拾弐縁
暗くなりきれない夜空。そこには、満天の星空があった。星空の元、大地をしっかりと踏みしめ、今日も猿投神社からの帰路を歩む。
厚着をしていようが、容赦のない風は露わとなっている肌を刺し続ける。以前は隣にいた姐さん。しかし、今はいない。最近は大虎様の具合が安定しないようで、寮ではなく家に帰っている。
一人きりの時間。たった半年前までは慣れていた時間なのに、今では寂しく思える。それほどまでにこの半年は目まぐるしく、温かかった。
風が、歩み続けようとする俺に抵抗した。
「寒っ」
温暖化とはいえ、神無月を越えれば冬を感じる。露わになっている耳が痛い。
過去をどう考えていくべきか、未だに答えが出なかった。
向き合う為に、出来る限り思い出そうとした。けれど、荒れていた頃の俺は何も覚えていない。どんな人達をどれだけ傷つけたかすらも。思い出せるのは痛み、高揚感、そして、罪悪感。思い出そうとすればするほど、己の情けなさに白い溜め息が出てしまう。
全て棄ててしまえば、楽になるんだろうか。そんなことすら考えた。
――恭子の今にも泣きそうな顔が浮かんだ。
傷痕を知ってしまった今、やはり放っておくことは出来ない。かといって過去をあまり覚えていない。八方塞がりだ。
やっぱり皆に聞いてもらおう。とはいっても姐さんは父親の事があるので、これ以上手を増やさせるわけにはいかない。恭子とはまだ微妙な関係なままだ。咲乃には悪いが、こういう話は合いそうにない。
「やっぱ優希か」
白い靄が、星空を曇らせた。
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「重い」
とくダネ! の血液型選手権が放送されるであろう頃、一人の守銭奴が教壇を去った。
咲乃はいつも通り遅刻なので、優希のクラスまで直行し相談してみたというわけだ。そんな訳なんだが、聞き間違いかもしれないのでもう一度だけ確認をしたい。
あー……優希さん。今何とおっしゃったのでしょう。
「重すぎっ!」
聞き間違いではないんですね? 珍しく人が悩んでいるという時に。
「ダメよ海斗。アンタは確かにヘタレよ。ええ、どうしようもないヘタレよ」
俺は断じて、ヘタレヘタレと連呼されて喜ぶような性癖ではない。確かにヘタレかも知れないですけども。しっかりとオブラートを何重に包んでほしいものだ。バファリンだって半分が優しさなんだぞ。残念ながら今のキャッチコピーは『頭痛の時は、がんばるな』だがな。
「ヘタレだけどちゃんといいとこ、アタシは知ってる。アンタは、痛みを知ってる」
ただ、俺にはその痛みを知る代償が、余りにも多すぎた。
「人なんて傷付けて傷付けられてくもんよ。これまでも、そしてこれからも。その痛みを知ってるからこそ、アタシの家族を救ってくれた。そうでしょ?」
優希は変わった。出逢った頃の優希は、自分という存在を知ってほしい。もっと自分を見て欲しい。そんな印象があった。けど、今は違う。碧眼はこちらを見据え、決して視線を離そうとしない。押し付けではなく、しっかりと見極めて提案をしてくれる。
「海斗の欠点は、自分が傷つく事を恐れなさ過ぎって事。アンタ自身は傷ついてもいいって思ってるかもしれないけど、悲しむ人がいる事を忘れないでよね」
根本を変えるというのは難しい。これまでの、何年、十何年もの生き方を否定するのだ。
それでも優希は変わった。その一因に、俺が関われたというのは誇りに思う。でも、俺は優希の様に変われるのだろうか。
俺は、かつての自分を畏怖している。その頃の俺は、優希が褒めてくれた痛みというものを知らない。今の自分の全てを壊してしまうかも知れない。誇れるものが何もない。
「暗くなっても意味無いわ。この間の神社のお祭りみたいに明るくさ!」
「あれははしゃぎ過ぎだったろ……」
残念ながらあの時も、咲乃は居なかったしな。
――あれ、俺咲乃に避けられてる?
「古賀。どうでもいいが、そんなにイチャついていると反感を買うだけだぞ?」
予鈴の代わりとなったのは、日本史担当の教師の言葉だった。
まだ記憶に新しいあのサバイバル。とは言っても二ヶ月は過ぎているのだが……。
姐さんの陰謀により、傷痕を必要以上に抉られた一部の男達。
キリストもびっくりであろうほどの血の涙を流し、殺意を具現化していた。殺意が行動に変わると、俺は耐え切れずに事切れてしまった。
「海くーん。おはよー」
不意に天使の伊吹が耳に掛かる。本来なら昇天したところだが、先ほど地獄に送り込まれたはずで、現実にまで引き上げてくれたのだ。
「おはよう咲乃」
咄嗟に起き上がった。目に見えるのは、落ち着いた白を基調にした部屋。時計は上で短針と長身が重なろうとしている。しかしそれだけで、咲乃の姿は見当たらない。
「横だよ」
右か左か。考えるまでもなく、反射で右を向いた。そこに天使はしっかりと降臨なさっていた。鞄を持っているので、もしかするとまだ教室に行ってないのかもしれない。そこまでして俺に会いに来てくれたのかと思うと、涙がちょちょぎれる。
隣のカーテンレールが擦れる音がした。
「土岐多。それキツイやつだから、くれぐれも無理し過ぎるな……よ?」
こちらのカーテンが控えめに開けられた。そこに見えたのは、細く白い男の顔。黒縁の眼鏡が、細さと白さをより強調させている。保健医だとは思うのだが、本人が不健康そうである。
――こいつ、どこかで見たような気がする。
男は咲乃、そして俺という順に視線を移すと共に、表情も安堵から危惧へ。
「はーい。わかりました」
明らかに挙動不審な保健医を気にすることもなく咲乃はいつも通り。姐さんとは別の意味で恐ろしい子……。
保健医は表情を戻すことなく、そそくさと保健室を退場していった。以前なら気にならなかったのかもしれない。しかし、今は保健医の言葉が離れない。咲乃はわざわざ薬を貰う為に保健室までやってきたのではないかと勘ぐってしまう。
「これでお寝坊治るかもしれないよ!」
必要以上に見てしまったのか、咲乃でも気付いてしまった様だ。
ところで、寝起きの薬ってなんなんだろう。それとも早く寝る為の睡眠薬だろうか。確かに睡眠薬ならばキツイといった保健医の言葉も説明が付く。寝坊が直るとはとは思えんが。少なくとも「治る」ことはないだろう。漢字的に。
「んーー」
顔を覗かせた咲乃は、見つめるなり息の掛かる位置まで寄ってきていた。モチロン大歓迎なのだが、あまりに急だったので退がってしまった。ヘタレと連呼する優希がほくそえんでるようで情けなくなる。
「海くん私の事……嫌い?」
「いや! そんなことはないぞ。断っじて」
好きだとは未だ言えないがね。
「私はね、海君の事嫌いだった」
世界は灰色になった。
終わり
「でも、今は好きだよ」
現世ただいま! なんか今閻魔大王様に会ってた気がするけど戻ってこれたよ!
これは告白か。告白なのか。返事をしてもいいのか! 淡麗グリーンラベルが返事をする。イインダヨ! グリーンダヨ!
「今は海くんが好き」
今の自分。それは中途半端な自分の事なのだろうか。
自分自身でダメだと思っているものを好きといわれるのは、複雑だった。変わってしまったら咲乃は好きでいてくれるのだろうか。そんな考えと同時に、恭子の辛そうな顔が過ぎる。
「俺……今の俺は好きじゃない。いや、今までの俺は好きじゃない。ゴメン……」
変われない自分。全てを壊し続けようとした自分。事故に遭って泣くことしかしなかった自分。それ以前の両親に甘え過ぎていた自分。全てが、好きになれない。
「でも、否定することが出来ないんだ」
「否定することなんて、ないと思うな」
優しい声が、優しい瞳が訴えかけてきた。
「実は以前私達会ったことあるんだよ。もう七年前になるのかな」
小学三年生の頃も、ほとんど記憶にない。小学校側としては問題児だったので、もしかしたら覚えているかもしれない。高学年の奴等と喧嘩もしていた。小学生なんて学年で成長の差が激しいので負ける方が圧倒的に多かったのだが、それでも俺は止めなかった。止めれなかった。同年代以下になると慣れている分多人数相手でも負けることはなかった。そして誰からも相手にされなくもなった。
「あれ、痛かったなぁ」
咲乃は遠くを眺めた。そこに過去の俺がいるのなら、俺が殺してやりたい。なんてことをするんだ過去の俺。
「海くんは覚えてないと思うけど、その時色々あったんだよ」
咲乃は父親を病で亡くしてからというもの、塞ぎ込んでしまっていた。預かっていた親族の人からの説得により、三年生になってようやく学校へ行ったそうだ。その日に、俺が殴ってしまった。その時、俺は妹のことを咲乃にある程度話したらしい。以前、妹のがどうかと尋ねたのは、そんな理由があったらしい。
咲乃は、すぐに転校していった。
「それで、今年の春に海くんと」
偶然の再会をした。猿投神社で。嫌いなのに、近づいてきてくれた咲乃。
「お父さんがね、もう喋れもしない状況になった時に、振り絞って出した言葉があるの」
筋委縮性側索硬化症という病気で亡くなったという咲乃の父親。声も出せなくなるというのは既に末期だったのだろう。
「俺は幸せだったって。不思議でしょ? だってお母さんを、私が生まれてすぐに亡くして、自分も苦しい病を患って。それなのに、お父さんは幸せだっていったの」
俺を見つめる瞳は、父親の真意を解いたかの様に落ち着いていた。
「私はお父さんの笑顔が大好き。だから私も、死ぬその時まで、笑っていたい」
「咲乃……」
「再会したばっかりの海君は笑ってはいたんだけど、偽りの笑いって感じがしたんだ」
過去に蓋をした俺の主な手段は、馬鹿みたいに振る舞う事だった。その無理矢理さが伝わっていたのだろうか。
「でも、最近は心から笑ってくれてる様になったよね」
皆と出逢い、俺は変わりつつある。だからこそ、過去の俺が怖くもあるのだ。
「南風原君も言ってたよ。海君はどんどん良い顔になってきてるって」
……確かに、将の俺に対する扱いはまともになってきている。
「何度でも言うよ。私は海くんが好き。嫌いだった過去の海くんを含めて、海くんが好きだよ」
過去を否定するのではない。過去を受け入れたうえで、今を見据えて行く。
咲乃は、俺なんかよりずっと先にいたのだ。
「ありがとう咲乃。自分自身のこともっと考えてみる。そしてそれが終わったら」
いつか、追いついてみせる。咲乃のいる場所まで。そしたら、返事をしたい。俺も咲乃が好きだと。
咲乃は笑ってくれた。
「返事はいらないよ。私は今、幸せだから」
咲乃の笑顔が逆光の所為か、儚げに映った。
もう一度過去を見つめようと思う。家族と共に。
その日の午後、俺は早退し、妹の寝ている病院へと赴いた。
滑らかで綺麗な顔を覗く。その顔は喜怒哀楽もない。十年間変わることのなかった表情。
握った手は暖かいが、握り返すことはない。
「麻耶……」
今一度、妹の名を声にした。
皆と一緒にいれば、俺は変われる。自分を受け入れることが出来る。その時は、何があろうと麻耶を支えてあげたい。例え何年、何十年後であっても、目覚めた時は、全力で支えてあげたい。いや、支えてみせる。
「海斗さん」
入口に姐さんがいた。その表情はいつもより固い。
「残念ながら……カウントダウンが始まってしまいました」
「カウント……ダウン?」
頭はこれまでにないほど落ち着いていた。これまでの言動を基に、推測を組み立てていく。
強い薬。
ほぼ毎日の遅刻。
優希宅や神社の祭りでの不在。
異常なまでの不器用。
筋委縮症。
カウントダウン。
そして――
「咲乃……」
姐さんの合図が、推測を確信へと変えた。
一度は止まりかけていたと思っていた崩壊の時は、流れ続けていた。俺達の半年間は、今度こそ音を立てて崩れ落ちていく。




