 その微笑みが、少し歪んでいた。

「でも、やっぱりうまくいかないね」

 目に見えたはずの、笑顔の歪みが消えていく。

「ゆーちゃんにきょーっち、さらにいずみん。みんな魅力的。かないっこないよ」

「そんなことない! 俺は咲乃が一番好きだ。今でも。どんな理由があろうとも。これだけは、変わらない」

 咲乃は目を大きくあけて止まった。そして、少しづついつもの笑顔へと戻っていく。

「ありがとう」

 少しづつ動き始めた咲乃は、笑いながら言った。

「でもね、一番の誤算はそんな事じゃないの」

 咲乃はゆっくりと、上体を下げた。

 咲乃の横目が、数秒だけ再び重なった。しかしすぐに、視線はそれた。

「大切な人に置いてかれちゃう苦しみは知ってた。……けど、知らなかったなぁ」

 咲乃は俺に振り向き、満面の笑みで言った。

「大切な人を置いていくのが、こんなに苦しいなんて」

 咲乃の想いが、頬を伝う。

「あれ? なんでだろ……」

 咲乃自身が、一番驚いているようだった。咲乃が拭っても拭っても、涙はこぼれ落ちていく。

「ずっと……死ぬその時まで笑っていようと思ったのに」

 耐え切れず、咲乃に駆けよって抱きしめた。咲乃は抵抗せず、ゆっくりと俺を抱き返してくれた。

 咲乃もまた、変わったのだ。

「ゆーちゃんの、きょーっちの、いずみんの、海君の。皆のお陰」

 咲乃の腕に、力が込められた。凄く弱く、儚い力。それでも、俺をしっかりと抱きしめていた。

「でも、皆、ごめんね。何回でも、言うよ。私も、海君が好き」

 咲乃の前では、出来る限り笑顔でいたい。でも、今日だけは……

「俺も、咲乃が好きだよ」

 今日だけは、許してほしい。


 何年分もの涙を流したせいか、目が腫れていた。

 医療判断代理委任状に署名する為、別室に移動していた。

 別室には俺と姐さんの二人のみ。

「ところでさ」

 後ろで佇む姐さんに話しかけた。

「どうしました?」

「昨日、森宮健嗣っていう人に会ったよ」

「……そうですか」

 姐さんも驚いたらしく、返事が一拍遅れていた。

「良い人だね」

「そうですね」

「もう、彼は立ち直ってたよ」

「すいません海斗さん。健嗣はもう私とは関係ないので」

「お願いもしてたよ。いつか自分が姐さんと同じ位置まで成長できたら迎えに行くって」

 本当は会いたいだけだったが、これぐらいの誇張はいいだろう。姐さんが呼び捨てで言うのは、恭子と宮森健嗣だけなのだから。本質を見たら分かりやすい人である。

「私を迎えに……ですか」

「うん。迎えにって」

「彼は、本当にお強くなられたのですね」

「通りすがりの俺の相談なんかにも乗ってくれたよ」

 ふと、背中に重みを感じた。

 後ろを向くと、姐さんが頭を預けていた。

「少しだけ……少しだけ許してください」

 姐さんから、小さく啜る音が聞こえた。

 皆が、変わった。俺も、咲乃も、優希も、恭子も。しかし、一番変わったのは、姐さんだろう。出会った頃の姐さんは、人間味の欠片も感じることが出来なかった。それが今、俺の背中を借りているのだから。

 しばらくして、姐さんは勢いよく起き上った。

「申し訳ありません。先程告白なされたばかりだと言うのに」

 そういえば姐さんの目の前でもあったのにいってしまったんだよね。ああ、恥ずかしい。でもそれ以上に、誇らしい。

「健嗣に関しては、やはり私から彼にすべき事は、もうありません」

 姐さんの頬笑みにもしっかりと人間味が混じっていた。

「彼は彼の選んだ道を歩むだけです。私の道と、再び交差するかもしれませんし、しないかもしれません。それだけです」

 姐さんの小悪魔的な頬笑み。反則までに綺麗な姐さんに、可愛さまで兼ね備えられつつあることに戦慄を覚える。

「何? さっそく浮気?」

「それはだめだぞ、かー君!」

 いつの間にか入ってきたのか。優希と恭子がいた。

「ご……誤解だ!」

「気持ちは察します。私も好きな御方が複数になってしまっていて悩んでいるのです」

「あっ! いずみずるい! ボク達だって好きな人いるもん! ねっ、ゆーき!」

「えっ、ちょ……今言わないと……ダメ?」

 何も聞いてない。何も聞いてないぞ!

 急いで書類にペンを走らせる。急ぎ過ぎたせいか、元から下手なのか。歪んだ文字はかろうじて古賀海斗と読みとれた。

 嬉しい事も辛い事もあるけれど、それでも俺は神とやらに感謝したい。色んな縁を運んでくれた、猿投の神に。


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