拾縁
二学期にもなったというのに、引き続いて水泳の授業があるというのはどうなのだろう。確かにまだまだ暑いが、秋は着々と近づいてきている。
普段は二クラス合同で、男女別々で行動している。しかし、今日は男子の担当教員が急な原因不明の体調不良を起こし、また、まるで狙ったかのように、他の体育教師も授業があり、学校側は渋々ながら女子との合同でその問題を収束させた。それに従い、ある資本家によって寄贈された、無用の長物と化していた特大プールを、生徒会が予測していたとしか思えないスピードで準備していたのだ。生徒会というよりは姐さんのスピードというべきだったかも知れない。
それにしても、この学校は使わないであろう場所が多い。よくもまあそんな金があるものだ。中には、体育館よりも大きい『調理実習館』もあったりするのだが、調理実習室があるので使われる気配もない。
「おぉ……神よ。我等はあなた様を敬う事を誓います」
ほとんどの男子が、一人の漢をアッラーのように拝んでいた。教員に何かをやらかした事について拝まれている立花。俺の立花を見る目はひどく冷めているが、異様に熱いエルサレムへの効果は皆無に等しい。
「古賀はあの中に入らないのか?」
程良く鍛えられた鎧を纏う少年が話しかけてきた。
俺を除けば唯一、イスラム教の様を傍観している。クラスの最後の砦と勝手ながら思わせていただいている男。名を南風原将という。
南風原は、入学当時から俺を明らかに敵視している。優希と再会した際、それは確信へと変わった。最近は薄れてはいるようだが、それでも一歩引かれているのは違いない。
彼女一筋の南風原は、この間もドラマに少し出演するからと高らかに宣伝してきた。本当に少しで――時間にして三分ぐらいの出演で――あったが、中々に見どころのある女優さんだと思った。
そんな女優さんにとって南風原将という存在は、可能性の一つとしてスキャンダルになりうる一因になる存在。しかし、彼女はアイドルではなく女優。むしろそれで名が売れるのなら、進んで出ると言い切った。本当に彼女に全てを捧げ、他の女等どうでもいいのだろう。
「入らないに決まってるだろ。それにもし荷担してたら、あの中央付近で罪悪感にかられてるだろうね」
実際に何かの要請があったが、多大な犠牲を贄に断っていた。どんな犠牲かは考えたくもない。睡眠時間が削られるのは必至。ぴぴるぴるぴるぴぴるぴ~な事である。
「まぁ……」
女子の集団から目的の人物を探すまでに一秒。今日もレーダーは良好だ。隣が目立つっていうのもあったが。
「咲乃が授業参加するなら、別の話だったかな」
咲乃は体育を必ず見学していた。今日も例によって見学席で布面積の少ない派手な水着を着た優希と談笑している。
「少しでも感心した自分が愚かだった。……ああ、愚かだったよ」
南風原の淡い期待を裏切ったところで、ゴングは静かに準備を始めていた。
この学校には指定水着が無いので、様々な色の水着が目に入る。特にプールサイドにある人が成した山から。
まだ授業時間の半分も消化してないのに、性少年は性春の情緒が抑えきれなく、女子からの反撃により沈む者で溢れていた。
わざわざプールサイドに揚げて山を作る南風原は優しいのかとふと疑問に思いつつ、その山を凝視する。怪我の程度は人それぞれではあるが、一番酷いのは立花だった。優希に手出したんだから当然と言えば当然なのだが、さすがに哀れみを受けずにはいられない。ヨモツヒラサカに行って魂の記憶を集めながら助けに行ってやってもいい。
当然ながら、今までの貸しをチャラにしてくれるのならばの話。でなければ、即座に振り返って一人逃げ帰ってやる。
そんないつもの様にくだらない事を思っていた時。いつかを思い出させる、突然の校内放送。
ゴングが、遂に成り響く。
「授業中失礼しま~す」
誰がどう聞いても恭子の声。しかも、生徒会長の恭子ではない。いつもの幼い恭子。職権濫用しすぎだと思うぞ、生徒会会長。
「古賀海斗君。前の約束覚えてるね? そうです。デートは今週の土曜に決定しました。わ~パチパチパチ。ボクの邪気眼がもう疼いて仕方ないよ!」
前の約束。それは、初夏の事。姐さんが優希の個人情報を条件に、言う事をひとつだけ聞くという事だった。
その願い事の概要は、皆と遊んでいた、夏休みのとある日に宣言されていた。
――古賀海斗と一日デート。
この強制的なデートにマイ人権はどこにあるのだろうか。その時は、何時かはそのうち決めておくと言っていた。それがいきなり今週の土曜とは、いくらなんでも急過ぎるだろう。さらに。そう、さらに、だ。
そんな事を今言わなくたっていいと思う。
本人は自覚していないだろうが、恭子のリビングデッドの呼び声は、プールサイドの山の、アンデットを、呼び、起こ、して、しまって、いるんだよぉぉぉおおおおおお。
「きょーっち嬉しそうだね」
「あっ咲乃も思った?」
「わかるよぉー」
そこの御二人方。ほのぼの会話しないでください。そんな事してる間にも、俺は追い込まれていくんです。
俺の悲鳴が虐殺の号令となり、澄み渡る蒼い空は真っ黒に塗り潰された。
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
土曜日。まだ栄誉(?)の傷は完全に癒えていないが、ドタキャンすると後が怖い。先ほど寮室にて、ゾンビと化した立花を捩じ伏せるという重労働を終え、集合場所にやってきた。集合場所は名古屋の栄。以前に優希の事もあって、あまり良い思い出はない。しかし、高校の周りには何もない。市街まで三十分を要する。行った所で市街は廃れている。猿投高校周辺の人間にとって、そんな場所よりも一時間で行ける名古屋を選ぶのは当然の選択だった。
そろそろ約束の三分前。恭子が現れる頃合いである。
「お待たせしました。恭子ちゃんのとーじょーです」
服装なんかには良く分からない俺ではあるが、恭子の服装は多少オカシイとも思う。小学生が着ていそうなカラフルな服装なのだ。左手の大きなリストバンドがより幼さを強調させている。だがしかし、そこはスルーさせて頂く。
「さあ、行こうではないか」
ここは「待った?」「ううん。今来たとこ」という流れになるのがベタというものではないだろうか。俺も一度でいいからそんなやりとりをやってみたい。しかし、恭子とはそんな仲ではないと考え直し、目を瞑る事にする。
隣を歩く恭子は、上目使いで俺を見た。身長の差的に自然と上目使いになっているだけだが、大きな目だけに小動物が連想される。
「その傷、大変だったみたいだね。ボクって隠れファンか多いらしいから。和泉情報だけど」
姐さん情報なら確かであろう。認めたくはないが。
隠れが多いのは、好きだとなると十中八九ロリコンだと思われるからではないかと推測しかけたが、立花がなんか言っていたのを思いだした。
「ロリな面とお姉さんの面のギャップもたまらん」との事。中二病であるこいつに姉属性などありえない。どこから見出したのか聞いてみたい。単なる幻覚だと証明してやろうではないか。ただし、万が一という事もあるので、今度姐さんにも聞いておこう。
「近くで騒がれると余計傷が痛くなる。だから今日はもう喋らないでくれ」
「この男ツンデレめ。傷は舐めると良くなるんだよ。傷口出して」
舐めたら口の菌が入るだけだと思う。舐められたくもない。思い出させないでくれ。
しかし、恭子は本気で顔を近づけてきやがった。
「だから、止めろ!」
左手で頭を押さえつけるが、全然怯む様子がない。耐え切れず右手で恭子の左手を掴むと、リストバンドに触れてしまった。
恭子が、勢いよく俺の手を振り払った。
「邪気眼に触れるは危険だ」
恭子は左手を引き戻し、リストバンド越しで左手を擦っていた。
「ぐぅ……邪気眼が疼いてる」
本当に……扱いに困ります。
何とか気を取り戻したのは昼。腹の具合からして、既に無意識の内に昼食は摂ったようだ。俺は大須で買い物に付き合わされていた。デートというより荷物持ちが正しいと思う現状。そう考えるとなんか気楽でいいな。
「これ似合う?」
「ああ。もちろん似合わな……」
見る前に言いかけ、見た瞬間。俺の時は止まった。
綺麗や可愛いの類ではない。とりあえず、ないったら、ない。
ゴスロリ服を着ている恭子にただ絶句した。
「……そんなのどこにあった?」
恭子は俺の後ろを指差した。
不思議に思い振り向く。すると、肩元にそいつはいた。
「強くなれ、ハ×ヲ。俺を倒せるぐふぉっ…」
手始めに立花を一閃。そういえばこいつ、最近ネットゲームを題材にしたゲームを徹夜でやっていた気がする。「揺○は俺の嫁!」とか叫びながら。
立花が目を覚まさないうちに、遠くへ走る。ゴスロリ服を着せ替える時間も惜しかったので、恭子にプレゼントという事にしてお金だけ払ってそのまま出てきた。まさか生涯で一度は言ってみたい台詞ベスト四位であった「釣りはとっとけ」を本当に言う時がくるとは思いもやらなかった。
今日、これ以上何かあるとこちらが持たない。ただでさえライフ少ない状況で来たのだ。既に心身は限界を超えている。
「マジで勘弁してくれよ……」
軽く眩暈すら覚える。
「よっし。帰ろう!」
「もういいのか?」
個人的には非常にありがたい。しかし、まだ小腹が空く程昼食から経っていない。世の中ではこれからデートという人達もいるであろう時間。
「ただ、最後に猿投神社だけ行きたいのだ」
「猿投神社に?」
「うん、いいでしょ?」
「そのぐらい構わんが……」
知る人ぞ知るという言葉が似合うはずの猿投神社が最近の人気スポットなのか?
名古屋から猿投神社へ。地下鉄を使うわけだが、ゴスロリ少女を連れての道中だという事に気が付いたのは、上前津駅内だった。一駅ごとに人が減っていく豊田線とはいえ、最悪な気分である。そんな視線で指さないでっ!
一六になって間もない俺にはまだ原付免許もなく、自転車が主な交通手段となる。親に送ってもらったという恭子を後ろに乗せ、最寄駅からペダルを踏み続ける。
誰だ。そのぐらい構わんとか言った輩は。遠い。遠過ぎる。最寄駅が全然最寄じゃない。キンモクセイの香りを嗅ぎながら、汗を流すとか勘弁して頂きたいものだ。
「さあ、今こそ路上の鳥居をくぐるのだ」
黄色い鳥居をくぐり、道路を横断する。すると、ようやく現れた総門の横に自転車を止めた。
「久しぶりだなぁ」
恭子は自転車から降りると、すぐにはしゃぎだした。っていうか久しぶりに来たんだ。なんで今来たいだなんて言ったんですか貴方。お陰でこっちは汗まみれでシャツが肌にまとわりついて気持ち悪い。
「かー君ここ見て」
「あぁ?」
恭子は総門の柱を指していた。
「ほら、これ」
凝視してみると、一部分だけ抉られていた。
「こりゃ酷い。誰だよ、こんな事したの」
恭子は何故か俺を指差した。
「かー君」
恭子の即答。それは、マイハートを酷く傷付けた。
「俺だっけ……?」
幼い頃にそんな事をした様な記憶もある様な無い様な。
「ボクはちゃんと覚えてるよ」
恭子が左腕のリストバンドを掴んだ。
「ぜ……お……るよ」
「え?」
俯きながら発した恭子の言葉は、よく聞き取れなかった。
近づこうと一歩踏み出した時。恭子は勢いよく顔を上げ、元気に言い放った。
「ううん、何でもない!」
やっぱり変な奴だ。
「奥まで行こー」
恭子は走っては歩き、ふと進む俺の元まで戻ってはまた走ってゆく。まるで子供だ。
「そういえばあと二ヶ月もすれば祭りか」
「うん。棒の手とかあるね。ちゃんと屋台も並ぶし」
「へぇ」
幼い頃に見に来たはずなんだが、やはりあまり思い出せない。思い出せるのも酷く断片的なものばかりだった。
「ここに来るチョコバナナは、バナナよりパインのが美味しいんだよ」
「そんな超ローカル豆知識いらねぇよ!」
そもそも、美味いかどうかなんて個人によりけりだろうよ。
参道の先にある広場には、中央に拝殿、そして、人を遮る中門が建っていた。中門の先は、見えないようにされている。
恭子は拝殿で足を止め、それ以上、中門に近づかない。
「どうかしたのか?」
「実は刃物って苦手なんだよね」
「刃物?」
見渡すと、中門に奉納された鎌がいくつもさげられていた。遠目からなのでよくはわからないが、鎌の側面にはそれぞれ文字が書かれている様だ。
そんなのがあったような記憶はあれど、実際目にしてみると、変に思える。
「何なんだあれ」
「かー君知らないの?」
恭子は知っているのに俺が知らないっていうのは、馬鹿にされた気持ちになる。一応恭子のが二歳程年上なのだが、精神年齢は御察しなので、そんな思いを持っても致し方ない。
「猿投神社って大碓命を祀ってるんだって」
以前、姐さんから聞いた事を思い出した。かつては猿投の神を祀っていたそうだが、祭神も変わっている様な事を言っていた。それが大碓命という事だろうか。大碓命が誰か知らないが。
「大碓命っていうのはヤマトタケル――小碓命――と双子の兄弟だった人なんだ」
「やけに詳しいな。久しぶりとか言ったくせに」
いつもは際限ない無邪気な笑顔。しかし、今の恭子には限りが見えた。
「昔、調べた事があるんだ」
何故こんなマイナーなもん調べているんだよ。もっと一般常識みたいなの覚えたらどうだ。
「それで、鎌とどう繋がるんだ?」
「大碓命は辺りを開拓していたみたい」
開拓していた祭神に、納められる鎌。つまりは、鎌は開拓の名残というわけか。
「しかも、大碓命は左利きとされていて、奉納されるのは左鎌なんだって」
「へぇ」
既視感に襲われつつも、恭子に感心した。
横を見ると、恭子は顔を強張らせながら俯いていた。
「恭子?」
恭子は振り向き、目と目が交錯した。大きな瞳は潤み、涙を溜めていた。こんな恭子は初めてだったのでどうしたらいいのか分からない。
――先に動いたのは、恭子。
「かー君と一緒なら、もしかしてと思ったんだ」
「ど……どうした? 恭子」
「でも、ダメだった」
恭子は一度、優しく微笑んで一歩引きさがった。
「ダメだった?」
「かー君」
恭子の涙腺に、限界まで涙が溜まっていた。
「今まで、ごめんね」
恭子は反転し、駆け出しかけた。
止めようと、伸ばした手。恭子の左手をリストバンド越しに掴んだ。
「待て恭子。意味が分からな――」
掴んでしまったリストバンドが、腕の方に捲れた。その中にあったのは、大きな一本の傷痕。
「傷……?」
恭子は俺の手を振り払い、すぐに傷痕を隠した。
――今の傷痕は……俺が付けたものだ。そうだ。俺が恭子の左腕を斬ったのだ。恭子が奉納しようとしていた鎌で。
「ボクね、かー君が高校に来る事を……入学前から知ってたよ」
恭子は下を向き、左腕を右手で覆いながら話しだした。
「……すまん」
俺も断片的な記憶が、次々と繋がっていく。
「かー君が謝る事ないよ」
「いや、俺の所為だ」
俺は当時、恭子に当たってしまっていた。両親を失い、沙耶もが意識を取り戻さなくなった。全てが狂いだしていった。そんな時、恭子は俺を支えようとしてくれたのだ。毎日のように事故現場、神社の前に来る俺に対し、話をしてくれた。
「かー君、あんまり覚えてなかったでしょ?」
数年前まで暴れ狂うだけだった俺は、過去に蓋をしてしまった。それで、過去と決別をしたつもりでいた。
――だがそれは、単なる逃げだった。
「そこにボクは甘え過ぎてしまってたんだ」
「違う。全部俺の責任じゃないか! 勝手にキレて、勝手に傷付けて」
恭子はもう一度微笑んだ。その微笑みに胸が酷く痛んだ。
「ボクはお姉さんだ。かー君を包み込んであげないと、守ってあげないといけなかったのに……出来なかった。ボクの責任だ」
違う。そんな事誰にも出来やしない。俺自身の問題に、恭子を傷付ける愚行をしてしまった。全ての責任は俺にある。
「全部、覚えてるから」
涙は遂に溢れ、恭子の頬を伝った。
「これで、最後にするね。だけど、これだけは許して」
最後って何だ。
そう思った矢先、思い出してしまった。それは、俺が恭子に捨て吐いた言葉。あの時から、恭子は来なくなり、俺はそのままこの地を一度去った。
その言葉。
――もう二度と話しかけるな。消えろ! ――
「これい…………いで」
掠れた声を、聞きとる事は出来なかった。俺には、そのまま恭子が去って行く姿を見つめる事しか出来ない。
雨が降っていたなら、少しはこの気持ちも和らぐのだろうか。
天を仰ぐと、雲ひとつない蒼穹の空が続いている。
「ああぁぁああぁああ!」
天に向かい、力の限り腹から吐き出してはみたものの、何も変わらなかった。
どうしたらいいのか分からなかった。何も思いつかない。
視線をゆっくりと下げていくと、奉納された鎌が目に付いた。ひとつの鎌に引き寄せられ歩き出す。その鎌はもう錆びていた。手にして注視すると、文字が書いてあった。
錆を少し落としながら読める様にしていく。そこには、こう書かれていた。
――かーくんが、げんきになりますように。そしてしわあせになりますように――
熱を持つ目頭。視界が滲み出す。
恭子は俺なんかよりも、ずっと大人だったのだ。
「しわあせじゃねーよ……しあわせだろうが」
精一杯の反論も、子供染みていた。




