二話
誤字脱字?そんなのKAN慧音!
一人で帰らない放課後というのは久し振りだった。
小学生以来かもしれない。
僕は、長谷部と並んで歩いていた。
いや、正しくは長谷部が歩く三歩後ろを、僕は歩いていた。
「もうすぐだよ。この先の路地を右に入ったところ」
「……そう」
結局のところ、僕は長谷部の寄り道について行くことになったけど、すぐに帰るつもりでいた。
路地を右に入ると、そこには一件の古びた……良く言えばレトロな喫茶店が見えた。
メビウスリングと書かれた看板と、あるゲームで見たことがあるような、メビウスの輪のリボンの絵。
何となく、店主の趣味が分かった気がした。
「どうしての。早く入ってよ」
「あ、うん」
店の中には客はおらず、ギターとハーモニカの音楽が流れていた。
話し声すらない。そして、カウンターに立つマスターらしき人は、いらっしゃいませとすら言わず、黙々とグラスを拭いていた。
寡黙……にしては度が過ぎている気がする。
長谷部に連れられ、勝手にテーブルに着くとメニューを開く。
どこにでもあるようなメニュー内容だった。料金だって、少し安いぐらいだ。
「すみません。珈琲とケーキセット、チョコレートケーキで。長澤はどうする?」
「えっと、ミルクティーとケーキセット、モンブランで」
「以上です」
マスターが静かに頷いた。
これでいいのか、このお店。
「ふふ、面白い喫茶店でしょ」
「……否定はしない」
「静かだし、雰囲気いいし、何より誰にも邪魔されることがない。長澤好みでしょ、このお店」
「ん、まあね。こういう所はないから」
どうしても、この辺りの飲食店は、うちの生徒が沢山いたり、主婦の世間話があったり、静かな店がなかった。
このお店はかなりの穴場だろう。
この静かすぎる空間が、他の人には堅苦しいのかもしれない。
「なかなかいい所だね」
「喜んでくれて良かったよ」
長谷部は朗らかな笑みを浮かべた。
自分一人だけならなお良かったとは言わなかった。
その辺のTPOは僕だって弁えているし、何故だか今は長谷部のことが邪魔だとか思わなかった。
「さて……」
昨日買った小説を、鞄に入れたまま読んでいないことを思い出して取り出した。
こうした場所ならゆっくりと落ち着いて読めそうだ。
「何それ」
「昨日買った小説です」
「今読むの?」
「当たり前です。こうゆっくりできる時間は貴重ですから」
「別に今じゃなくても……といか分厚いなぁ」
「そうですか。これぐらい普通ですが」
「よく読めるね。私なんか、10ページで眠くなるもん」
「……じゃあ、なんで文芸部に入ったんですか」
「えっと、あはは……」
長谷部が罰が悪そうに笑っていると、テーブルに静かに二種類のケーキと珈琲、そしてミルクティーが置かれた。
そして、伝票を置いて、一言も発することなくマスターは奥に消えていった。
「ん〜っ、おいし」
早速、長谷部はケーキに手を着けていた。
頬に手を当て、だらしがない表情でフォークを喰わえていた。
しばらくの間は長谷部は静かになって僕の邪魔にはならないだろう。
僕は一口ミルクティーを口に含み、小説を読み始めた。
●
ふと気がつけば、一時間という時が流れていた。
注文したミルクティーは残りが冷たくなり、モンブランはすでに無くなっいた。
「あぁ、もうこんな時間ですか……」
冷たくなっいたミルクティーの残りを飲み干し、小説本にしおりを挟んで鞄にしまう。
「……あ」
向かいを見ると、長谷部が机に突っ伏して眠っていた。
あまりにも無防備なその姿に、少し見とれてしまったのは秘密である。
長谷部の性格上、ケーキを食べ終わったら、無理にでも僕と会話をしようとすると思っていた。
もしかして、僕は本に集中しすぎて気付かなかったのだろうか。それとも、長谷部が僕に気を効かしてくれたのだろうか。
「……長谷部、起きて」
僕は、長谷部の耳元で囁き、体を揺すった。
「長谷部」
「………う、ん、あぁ〜おはよう」
「おはよう」
「で、おはようのチューは?」
どうやら、寝ぼけているらしい。
頭をひっぱたいてやった。
顔が熱いのは、きっと風を引いたからだ。
「……痛い」
「目が覚めた?」
「そんな……優希との甘い新婚生活が夢だったなんて……」
なんて恐ろしい夢を見てくれているんだこの人は。
僕と長谷部が……ない。有り得ない。
「そろそろ帰りたいんだけど」
「……ん、あ、もうこんな時間なんだ。じゃあ出ようか」
僕はコクリと頷いた。
レジで清算を済ますと(この時もマスターは一言も言葉を発さず、レジに表情された金額を指差しただけだった)店を出て、長谷部の三歩後ろを歩く。
「気を使ってくれたんですか」
「えっ……」
あまりに唐突すぎただろうか。
「暇じゃなかったんですか。寝てましたし」
「まあ、暇と言えば暇だったけど」
「だったら、気を使わなくて良かったんですけど」
長谷部はかくんと首を傾げた。
「それって、本を読んでる長澤に話しかけて良かったってこと?」
「いえ、帰ってくれて良かったということです」
流石に、本を読んでいる時に邪魔されたら怒るかもしれない。
「私が連れてきたんだし、放ってなんかおけないよ」
それに――と続けて、長谷部は嫌らしくニヤリと笑った。
「私は確かに暇だったけど、本を読む君の愛らしい姿を眺めていると、なかなか楽しめたよ」
「――なっ!」
何を言っているんだこの人は!
ひ、人の姿を、あ、愛らしいなど!
第一、僕は男であって、愛らしいなど言われても嬉しくはない。寧ろ恥ずかしい。
火照った頬が熱い。
「ふふ、長澤がそうやって慌てる姿は初めて見るね」
「き、君は僕をからかっているね」
「からかっているつもりはないよ」
ニヤニヤと笑みを浮かべる長谷部の顔が憎たらしい。
「ところで、長澤はどうだったかな?」
「……なにが」
「一人で居る時と私と一緒に居る時、どっちが良かったかな?」
「一人でいるほうが良かったです!」
からかわれて恥ずかしい思いをすることもないし、落ち着いてやりたいことをやることができる。
「そっか……」
長谷部が悲しそうな表情を浮かべた。
でも……長谷部と一緒に居て、悪い気はしなかった。寧ろ、一人の時とは違うポカポカと温かい気分になって心地よかった。
今日の日差しが暖かいのもあるかもしれない。でも、一人の時に浴びた日差しの暖かさと違って、体の中から温まるようだった。
だから、長谷部と一緒にいるのは、悪くないかなって思う。
「ですが、こうやって一緒にのんびりするのも悪くないかなって思いました」
「……えっ」
「ですから、今回はありがとうございました」
僕は長谷部にお礼を言う。
お世話とかじゃなく、心からそう思う。
こういう気持ちになったのはしばらくだと思う。
何だか、冷たいものがすっと融けたようだった。
「……やっと、笑ってくれたね」
長谷部の呟きに、えっと言うしかなかった。
「気付かなかった?長澤、高校に入ってから一度も笑ったことがないんだよ」
「…………」
それは気付いていた。
長谷部は知らないだろうが、実際は中学時代から笑ったことがない。
お笑い番組を観ても呆れるだけ、同年代の人間と話しても、その稚拙さに辟易するだけ。
家庭の事情もあいまって、笑うことはなくなっていた。
「君を笑顔にしたかった。だけど君は私を追い払い続けた。それでも私は諦めなかった。2ヶ月も掛かったけど、ついに私は……君の笑顔に出来た」
「もしかして、文芸部に入部したのも……」
「長澤の笑顔がみたいから」
呆然とするしかなかった。
長谷部にだって、入りたかった部活くらいあったはずだ。それを、ただ僕を笑顔に……笑顔が見たいからって、文芸部に入るなんて。
「……馬鹿じゃないですか」
「確かに馬鹿かもね」
「ええ、馬鹿です。大馬鹿者です。あなたにも入りたい部活くらいあったでしょう。それを、僕の笑顔が見たいからって……本当馬鹿です」
目から熱いものがこみ上げてきそうになるのを我慢する。
もし、長谷部にバレたら、あの嫌らしく憎たらしいニヤニヤ顔をしてくるのは間違いない。
「おやおや〜、もしかして泣いているのかな。かなかな?」
ああ、本当にこの人は目ざとい。
僕は目を服の袖でこすりつける。
「泣いてません。目にゴミが入って痛いだけです」
「そう?」
僕がそう言っても、きっと長谷部は見透かしているんだと思う。
それでいて、踏み込まず何も言ってこない。その絶妙な距離感。
僕が抱いていた長谷部の印象なら、躊躇無く入り込んで来ると思っていた。
押して駄目なら強引に押せのような人間だから。
こうやって、引くこと事態、長谷部らしくない。
「……らしくないですね」
「そうかな?」
「ええ、遠慮がない図々しい人ですから、もっとからかってくると思ってました」
「そ、そんな言わなくてもいいんじゃないかな。そりゃ、私にだってその自覚はあるし、一応淑やかになれるように頑張っているんだけど」
「……自覚はあったんですね」
だからだろう。
自分の欠点を正すために、長谷部は淑やかにしようとした。その結果、深いところまで踏み入れないようになった。
でも、長谷部のその……良く言えば姉御肌な性格は、僕は美点だと思う。
「でも、僕は別に無理をしなくてもいいと思います」
「えっ」
「その……長谷部の押しの強さとか、姉御肌なのは僕は嫌いじゃないです……」
言ってみて恥ずかしかった。
「えっ、あ、その――っ!」
言われた方も恥ずかしいようで……。
赤面して、おろおろとしている。
人がいないとはいえ、往来のど真ん中で僕は何をやっているんだろう。
「……………」
「……………」
ああああっ!らしくない!らしくないぞ僕!
この無言の空気が気恥ずかしい。恥ずかしすぎる!
「……じゃあ、このままでいっかなぁ。男勝りだとか母さんに怒られるかもしれないけど」
そう言って、長谷部が見せた笑顔は、ちょっぴり頬が赤く染まっているように見えた。
「いいんじゃないですか。婚期が遅れるかもしれませんけど」
「そうなったら貰ってくれる?」
「謹んでお断りさせていただきます」
長谷部ならもっといい人が見つかるるはずだ。
しかし、僕の思いとは裏腹に、長谷部は違うようにとってしまったようだった。
「……絶対に貰ってもらう。責任とってよ」
「うえっ!?」
固い決意表明だった。
これは、もしかして婚約ということになるのか?
ただし、売れ残った場合に限るという条件付きだけど。
出来れば、冗談だと信じたい。
「あっ、私こっちなんだけど」
左右の分かれ道。長谷部は右側を指差した。
僕は左側だ。
「ここでお別れですね」
「そっか、もうちょっと話したかったんだけどなぁ。このまま家に来ない?何だったら泊まっていく?」
何故こうも長谷部はアグレッシブなんだろう。
年頃の女の子が、同年代の男を家に泊めさせようなんて。親御さんはどう思うだろう。
「えっと、それはまた今度ということで……」
「そっ、残念」
長谷部はそれ程残念そうでなく、手をひらひらと降っていた。
「今度ということはチャンスがあるってことだしね」
そう言われて、自分の失策に気がついた。
「じゃあ、また明日」
「あ、はい。また」
僕と長谷部はそれぞれ家路に着いた。
ふと、振り返って見た去っていく長谷部の後ろ姿は、何だか浮かれているようだった。