最終話
夏。
学校は夏休みに入って、今は丁度お盆休みの頃だ。
僕は自分の母親が眠る霊園に来ていた。
本当はもっと早くに来たかったのだけど、僕自身の心の準備に時間が掛かった。
丁度霊魂が現世に帰ってくるというお盆だし、いいタイミングなんじゃないかと思っている。
でも、僕は幽霊とかは信じていない。
別に怖いとかじゃない。ただ、非現実的で非科学的なことが信じることができないからだ。
断じて、幽霊とかお化けとかが怖いわけではない。
断じて! 怖いわけではない!
ぴとっ。
「ぴあぁぁぁ!!」
突如として襲ってきた冷たい感触。
何か、何かが頬に!
冷たくて何か弾力があるものが僕の頬に!
僕は慌てて振り返ると、そこにはこんにゃくを持ってニヤニヤといやらしく笑う長谷部がいた。
先ほどの感触の正体。その手に持つこんにゃくか!
「何するんですか!」
「やはり、墓場に来たら肝試しだろう。そして、肝試しと言えばこんにゃくは定番だろう!」
胸を張って言うことではないだろう。
「今はお昼です!意味ないことしないでください!」
「ふっ……君の可愛らしい叫び声だけで十分意味あることだったよ」
もう殴っていいよね? この変態。
僕は思わず振り抜きそうになる右手を抑える。
その時、僕の肩に柔らかな重みが掛かった。
「長谷部さん。あまりゆー君にちょっかい出さないでください」
僕の肩から、佐山がのしかかるようにして顔を出していた。
密着しすぎて、背中に何やら柔らかな感触を感じる。
「君こそ密着しすぎじゃないかな?」
「幼なじみだからいいんです」
どういう理論だそれは。
「第一、君には彼氏がいるんじゃないのかな? ほら、週刊誌にすっぱ抜かれいたじゃないか」
「あれは違います。交際を求められたからフったんです」
つい最近、佐山は週刊誌に熱愛記事を掲載された。それは、あの糞兄貴が佐山に抱き付いたところを撮った写真だった。
しかし、佐山が後日会見した話によると、糞兄貴に交際を迫られて、それを断ったら抱きつかれたて更にしつこく迫り、身の危険を感じたので、近くの生徒に助けを求めたとのこと。
実際、その週刊誌の写真は、本来なら関係者以外は入れないはずの校内で撮られており、記者が不法侵入して隠し撮りしたのでないかと、今は週刊誌が叩かれている。
あの糞兄貴も、この佐山の会見でハーレム要員達に愛想を尽かされ、学校で肩身が狭くなったようだ。
ところで、この二人が何故ここにいるかというと、このことを知った二人ともが、ついて来ると行って聞かなかったからだ。
結局、僕が鹿島さんに頼んで、追加で連れて行ってもらったのだ。
「……陽奈乃のお墓はこの先です」
「……はい」
僕は、肩にのしかかる佐山を振り解き、道中の花屋で買ってきていた花束を持つ。
後は線香とろうそくとマッチだ。
そして歩き出そうとして、思い出す。
「……あの」
そうだった。
僕は、この時を決めていたのだった。
「お墓参りは僕一人で行かせてください」
●
僕の母さんの墓は、霊園から少し離れたところにあった。
高台になっていて、街が一望出来るところだ。蒼い海も見える。
海から吹く風が頬を撫でる。磯の匂いがした。
「…………」
これが、母さんの墓。
僕は花を手向けると、墓石に水を掛けて軽く拭いた後、ろうそくに火をつけて、線香を上げる。
正しいお墓参りなんて分からない。だけど、これでいいと思う。
僕は静かに手を合わせて、祈った。
――初めて、母さん。
今、僕はあなたのお墓参りをしています。
僕は、母さんがどんな人だったのかは知りません。
僕は母さんのことを覚えていないし、何も知りません。
それでも、僕はあなたのお墓参りをしています。
今まで僕は捨てられた要らない存在だと思っていました。
でも、違った。
僕は捨てられた訳じゃなかった。
運とタイミングが悪かっただけ。捨てるつもりはなかった。
それが分かっただけでも、僕にはとても嬉しかったんだ。
……僕は………。
●
ここは、どこだろう。
まるで、実体がないように体がフワフワしている気がする。
水面に漂っているようだ。
気がつくと、僕はどこかの部屋の中にいた。
僕は何をしていたのだろう。
ふと、潮の香りを含む風が頬を撫でた。
窓が開いている。
いや、気付けば誰かいる。ベッドに誰かいる。
意識がはっきりしてくるに連れて、段々と周りが認識出来るようになってきた。
ベッドにいるのは少女た。その周りには、同じ歳くらいの少女と、医師と看護師。両親らしき人がいた。
ここは、病院だ。
「……ねぇ、ホントに産むの?」
ベッドにいる少女に、同じ歳くらいの少女……多分、友人であろう人がいう。
その友人は目が赤く腫れぼったくなっており、大分泣きはらしたことが分かった。
少女は優しく微笑むと、そんな友人の頭をくしゃりと撫でた。
「うん。そのつもり」
「でも! その子はあの時襲われた――」
「分かってる」
「だったら――」
「でもね……」
少女は愛おしそうに、僅かに膨らんだお腹を撫でた。
「この子には何の罪もないの。それに、この子は私を選んでくれた。だから産むの」
「そんなの……分かるけど……分かんないよ……!」
また泣き出した友人の背中を優しくさする。
「……ありがとう楓。私の代わりに泣いてくれて」
「そんなことないよ……」
「よしよし」
ぐにゃりと今見ていた光景が変わった。
そしてまた別の光景となる。
景色が変わっていた。
窓の奥には雪がチラツいているのが分かった。
少女はまだベッドの上にいた。周りを前と同じ人たちが取り囲んでいる。
季節が変わっただけで、何も変わらないように見えた。
でも、違った。
少女は酷く血色が悪くなっていた。口元には、呼吸を助ける酸素マスクが付けられていた。
直感的に、もう長くはないことが分かった。
自分でも分かっているはずなのに、少女はそれでも穏やかに、優しい笑みを浮かべていた。
少女の腕の中には、赤ちゃんが眠っていた。
「寝ちゃった」
少女は、自分の腕の中で眠る赤ちゃんに微笑みかける。
ふと、少女は友人と両親に手招きした。
ゆっくりと少女に顔を近付けた。
「あのね。私、この子の名前決めたの」
穏やかに微笑んだ。友人も微笑み返そうとするが、涙でどうしても微笑むことができない。
そんな友人に、少女は優しく頭を撫でた。
「泣かないで。お願い」
「……うん」
少女は満足したように優しく笑う。
「それでね。この子の名前は……優希。色んなことがある世の中だけど、優しく、希望を持って育って欲しいから……だから優希」
「……いい名前ね」
「あぁ、いい名前だ」
「ありがとう。母さん、父さん」
少女は嬉しそうに笑った。
そんな少女を見て、両親は複雑そうな笑顔を浮かべる。
母親は少女から顔を背けて、静かに泣き出した。
「……楓、この子のこと、見守ってあげて」
「うん……分かった」
「あと、もう一つお願い」
少女は力なくウインクをした。
「この子が大きくなったらね。一度でいいから私のお気に入りの場所に連れてきて。お願い」
「うん」
「ありがとう」
少女は安心したように、穏やかな表情で目を閉じた。
「……眠くなっちゃった。そろそろ逝くね。優希のこと、お願いね――……」
最後にそう言い残して……。
僕は、その時これが夢だと気付いた。
その瞬間、急激に意識が覚醒した。
●
酷く悲しい夢を見た。
起きたら移動中の鹿島さんの車の中だった。
時計を見ると、ちょっと眠ってしまったみたいだ。
「……あ」
そこで知らぬまに、僕が涙を流していた気づいた。
「あの、鹿島さん。どこに向かっているんですか?」
僕は気になっていたことを聞いた。
でも、どことはわからないけど、何となく分かっている気がした。
「陽奈乃が好きだった場所です」
「それは……どこ何ですか」
「……………」
鹿島さんは黙って何も言わなかった。
車は山を登っていく。
しばらく走ると、そこは山の上にある天文台だった。
「……ここの天文台の、海を見渡せる展望が陽奈乃のお気に入りだったの」
そうなんだ……。
ここには、何があるのだろう。
母さんは何を想って、何を見ていたのか。
この蒼い海が一望できる景色を見れば、分かるだろうか……。
●
まただ。
僕はまた夢を見ていた。
そこはさっきまでいたあの天文台で、一人の少女が立っている。
僕は、その少女に見覚えがあった。
病院のベッドの上にいたその人。よく見れば、僕の顔にそっくりだった。
やっぱり、この人は僕の……。
「こんにちは」
「あっと、こんにちは」
少女は朗らかに微笑みを浮かべていた。
何だか気恥ずかしい。
「はじめまして……じゃないけど、それでいいかな。私は冬川 陽奈乃、君のお母さんだよ」
「……冬川 優希です」
「うん。知ってる」
それもそうかと、不思議と夢の中で納得してしまった。
夢のはずなのに、律儀に潮風が吹く。
母さんはニコニコと笑みを浮かべながら、僕に近付いてくると、僕の頭に手を乗せて身長を較べた。
小柄な僕だけど、較べたら僕の方が身長は高かった。
きっと、小柄なのは遺伝子だろう。
「身長。抜かれちゃたね」
微笑みを浮かべつつも、どこか寂しそうだった。
「そっか、成長しているんだね。そうだよね。もう、歳だって私を抜いちゃうもんね……」
確か、母さんが僕を産んだのが15か16。今の僕と同じ時だ。
今、目の前にいる母さんは、死んだ時から変わらないまま。同年齢なんだ。
「嬉しいけど……やっぱり寂しいな。成長していく姿が見れなくて」
僕はくしゃりと母さんに頭を撫でられた。
夢の癖に、その感触がリアルで、温かくて……涙が出てきそうになる。
「ちゃんと、私が想った通りに育ってくれたんだね」
「……そんなことないですよ」
僕は名前を付けられたら意味のように優しくはない。
僕は名前を付けられたように希望を持たなかった。
何度となく死んでやろうとも思ったし、みんなからは嫌われている。
僕は……裏切ったんだ。
「僕は……嫌われ者なんです。母さんの想うような人間じゃありません。僕は……母さんの期待を裏切ったんです」
母さんはしばらくポカンとして、嬉しそうにクスクスと笑って……僕を抱き締めた。
「……やっぱり、私が願った通りに優しい子だね」
「――そんなこと」
ない、という前に母さんは僕の言葉を遮る。
「だって、泣いてるじゃない」
そこで初めて、僕は自分が涙を流していることに気がついた。
「私が願った通りの人間じゃないと思って、悔しくて、悲しくて、申し訳なくて……泣いているんでしょ? 他人の願いの為に泣いているんでしょ? 優しいよ。私の子は」
違う……いや、違わないかもしれないけど、もう心がごっちゃで、嬉しくて、悲しくて、恥ずかしくて……もう分からない。
ただ、僕は母さんに抱き締められて、その腕の中で涙を流していた。
「僕は……僕は……!」
「よしよし。私は嬉しいんだよ?だから泣かないで」
「でも……僕は……母さんが願った人間じゃ……!」
「……結構強情だね」
まあ、私もだけどねと、母さんは笑う。
そして、母さんは僕を離した。
「どうしてそんなに自分を過小評価するかなぁ?」
「だって、僕は除け者にされて、ずっと一人でした。ずっと、一人の世界にいました。僕には誰も……」
「う〜ん、そうかなぁ?」
パチンッと母さんが指を鳴らした。
すると、二人の少女の姿が現れる。
長谷部と佐山だ。
二人とも眠っているようで、宙を浮かんでいた。
「今は、一人なんかじゃないでしょ。今のキミの世界にはこの二人がいる」
「……確かに、そうかもしれません。でも、もうすぐ長谷部も佐山も、僕の前から去っていくかもしれません」
実際、佐山は一度僕の前から消えた。
他にも、僕を裏切ったりして去っていった人は何人もいる。
だから、僕は一人の世界に入った。
「……怖いんです。大切なものが去っていくのが。信じた人に裏切られるのが……。もう、そんな目に遭いたくないんです」
僕の言葉に、母さんは悲しそうに少し目を伏せた。
母さん自身が、僕の前から去ってしまったことに罪悪感を覚えているのだろう。でも、事情を知った僕は母さんを恨んじゃいない。
「……ごめんね」
「僕は母さんの事を言ったんじゃないです。それに……僕は恨んでませんよ」
「……ありがとう。やっぱり優しい子だよ」
「…………」
「それにね。あの二人は信じていいと私は思うよ。ううん、確信してる」
どうして、そんなことが言えるのか。分からない。
「だって、二人はキミの事を信頼しているみたいだし……気にしているんだもん。じゃなきゃ、こんな所まで着いてこないよ。きっと気があるんだね」
「……信頼されているんですか、僕」
何を信頼されているのか甚だ疑問だけど。
相手が僕を信じているのなら、僕はその相手を信じることが出来るだろうか。
「親の言うことは聞くものだよ」
「……分かりました」
信じよう。二人を。
長谷部と佐山を。
抜け出そう。
一人の世界を。
「うんうん。それでいいよ。是非とも、二人には頑張って欲しいものだね」
母さんは、宙に浮かび眠る二人にウインクを送った。
「私の子は、ニブチンだから、諦めちゃ駄目だよ?」
そう言って、母さんはまた指を鳴らした。
すると、二人の姿は消えた。
「もうすぐ時間だね」
母さんは、病院で赤ちゃんの僕に浮かべたような穏やか笑顔だった。
周りの景色が次第に薄く、白くなっていく。
もう、覚醒が近いようだ。
「……楓にありがとうって伝えてね」
「はい」
そして最後に、母さんは僕を抱き締めた。
「ずっと……見守っているからね……」
その母さんの声を聞いて、僕は夢の世界から現実に戻った。
●
「起きましたか」
目が覚めたら、既に佐山の家の前に車は着いていた。
鹿島さんが少し心配そうに運転席から覗いていた。
「ずっと寝ていたんで心配しましたよ。調子悪いんですか?」
「……いえ、大丈夫です」
「そうですか。ならいいです」
僕は鹿島さんの車から降りる。
鹿島さんはパワーウィンドウを開けて、顔を出した。
「今回は、冬川家に行けませんでしたが、また後日にでも」
「そのことですけど………――」
僕は決めた。