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クラスの地味な男子は最強の陰陽師でした。なぜか私が彼の家に居候することになりました。~赤い服の女~

作者: 豆柴の旅々
掲載日:2026/11/01

 最初にその女の人を見たのは、月曜日の午後だった。


 五時間目の授業中、何気なく窓の外に目を向けると、校門の向こうに赤い服の女の人が立っていた。


 それだけなら、別におかしなことではない。


 学校の前を歩く人なんて、毎日たくさんいる。近所の人が散歩をしていることもあれば、保護者らしい人が校門の前で立ち話をしていることもある。


 ただ、その人は少し変わっていた。


 真っ赤なワンピースに、同じ色のつばの広い帽子。


 手には、赤い日傘を持っている。


 けれど、日傘は差していなかった。


 秋の柔らかな日差しの下、校門の外にじっと立っている。帽子のつばが深く、顔は見えない。


 ……誰かを待っているのかな?


 そう思って、しばらく眺めていた。


 けれど、女の人は一向に動く気配がなかった。


 誰かを探している様子もない。ただ、校舎の方を向いて立っているだけだ。


「水守。今の問題、分かるか?」


「えっ? あ、はい!」


 突然先生に名前を呼ばれ、私は慌てて黒板に目を向けた。


 ……しまった。


 全然聞いてなかった。


 教室のあちこちから小さな笑い声が聞こえ、私は恥ずかしくなって俯いた。


 私の名前は水守日向。


 高校二年生。


 勉強も運動も人並みで、友達からはいつも元気だねと言われる、ごく普通の女子高生だ。


 ただ、一つだけ、普通とは少し違うところがある。


 私には、もう家族がいない。


 両親は私が幼い頃に事故で亡くなり、それからずっと祖母と二人で暮らしてきた。旅行好きで、思い立ったらすぐに出かけてしまうような人だったけれど、私にとっては世界で一番優しいおばあちゃんだった。


 その祖母も、先月、旅先で事故に遭って亡くなった。


 今は、二人で暮らしていた古い家に私一人。


 学校ではなるべく普段どおりに振る舞っている。友達に心配をかけたくないし、明るくしていれば、自分自身も少しは元気になれる気がするから。


 でも、夕方になって家に帰ると、どうしても寂しくなる。


 「ただいま」と声をかけても、もう「おかえり」と返してくれる人はいない。


 そのことに、まだ慣れることができなかった。


 ……いけない。


 また、暗いことを考えちゃった。


 私は小さく首を振り、黒板に書かれた数式へ意識を戻した。


 そうしているうちに、校門の外に立っていた赤い服の女の人のことは、すっかり忘れてしまった。


◇


 翌日の火曜日。


 私は、またあの女の人を見つけた。


 四時間目の授業中だった。


 何気なく窓の外に目を向けると、昨日と同じ赤い服が見えた。


 ……あれ?


 昨日の人だ。


 赤いワンピース。


 赤い帽子。


 そして、閉じたままの日傘。


 間違いない。


 ただ、昨日とは一つだけ違うところがあった。


 女の人は、校門の内側に立っていた。


 昨日は外だったのに。


 ……学校に用事があるのかな?


 でも、それなら職員室に行けばいいのに。


 女の人は、校舎の方を向いたまま動かない。


 よく考えると、昨日も同じだった。


 私が見ていた間、あの人は一度も動かなかった気がする。


 私は、前の席に座っている親友の美咲に、小さな声で話しかけた。


「ねえ、美咲。」


「ん?」


「校門のところにいる、赤い服の女の人。あれ、誰だろう?」


「赤い服?」


 美咲が窓の外を見る。


「……どこ?」


「ほら、校門の内側。帽子をかぶってる人。」


「え? 誰もいないよ?」


「そんなこと……。」


 もう一度、窓の外を見る。


 ……いない。


 さっきまで立っていた場所には、誰もいなかった。


「見間違いじゃない?」


「……そうかも。」


 私は曖昧に笑った。


 けれど、胸の奥に小さな違和感が残った。


 あの女の人は、いつ移動したのだろう。


 ほんの数秒しか目を離していないのに。


 それに、昨日も今日も、まったく同じ服装だった。


 ……気のせいだよね。


 そう自分に言い聞かせた。


 そのとき、教室の後ろの方で、誰かがこちらを見たような気がした。


 一条朔夜君だった。


 長い前髪に、黒縁の眼鏡。


 いつも静かに本を読んでいる、あまり目立たない男子だ。


 授業中も休み時間も、誰かと積極的に話しているところをほとんど見たことがない。


 目が合ったと思った瞬間、一条君は視線を教科書に戻した。


 ……珍しい。


 私たち、ほとんど話したことがないのに。


 少し不思議に思ったけれど、授業中だったので、それ以上は気にしなかった。


◇


 水曜日。


 その日は、放課後に美咲と一緒に勉強する約束をしていた。


 私のアルバイトは夕方からだったので、それまで教室で時間をつぶすことにしたのだ。


「日向、ここ分かる?」


「えっと……たぶん、こっちの公式を使うんじゃない?」


「あ、本当だ!」


 美咲が嬉しそうに笑う。


 私もつられて笑った。


 こうして友達と過ごしている間は、余計なことを考えずに済む。


 おばあちゃんがいなくなってから、美咲には何度も助けられていた。事情を知っているからといって、必要以上に気を遣ったりせず、以前と変わらず接してくれる。


 それが、今の私には何よりありがたかった。


 しばらくして、美咲が時計を見た。


「あっ、もうこんな時間! 私、そろそろ帰らなきゃ。」


「うん。付き合ってくれてありがとう。」


「日向もバイト、頑張ってね!」


「ありがと! また明日!」


 美咲が教室を出ていく。


 私は一人になった教室で、残りの問題を解き始めた。


 窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえてくる。


 グラウンドでは、サッカー部が練習を終えたところらしい。


 ……今日は、少し早めにバイト先へ行こうかな。


 そう思って顔を上げたときだった。


 グラウンドの真ん中に、赤い服の女が立っていた。


「……え?」


 思わず声が漏れた。


 赤いワンピース。


 赤い帽子。


 閉じたままの日傘。


 ……また、あの人だ。


 どうして学校の中にいるの?


 しかも、グラウンドの真ん中に。


 女の人は、じっと校舎を向いていた。


 その横を、帰宅する生徒たちが通り過ぎていく。


 誰も女の人を気にしていない。


 ……見えていないの?


 そのとき、校舎の玄関から美咲が出てきた。


 友達と手を振って別れ、校門へ向かって歩いていく。


 そして。


 美咲は、赤い服の女のすぐそばを通り過ぎた。


「……美咲?」


 女の人との距離は、ほんの一メートルほど。


 なのに、美咲は一度もそちらを見なかった。


 まるで、そこには誰もいないかのように。


 背筋が冷たくなった。


 ……どうして?


 どうして、誰も気づかないの?


 そのとき。


 女の人が、ゆっくりと顔を上げた。


 帽子のつばの下は、相変わらず暗くて見えない。


 けれど。


 こちらを見ている。


 ……私を?


 そう思った瞬間、女の人が一歩踏み出した。


 コツ。


 靴音が聞こえた気がした。


 もう一歩。


 コツ。


 女の人は、まっすぐ校舎へ向かって歩き始めた。


 ……こっちに来るの?


 私は思わず席を立った。


 女の人は、玄関へ向かっている。


 歩く速さは、決して速くない。


 それなのに、目が離せなかった。


 女の人が玄関に入る。


 赤い服が、校舎の中へ消えた。


 ……。


 ……大丈夫。


 きっと、学校に用事があるだけ。


 そう思おうとした。


 けれど、次の瞬間。


 コツ。


 廊下の向こうから、靴音が聞こえた。


 コツ。


 コツ。


 ……嘘。


 この教室は三階だ。


 さっきまでグラウンドにいたのに。


 どうして、もうここまで来ているの?


 コツ。


 コツ。


 足音が近づいてくる。


 私は教室の扉を見つめた。


 ……逃げなきゃ。


 そう思うのに、足が動かない。


 コツ。


 コツ。


 音が、すぐそこまで迫ってきた。


 私は咄嗟に教卓の陰へ駆け寄り、その下に身を隠した。


 膝を抱え、息を殺す。


 ……お願い。


 ……通り過ぎて。


 心臓が、痛いほど鳴っていた。


 コツ。


 コツ。


 足音が、教室の前で止まった。


 ……。


 ……。


 何も聞こえない。


 私は両手で口を押さえた。


 呼吸をすることさえ怖かった。


 少しでも音を立てれば、見つかってしまうかもしれない。


 そんなことを考えると、ますます息が苦しくなってくる。


 ……お願い。


 ……そのまま、行って。


 そのとき。


 コツ。


 足音が、一つ聞こえた。


 ……え?


 今の音。


 教室の中から、聞こえなかった?


 息が止まった。


 私は恐る恐る視線を落とした。


 教卓の下からは、机と椅子の脚が並ぶ床が見えている。


 ……。


 ……何もいない。


 そのとき。


 コツ。


 また、音がした。


 今度は、少し遠い。


 コツ。


 コツ。


 足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 ……行った?


 私は動かなかった。


 教卓の下で膝を抱えたまま、じっと耳を澄ませる。


 もう、足音は聞こえない。


 代わりに、窓の外から運動部の掛け声が聞こえてきた。


 いつもと変わらない、放課後の学校の音。


 ……大丈夫。


 きっと、もういない。


 私は震える手を床につき、ゆっくりと教卓の下から這い出した。


 恐る恐る、教室を見渡す。


 窓際の机。


 黒板。


 誰も座っていない椅子。


 ……誰もいない。


 窓から差し込む夕日が、教室を赤く染めていた。


 私は小さく息を吐いた。


 ……よかった。


 まだ足は震えていたけれど、少しだけ安心できた。


 早く帰ろう。


 鞄を取りに行こうとして、教室の入り口に目を向けた。


 そこに。


 赤い服の女が立っていた。


「……っ!?」


 声が出なかった。


 女は、動かない。


 ただ、こちらを向いて立っている。


 ……どうして?


 ……どうして、そこにいるの?


 足音は、遠ざかったはずなのに。


 女が、ゆっくりと顔を上げた。


 帽子のつばの下から、顔が現れる。


 ……え?


 目が、なかった。


 真っ黒な穴が、二つ。


 その穴が、まっすぐ私を向いている。


 ……見られている。


 目なんて、ないのに。


 女の口が、ゆっくりと横に広がった。


 笑っている。


 ……私を見て、笑っている。


「い……いや……。」


 一歩、後ずさった。


 女の口が、さらに大きく裂けた。


 頬が不自然に引きつり、口の端が耳元まで広がっていく。


 ……逃げなきゃ。


 頭では、分かっていた。


 教室の後ろにも扉がある。そこまで走れば、逃げられるかもしれない。


 なのに。


 足が、動かない。


 ……いや。


 ……来ないで。


 女が、床を蹴った。


 一瞬で、目の前に迫る。


「きゃああああっ!!」


 私は目を閉じた。


 その瞬間。


「――白夜。」


 静かな男の子の声が響いた。


 ――ドンッ!!


 何かが激しくぶつかる音がした。


 ――ガシャン!!


 続けて、机や椅子が倒れる音が教室に響き渡る。


 ……え?


 ……何が起きたの?


 恐る恐る目を開ける。


 教室の机や椅子が、いくつも倒れていた。


 その向こう、壁際に赤い服の女が倒れている。


 そして、私の目の前には。


 一匹の、小さな白い狐が立っていた。


 ……狐?


 真っ白な毛並みに、ふわふわの尻尾。


 見た目は、どこにでもいそうな可愛らしい子狐だった。


 けれど、その周囲には、青白い炎が静かに浮かんでいた。


 狐は私を守るように立ち、赤い服の女をじっと見つめている。


 女が、ゆっくりと立ち上がった。


 真っ黒な目の穴が、こちらを向く。


 そして、白い狐に向かって飛びかかった。


 その腕が、不自然に伸びる。


 ……え?


 長い。


 人間の腕では、あり得ないほどに。


 黒い爪が、狐に迫った。


 けれど。


 ――ゴォッ!!


 青白い炎が、伸びた腕を包み込んだ。


 女が大きく身をよじる。


 その間も、白い狐は一歩も動かなかった。


「……もう終わりだ。」


 背後から、男の子の声がした。


 振り返ると、教室の入り口に一条君が立っていた。


 いつも教室の隅で静かに本を読んでいる、あの一条君。


 長い前髪に、黒縁の眼鏡。


 見慣れた姿のはずなのに、今はまるで別人のように見えた。


 その表情には、恐怖も焦りもない。


 ただ、目の前の怪異を静かに見据えていた。


「白夜。祓え。」


 次の瞬間。


 ――ゴォォォッ!!


 狐の周囲に浮かんでいた炎が、一斉に女へ襲いかかった。


 青白い炎が、女の全身を包み込む。


「ギャァァーーーーー!!」


 耳をつんざくような絶叫が、教室に響き渡った。


 女は炎の中でもがきながら、こちらへ手を伸ばした。


 真っ黒な目の穴が、最後まで私を捉えている。


 けれど、その指先が私に届くことはなかった。


 やがて身体が黒い煙となり、跡形もなく消えていった。


 炎も消え、教室には静けさが戻った。


 ……。


 ……助かった、の?


「水守さん。怪我はない?」


 一条君が、いつもの穏やかな声で話しかけてきた。


「い、一条君……?」


「うん。もう大丈夫だよ。」


 その言葉を聞いた瞬間、足の力が抜けた。


 私は、その場に座り込んでしまった。


「……無理しなくていいよ。」


 一条君が、私の前にしゃがんだ。


「怖かったよね。」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 ……怖かった。


 本当に、怖かった。


 でも、一条君が来てくれた。


 私は小さく頷いた。


「……ありがとう。」


 一条君は、少しだけ微笑んだ。


「うん。もう大丈夫だから。」


 そう言って、私に手を差し出してくれた。


 その手を借りて、どうにか立ち上がる。


 ……温かい。


 さっきまで震えていた指先に、少しだけ感覚が戻ってきた。


 そのとき、一条君の足元で何かが動いた。


 白い、小さな狐。


 さっき私を助けてくれた、あの狐だった。


 狐は私を見上げると、ちょこんと首を傾げた。


「……かわいい。」


「……え?」


「一条君、その子、どうしたの?」


「……その子?」


「ほら、足元の白い狐。」


 一条君が、ぴたりと動きを止めた。


「……水守さん。それが見えるの?」


「うん。見えるよ?」


 ……え?


 何か変なこと言った?


 一条君は、信じられないものを見るような顔をしていた。


 白い狐が、私の足元に近づいてくる。


 しゃがんで手を差し出すと、狐は嬉しそうに鼻先を寄せてきた。


「わあ! 触れるんだ!」


「……白夜。」


 一条君が、驚いたように呟いた。


 狐は振り返ったが、すぐに私の手へ顔をすり寄せた。


「……珍しいな。」


「何が?」


「いや……何でもない。」


 ……。


 ……一条君って、こんなに不思議な人だったんだ。


「ねえ、一条君。」


「……何?」


「さっきの赤い服の女の人、いったい何だったの?」


 一条君は少し考えてから、口を開いた。


「……あれは、人の恐怖に引き寄せられるあやかしだよ。」


「あやかし……?」


「人の不安や恐怖を感じ取って、少しずつ近づいてくる。あの姿も、相手を怖がらせるためのものなんだ。」


「……だから、日に日に近づいてきたの?」


「おそらくね。」


「でも、どうして私のところに……?」


「それは、まだ分からない。」


 一条君は、少しだけ表情を曇らせた。


「ただ、あの女はもう祓った。二度と現れないよ。」


「……そっか。」


 私は、ようやく小さく息を吐いた。


 あの赤い服の女は、もういない。


 そのことだけは、信じてもいいのだと思えた。


◇


「水守さん。俺が家まで送るよ。」


 教室を出たところで、一条君がそう言った。


「えっ? でも、一条君にも用事があるんじゃ……。」


「大丈夫。それより、今日は一人で帰らない方がいい。」


 その言い方が妙に真剣だった。


 私は少し迷ってから、頷いた。


「……ありがとう。」


 途中、アルバイト先には事情を話して休ませてもらった。


 体調が悪いというのは、嘘ではないと思う。


 まだ、足が震えていたから。


 学校から家までは、歩いて二十分ほど。


 一条君は、私の隣を静かに歩いていた。


 白い狐の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。


 ……どこに行ったんだろう。


「あのね、一条君。」


「うん?」


「さっきの女の人……一昨日から学校にいたの。」


「……そう。」


「昨日は、校門の中にいて……。今日は、グラウンドにいた。」


「うん。」


「……知ってたの?」


 一条君は、少しだけ黙った。


「赤い服の女が学校に現れていることは、気づいていた。」


「えっ?」


「ただ、誰を狙っているのか分からなかったんだ。」


 ……狙っている?


「昨日、水守さんが友達と話しているのが聞こえた。あの女が見えているみたいだったから、気になっていたんだ。」


「じゃあ、今日も……?」


「放課後、女が動き出したのを見て、後を追ったんだ。」


「……そうだったんだ。」


「もっと早く気づければよかった。怖い思いをさせて、ごめん。」


 私は首を横に振った。


「ううん! 一条君が来てくれなかったら、私……。」


 言葉が続かなかった。


 あの真っ黒な目の穴を思い出す。


 思わず身体が震えた。


「……もう大丈夫。」


 一条君が静かに言った。


「少なくとも、あの女は二度と現れない。」


 その声には、不思議な安心感があった。


 ……不思議だな。


 昨日までは、ほとんど話したこともないクラスメイトだったのに。


 今は、隣を歩いてくれているだけで、こんなにも心強い。


◇


「ここが、私の家。」


 古い木造の家の前で、私は立ち止まった。


 おばあちゃんと暮らしていた、大切な家だ。


「……立派な家だね。」


「古いだけだよ。おばあちゃんが大事にしてたの。」


 一条君は、門の前で足を止めた。


 そして、何かを確かめるように家を見上げる。


 それまで穏やかだった表情が、少しだけ険しくなった。


「……なるほど。」


「どうしたの?」


「……いや。」


 一条君は門の柱に視線を向け、しばらく何かを考えていた。


 私には、何が気になっているのか分からなかった。


「水守さん。ここには、誰と住んでいるの?」


「……今は、一人。」


「一人?」


「うん。両親は小さい頃に亡くなってて、おばあちゃんと二人で暮らしてたんだけど……。」


 言葉が少し詰まった。


「先月、おばあちゃんも亡くなっちゃったんだ。」


「……そうだったんだ。」


「旅行先で事故に遭ってね。突然だったから、まだ実感がなくて。」


 私は、無理に笑った。


「今、私、独りになっちゃったんだ。」


 一条君は、何も言わなかった。


 ただ、少し悲しそうな顔をした。


 その表情を見て、なぜか胸が温かくなった。


「……おばあさんは、よく旅行に行っていた?」


「うん。旅行が大好きだったの。急に思い立って出かけちゃうこともあったよ。」


「……そう。」


「どうして?」


「ちょっと気になって。」


 一条君は、もう一度家を見た。


「水守さん。おばあさんは、何か特別なことをしていた?」


「特別なこと?」


「例えば……昔から伝わるような、不思議な仕事とか。」


「ううん。普通のおばあちゃんだったよ。」


「……そっか。」


 一条君は、しばらく考え込んでいた。


 そして、真剣な顔で私を見た。


「水守さん。お願いがあるんだけど。」


「何?」


「しばらく、この家を離れてほしい。」


「……え?」


「ここには、何かを寄せつけないための守りが残っている。でも、最近になって急激に弱まったみたいなんだ。」


 ……守り?


 何のこと?


「さっきの女が水守さんを狙っていたのも、偶然じゃないかもしれない。」


「……っ!」


 背筋が冷たくなった。


 あの女の、真っ黒な目の穴が頭に浮かぶ。


 最後まで私に向かって伸ばされていた、あの手。


「で、でも、私……ほかに行くところなんて……。」


「だから、必要な荷物をまとめてくれないかな。」


「え?」


「着替えとか、学校のものとか。大事なものを持ってきて。」


「……どこに行くの?」


「俺の家。」


 ……。


 ……はい?


「えええっ!?」


 思わず大きな声が出た。


「い、一条君の家!?」


「うん。」


「で、でも、わ、私たち、まだお付き合いもしていないし……!」


「……いや、そういう意味じゃないから。」


 一条君が、少し困った顔をした。


「俺の家には妹もいるし、水守さんの部屋も用意できる。家の人にも事情はちゃんと説明するよ。」


「……。」


 ……どうしよう。


 クラスの男子の家に泊まるなんて、考えたこともなかった。


 しかも、ほとんど話したことのない一条君の家だ。


 普通なら、絶対に断っていると思う。


 でも。


 さっきの赤い服の女を思い出す。


 もし、またあんなものが現れたら。


 今度は、一条君が助けに来てくれるとは限らない。


「……分かった。」


 私は小さく頷いた。


「でも、本当に迷惑じゃない?」


「大丈夫。水守さんが安心して過ごせるようにするから。」


「……ありがとう。」


 私は家に入り、必要なものを鞄に詰めた。


 着替え。


 教科書。


 財布と携帯電話。


 そして、机の上に飾っていた、おばあちゃんとの写真。


 写真の中のおばあちゃんは、いつものように優しく笑っていた。


 旅行先で撮った写真だ。


 あの日、おばあちゃんはとても楽しそうだった。


 ……おばあちゃん。


 私、ちょっとだけ家を離れるね。


 写真を鞄にしまい、私は玄関へ向かった。


◇


「……え?」


 一条君の家に到着した私は、思わず立ち止まった。


 目の前には、大きな門があった。


 その向こうには、広い庭園。


 そして、立派な日本家屋。


 ……。


 ……何これ。


「い、一条君……。」


「何?」


「ここ、本当に家?」


「うん。」


「……お寺とかじゃなくて?」


「違うよ。」


「……。」


 ……すごい。


 学校では、いつも教室の隅で静かに本を読んでいる一条君。


 そんな彼が、こんな大きなお屋敷に住んでいるなんて。


 門をくぐると、着物姿の女性が出迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、お坊ちゃま。」


「……ただいま。お坊ちゃまはやめてって、いつも言ってるでしょ。」


「ふふっ。失礼いたしました。」


 女性は微笑んだ。


 そして、私に気づく。


「まあ……!」


 目を丸くした。


「お坊ちゃまが、女性をお連れになるなんて!」


「……だから、そういうのじゃないから。」


「まあまあ! これは皆様にお知らせしなくては!」


「ちょっと、待って!」


 女性は嬉しそうに屋敷の奥へ向かっていった。


 ……。


 ……一条君。


 何だか、大変そう。


「……ごめんね。」


「う、ううん!」


 一条君は、小さくため息をついた。


「とりあえず、入ろうか。」


◇


 案内された居間は、驚くほど広かった。


 大きな窓からは、美しい日本庭園が見える。


 立派な家具が並び、床には柔らかそうな絨毯が敷かれていた。


 ……すごい。


 まるで高級旅館みたい。


 ただ、一つだけ気になるものがあった。


 居間の中央に置かれた、大きなソファ。


 そこに、女性が寝転がっていた。


 長い黒髪。


 美しい顔立ち。


 華やかな着物。


 そして、片手にはポテトチップスの袋。


 女性はテレビに釘付けになっていた。


『行かないで! あなたを愛しているの!』


 テレビから、切実な声が響く。


「おおっ! そこで引き止めるのじゃ!」


 女性が、ソファの上で身を起こした。


「そうじゃ! そのまま抱きしめるのじゃ!」


 ……。


 ……えっと。


 この人、何してるの?


「鈴鹿。」


 一条君が声をかけた。


「……。」


「鈴鹿。ちょっといい?」


「待て、朔夜! 今が一番大事なところじゃ!」


「……また韓流ドラマ?」


「そうじゃ! この男、ようやく己の恋心に気づいたのじゃ!」


「……そう。」


 ……一条君、完全に無視されてる。


 やがてドラマが終わると、女性は満足そうに息をついた。


「ふう……。実によい話じゃった。」


 そして、ようやくこちらを向いた。


「ところで朔夜。その娘は誰じゃ?」


「ああ。クラスメイトの水守さん。」


「初めまして! 水守日向です!」


 慌てて頭を下げる。


 すると、女性は不思議そうに目を瞬かせた。


「……む?」


「はい?」


「お主、妾が見えるのか?」


「……え?」


 私は思わず首を傾げた。


 こんなに綺麗な女性が目の前にいるのに、見えないわけがない。


「はい。見えますけど……。」


「……ほう。」


 女性はポテトチップスの袋を置くと、興味深そうに私を見つめた。


「朔夜。この娘、ただの人間ではないのか?」


「水守さんは人間だよ。ただ、式神が見える理由は、俺にもまだ分からない。」


 ……。


 ……えっと。


 何だろう、この会話。


「ふむ。面白い娘じゃのう。」


 女性は満足そうに頷いた。


「妾は鈴鹿御前じゃ。鈴鹿と呼ぶがよい。」


「す、鈴鹿さんですね。よろしくお願いします!」


「うむ!」


 鈴鹿さんは満足そうに頷くと、再びポテトチップスを手に取った。


「ところで朔夜。この娘は何用じゃ?」


「事情があって、しばらくうちに泊まってもらうことになった。」


「……何じゃと!?」


 鈴鹿さんの手が止まった。


「……泊まる?」


「うん。」


「この屋敷に?」


「そう。」


「……そなたと、ひとつ屋根の下で?」


「そういうことになるね。」


 鈴鹿さんが、ゆっくりと立ち上がった。


「朔夜よ!」


「……何?」


「妾という者がありながら、何ということを!」


「……いや、そういう関係じゃないから。」


「韓流ドラマでは、同居から始まる恋は必ず成就するのじゃ!」


「……ドラマと現実を一緒にしないで。」


「油断は禁物じゃ! 恋とは、いつ芽生えるか分からぬものなのじゃぞ!」


 ……。


 ……何だろう。


 すごく綺麗な人なのに、何だか変わってる。


 そのときだった。


「お兄様!」


 廊下から、明るい声が響いた。


 振り返ると、可愛らしい女の子が立っていた。


 年齢は、私より少し下くらいだろうか。


 長い黒髪を綺麗に整えた、上品な雰囲気の女の子だった。


「お帰りなさいませ、お兄様!」


「ああ。ただいま、小夜。」


「本日もお務め、お疲れ様でございました!」


「……学校に行ってただけだけど。」


「学校生活もまた、お兄様にとって大切なお務めです!」


 ……。


 ……すごい。


 ものすごく尊敬されてる。


 女の子は、嬉しそうに一条君へ近づいてきた。


 そして、私に気づいた。


「……ところで、お兄様。」


「何?」


「そちらの女性は、どなたでしょうか?」


「クラスメイトの水守さん。事情があって、しばらくうちに泊まってもらうことになったんだ。」


「……はい?」


 女の子の笑顔が、ぴたりと止まった。


「……お泊まり、ですか?」


「うん。」


「……お兄様が、女性をお連れになって?」


「そうだよ。」


 女の子は、しばらく固まっていた。


 けれど、すぐに気を取り直したように私へ向き直る。


「……失礼いたしました。初めまして。一条小夜と申します。朔夜お兄様の妹です。」


「は、初めまして! 水守日向です!」


 私は慌てて頭を下げた。


 小夜ちゃんは、とても丁寧にお辞儀をしてくれた。


 ……よかった。


 優しそうな妹さんだ。


 そう思ったのも束の間。


「お兄様! 水守さんのお部屋は、私が責任を持ってご用意いたします!」


「ありがとう。助かるよ。」


「もちろん、お兄様のお部屋から一番遠い場所に!」


「……何で?」


「念のためです!」


 ……。


 ……あれ?


 小夜ちゃん、さっきまで優しそうだったのに。


「むむっ! 小夜、そなたもそう思うじゃろう!」


 鈴鹿さんが、勢いよく立ち上がった。


「朔夜が、突然娘を連れて帰ってきたのじゃ!」


「そうです! お兄様が女性をお連れになるなんて、前代未聞です!」


「そうじゃ! これは由々しき事態じゃ!」


 鈴鹿さんと小夜ちゃんが、揃って私を見る。


 ……。


 ……えっと。


 何だか、ものすごく居心地が悪いんですけど。


「二人とも、水守さんはお客さんなんだから。」


 一条君が、少し呆れたように言った。


「困らせないでよ。」


「お兄様! 私は困らせてなどおりません!」


「そうじゃ! 妾も少し事情を聞きたいだけじゃ!」


「……だったら、落ち着いて聞いて。」


 二人が、同時に口を閉じた。


 ……すごい。


 一条君の一言で、二人とも静かになっちゃった。


◇


 それから、一条君は私に、信じられない話をしてくれた。


 この世には、普通の人には見えない存在がいること。


 人に害をなすものもいて、それらは「あやかし」と呼ばれていること。


 そして。


 一条家は、代々そうした存在に対処してきた陰陽師の家系なのだという。


「……陰陽師?」


「うん。」


「映画とかに出てくる、あの?」


「……まあ、似たようなものかな。」


 ……。


 ……嘘でしょ。


 でも、さっきの赤い服の女を思い出す。


 あれは、どう考えても普通の人間じゃなかった。


「じゃあ、一条君が呼んだ白い狐も……?」


「式神だよ。陰陽師が使役する霊的な存在。」


「……式神。」


「普通の人には見えないんだけど、水守さんには見えている。」


 私は、鈴鹿さんを見た。


「じゃあ、鈴鹿さんも……?」


「うむ! 妾も朔夜の式神じゃ!」


 鈴鹿さんが、得意げに胸を張った。


「……えええっ!?」


 思わず声が出た。


 ……この人が!?


 さっきまでソファでポテトチップスを食べながら、韓流ドラマに夢中になっていた人が!?


「鈴鹿は、かなり高位の式神なんだ。」


「かなり、ではないぞ! 妾は特別じゃ!」


「……うん。そうだね。」


「ふふん!」


 鈴鹿さんは満足そうに笑った。


 そして、ふと思い出したように言った。


「そもそも、あの程度のあやかしなど、朔夜が本気を出すまでもないわ。」


「……え?」


「あの白狐だけで十分じゃ。朔夜が本気になれば、あのようなものは――。」


「鈴鹿。」


「……む?」


「水守さんが怖がるから、その話はもういいよ。」


「むう。仕方あるまい。」


 ……。


 ……一条君。


 いったい、どれくらい強いの?


 私は改めて、隣に座っている一条君を見た。


 長い前髪に、黒縁の眼鏡。


 いつも教室の隅で静かに本を読んでいる、あの一条君だ。


 とても、そんなにすごい人には見えない。


 ……人って、見かけによらないんだなあ。


 一条君は、私の家に結界の痕跡が残っていたことも教えてくれた。


「結界……?」


「うん。あやかしを近づけないための守りだよ。」


「でも、そんなもの……。」


「水守さんの家には、かなり強い結界が張られていたみたいなんだ。ただ、今はその力がほとんど残っていない。」


 ……誰が、そんなことを?


 私の頭に、おばあちゃんの顔が浮かんだ。


 けれど。


 おばあちゃんは、普通の人だったはずだ。


 料理を作ってくれて、一緒にテレビを見て、旅行のお土産を買ってきてくれる。


 優しい、普通のおばあちゃん。


「……おばあちゃんが?」


「まだ分からない。でも、誰かが水守さんを守っていたのは確かだと思う。」


 一条君は、真剣な顔をした。


「だから、しばらくここにいてほしい。何が起きているのか分かるまで。」


「……いいの?」


「もちろん。家の人にもきちんと説明するよ。水守さんが安心して過ごせるようにする。」


 私は、しばらく黙っていた。


 おばあちゃんのいない家。


 一人きりの夜。


 そして、あの赤い服の女。


 ……怖かった。


 本当に、怖かった。


 でも。


 ここには、一条君がいる。


 それだけで、少し安心できる気がした。


「……ありがとう、一条君。」


 私は、心からそう言った。


 一条君は、少し照れたように眼鏡の位置を直した。


「……うん。」


 そのとき。


 コツ。


 廊下から、小さな足音が聞こえた。


「……っ!」


 思わず、身体が強張った。


 あの赤い服の女が、頭に浮かぶ。


 けれど。


「お兄様!」


 廊下から顔を出したのは、小夜ちゃんだった。


「水守さんのお部屋の準備が整いました!」


 ……あ。


 小夜ちゃんだったんだ。


 私は、ほっと息を吐いた。


 すると、一条君がこちらを見た。


「……水守さん?」


「う、ううん。何でもない!」


 慌てて笑うと、一条君は少し心配そうな顔をした。


 けれど、何も言わずに微笑んでくれた。


 ……大丈夫。


 ここは、あの教室じゃない。


 私は、もう一人じゃないんだ。


「お兄様!」


 小夜ちゃんが、勢いよく一条君に近づいた。


「水守さんがお泊まりになることは理解いたしました!」


「うん。」


「ですが! お兄様のお隣は、これまでどおり私の席ですからね!」


「……何の話?」


「お食事の席です!」


「……別に、誰が座ってもいいと思うけど。」


「よくありません!」


「そうじゃ! 朔夜の隣は、妾が座るべきじゃ!」


「鈴鹿様は黙っていてください!」


「何じゃと!?」


 ……。


 ……あれ?


 また始まっちゃった。


 一条君は、小さくため息をついた。


 私は、思わず笑ってしまった。


「……ふふっ。」


 すると、一条君がこちらを見た。


「……どうしたの?」


「ううん。何でもない。」


 こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。


 おばあちゃんが亡くなってから、家に帰っても誰もいなかった。学校でどんなに楽しい時間を過ごしても、玄関の扉を開ければ、そこには静かな部屋が待っていた。


 けれど、今日は違う。


 目の前には、賑やかな人たちがいる。


 そして、私を助けてくれた一条君がいる。


 ……おばあちゃん。


 私、しばらくここでお世話になるね。


 こうして私は、クラスの地味な男子だと思っていた一条朔夜君の家に、居候することになった。


 しかも、彼は最強の陰陽師らしい。


 分からないことは、まだたくさんある。


 あの赤い服の女が、どうして私を狙ったのか。


 おばあちゃんの家に、どうして結界が張られていたのか。


 そして、なぜ私には、普通の人には見えないものが見えるのか。


 でも、今は。


 もう少しだけ、この賑やかな時間を楽しんでいたかった。


 窓の外には、綺麗な夕焼けが広がっていた。


 明日から、どんな毎日が待っているのだろう。


 少し不安だけれど。


 今は、それ以上に楽しみだった。


 ――完。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


赤い服の女の恐怖と、朔夜や日向たちの物語を楽しんでいただけましたら、とても嬉しいです。


本作は、現代を舞台にした陰陽師シリーズの第一作です。


今後も、さまざまな怪異事件と、朔夜や日向、個性豊かな式神たちの日常を描いていければと思っています。


また、ほかにも異世界恋愛やファンタジー、コメディなど、短編シリーズや長編作品を執筆しています。


気に入っていただけましたら、ぜひほかの作品ものぞいてみてください!


面白かったと思っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると、今後の執筆の大きな励みになります。


これからも、どうぞよろしくお願いいたします!

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