クラスの地味な男子は最強の陰陽師でした。なぜか私が彼の家に居候することになりました。~赤い服の女~
最初にその女の人を見たのは、月曜日の午後だった。
五時間目の授業中、何気なく窓の外に目を向けると、校門の向こうに赤い服の女の人が立っていた。
それだけなら、別におかしなことではない。
学校の前を歩く人なんて、毎日たくさんいる。近所の人が散歩をしていることもあれば、保護者らしい人が校門の前で立ち話をしていることもある。
ただ、その人は少し変わっていた。
真っ赤なワンピースに、同じ色のつばの広い帽子。
手には、赤い日傘を持っている。
けれど、日傘は差していなかった。
秋の柔らかな日差しの下、校門の外にじっと立っている。帽子のつばが深く、顔は見えない。
……誰かを待っているのかな?
そう思って、しばらく眺めていた。
けれど、女の人は一向に動く気配がなかった。
誰かを探している様子もない。ただ、校舎の方を向いて立っているだけだ。
「水守。今の問題、分かるか?」
「えっ? あ、はい!」
突然先生に名前を呼ばれ、私は慌てて黒板に目を向けた。
……しまった。
全然聞いてなかった。
教室のあちこちから小さな笑い声が聞こえ、私は恥ずかしくなって俯いた。
私の名前は水守日向。
高校二年生。
勉強も運動も人並みで、友達からはいつも元気だねと言われる、ごく普通の女子高生だ。
ただ、一つだけ、普通とは少し違うところがある。
私には、もう家族がいない。
両親は私が幼い頃に事故で亡くなり、それからずっと祖母と二人で暮らしてきた。旅行好きで、思い立ったらすぐに出かけてしまうような人だったけれど、私にとっては世界で一番優しいおばあちゃんだった。
その祖母も、先月、旅先で事故に遭って亡くなった。
今は、二人で暮らしていた古い家に私一人。
学校ではなるべく普段どおりに振る舞っている。友達に心配をかけたくないし、明るくしていれば、自分自身も少しは元気になれる気がするから。
でも、夕方になって家に帰ると、どうしても寂しくなる。
「ただいま」と声をかけても、もう「おかえり」と返してくれる人はいない。
そのことに、まだ慣れることができなかった。
……いけない。
また、暗いことを考えちゃった。
私は小さく首を振り、黒板に書かれた数式へ意識を戻した。
そうしているうちに、校門の外に立っていた赤い服の女の人のことは、すっかり忘れてしまった。
◇
翌日の火曜日。
私は、またあの女の人を見つけた。
四時間目の授業中だった。
何気なく窓の外に目を向けると、昨日と同じ赤い服が見えた。
……あれ?
昨日の人だ。
赤いワンピース。
赤い帽子。
そして、閉じたままの日傘。
間違いない。
ただ、昨日とは一つだけ違うところがあった。
女の人は、校門の内側に立っていた。
昨日は外だったのに。
……学校に用事があるのかな?
でも、それなら職員室に行けばいいのに。
女の人は、校舎の方を向いたまま動かない。
よく考えると、昨日も同じだった。
私が見ていた間、あの人は一度も動かなかった気がする。
私は、前の席に座っている親友の美咲に、小さな声で話しかけた。
「ねえ、美咲。」
「ん?」
「校門のところにいる、赤い服の女の人。あれ、誰だろう?」
「赤い服?」
美咲が窓の外を見る。
「……どこ?」
「ほら、校門の内側。帽子をかぶってる人。」
「え? 誰もいないよ?」
「そんなこと……。」
もう一度、窓の外を見る。
……いない。
さっきまで立っていた場所には、誰もいなかった。
「見間違いじゃない?」
「……そうかも。」
私は曖昧に笑った。
けれど、胸の奥に小さな違和感が残った。
あの女の人は、いつ移動したのだろう。
ほんの数秒しか目を離していないのに。
それに、昨日も今日も、まったく同じ服装だった。
……気のせいだよね。
そう自分に言い聞かせた。
そのとき、教室の後ろの方で、誰かがこちらを見たような気がした。
一条朔夜君だった。
長い前髪に、黒縁の眼鏡。
いつも静かに本を読んでいる、あまり目立たない男子だ。
授業中も休み時間も、誰かと積極的に話しているところをほとんど見たことがない。
目が合ったと思った瞬間、一条君は視線を教科書に戻した。
……珍しい。
私たち、ほとんど話したことがないのに。
少し不思議に思ったけれど、授業中だったので、それ以上は気にしなかった。
◇
水曜日。
その日は、放課後に美咲と一緒に勉強する約束をしていた。
私のアルバイトは夕方からだったので、それまで教室で時間をつぶすことにしたのだ。
「日向、ここ分かる?」
「えっと……たぶん、こっちの公式を使うんじゃない?」
「あ、本当だ!」
美咲が嬉しそうに笑う。
私もつられて笑った。
こうして友達と過ごしている間は、余計なことを考えずに済む。
おばあちゃんがいなくなってから、美咲には何度も助けられていた。事情を知っているからといって、必要以上に気を遣ったりせず、以前と変わらず接してくれる。
それが、今の私には何よりありがたかった。
しばらくして、美咲が時計を見た。
「あっ、もうこんな時間! 私、そろそろ帰らなきゃ。」
「うん。付き合ってくれてありがとう。」
「日向もバイト、頑張ってね!」
「ありがと! また明日!」
美咲が教室を出ていく。
私は一人になった教室で、残りの問題を解き始めた。
窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえてくる。
グラウンドでは、サッカー部が練習を終えたところらしい。
……今日は、少し早めにバイト先へ行こうかな。
そう思って顔を上げたときだった。
グラウンドの真ん中に、赤い服の女が立っていた。
「……え?」
思わず声が漏れた。
赤いワンピース。
赤い帽子。
閉じたままの日傘。
……また、あの人だ。
どうして学校の中にいるの?
しかも、グラウンドの真ん中に。
女の人は、じっと校舎を向いていた。
その横を、帰宅する生徒たちが通り過ぎていく。
誰も女の人を気にしていない。
……見えていないの?
そのとき、校舎の玄関から美咲が出てきた。
友達と手を振って別れ、校門へ向かって歩いていく。
そして。
美咲は、赤い服の女のすぐそばを通り過ぎた。
「……美咲?」
女の人との距離は、ほんの一メートルほど。
なのに、美咲は一度もそちらを見なかった。
まるで、そこには誰もいないかのように。
背筋が冷たくなった。
……どうして?
どうして、誰も気づかないの?
そのとき。
女の人が、ゆっくりと顔を上げた。
帽子のつばの下は、相変わらず暗くて見えない。
けれど。
こちらを見ている。
……私を?
そう思った瞬間、女の人が一歩踏み出した。
コツ。
靴音が聞こえた気がした。
もう一歩。
コツ。
女の人は、まっすぐ校舎へ向かって歩き始めた。
……こっちに来るの?
私は思わず席を立った。
女の人は、玄関へ向かっている。
歩く速さは、決して速くない。
それなのに、目が離せなかった。
女の人が玄関に入る。
赤い服が、校舎の中へ消えた。
……。
……大丈夫。
きっと、学校に用事があるだけ。
そう思おうとした。
けれど、次の瞬間。
コツ。
廊下の向こうから、靴音が聞こえた。
コツ。
コツ。
……嘘。
この教室は三階だ。
さっきまでグラウンドにいたのに。
どうして、もうここまで来ているの?
コツ。
コツ。
足音が近づいてくる。
私は教室の扉を見つめた。
……逃げなきゃ。
そう思うのに、足が動かない。
コツ。
コツ。
音が、すぐそこまで迫ってきた。
私は咄嗟に教卓の陰へ駆け寄り、その下に身を隠した。
膝を抱え、息を殺す。
……お願い。
……通り過ぎて。
心臓が、痛いほど鳴っていた。
コツ。
コツ。
足音が、教室の前で止まった。
……。
……。
何も聞こえない。
私は両手で口を押さえた。
呼吸をすることさえ怖かった。
少しでも音を立てれば、見つかってしまうかもしれない。
そんなことを考えると、ますます息が苦しくなってくる。
……お願い。
……そのまま、行って。
そのとき。
コツ。
足音が、一つ聞こえた。
……え?
今の音。
教室の中から、聞こえなかった?
息が止まった。
私は恐る恐る視線を落とした。
教卓の下からは、机と椅子の脚が並ぶ床が見えている。
……。
……何もいない。
そのとき。
コツ。
また、音がした。
今度は、少し遠い。
コツ。
コツ。
足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
……行った?
私は動かなかった。
教卓の下で膝を抱えたまま、じっと耳を澄ませる。
もう、足音は聞こえない。
代わりに、窓の外から運動部の掛け声が聞こえてきた。
いつもと変わらない、放課後の学校の音。
……大丈夫。
きっと、もういない。
私は震える手を床につき、ゆっくりと教卓の下から這い出した。
恐る恐る、教室を見渡す。
窓際の机。
黒板。
誰も座っていない椅子。
……誰もいない。
窓から差し込む夕日が、教室を赤く染めていた。
私は小さく息を吐いた。
……よかった。
まだ足は震えていたけれど、少しだけ安心できた。
早く帰ろう。
鞄を取りに行こうとして、教室の入り口に目を向けた。
そこに。
赤い服の女が立っていた。
「……っ!?」
声が出なかった。
女は、動かない。
ただ、こちらを向いて立っている。
……どうして?
……どうして、そこにいるの?
足音は、遠ざかったはずなのに。
女が、ゆっくりと顔を上げた。
帽子のつばの下から、顔が現れる。
……え?
目が、なかった。
真っ黒な穴が、二つ。
その穴が、まっすぐ私を向いている。
……見られている。
目なんて、ないのに。
女の口が、ゆっくりと横に広がった。
笑っている。
……私を見て、笑っている。
「い……いや……。」
一歩、後ずさった。
女の口が、さらに大きく裂けた。
頬が不自然に引きつり、口の端が耳元まで広がっていく。
……逃げなきゃ。
頭では、分かっていた。
教室の後ろにも扉がある。そこまで走れば、逃げられるかもしれない。
なのに。
足が、動かない。
……いや。
……来ないで。
女が、床を蹴った。
一瞬で、目の前に迫る。
「きゃああああっ!!」
私は目を閉じた。
その瞬間。
「――白夜。」
静かな男の子の声が響いた。
――ドンッ!!
何かが激しくぶつかる音がした。
――ガシャン!!
続けて、机や椅子が倒れる音が教室に響き渡る。
……え?
……何が起きたの?
恐る恐る目を開ける。
教室の机や椅子が、いくつも倒れていた。
その向こう、壁際に赤い服の女が倒れている。
そして、私の目の前には。
一匹の、小さな白い狐が立っていた。
……狐?
真っ白な毛並みに、ふわふわの尻尾。
見た目は、どこにでもいそうな可愛らしい子狐だった。
けれど、その周囲には、青白い炎が静かに浮かんでいた。
狐は私を守るように立ち、赤い服の女をじっと見つめている。
女が、ゆっくりと立ち上がった。
真っ黒な目の穴が、こちらを向く。
そして、白い狐に向かって飛びかかった。
その腕が、不自然に伸びる。
……え?
長い。
人間の腕では、あり得ないほどに。
黒い爪が、狐に迫った。
けれど。
――ゴォッ!!
青白い炎が、伸びた腕を包み込んだ。
女が大きく身をよじる。
その間も、白い狐は一歩も動かなかった。
「……もう終わりだ。」
背後から、男の子の声がした。
振り返ると、教室の入り口に一条君が立っていた。
いつも教室の隅で静かに本を読んでいる、あの一条君。
長い前髪に、黒縁の眼鏡。
見慣れた姿のはずなのに、今はまるで別人のように見えた。
その表情には、恐怖も焦りもない。
ただ、目の前の怪異を静かに見据えていた。
「白夜。祓え。」
次の瞬間。
――ゴォォォッ!!
狐の周囲に浮かんでいた炎が、一斉に女へ襲いかかった。
青白い炎が、女の全身を包み込む。
「ギャァァーーーーー!!」
耳をつんざくような絶叫が、教室に響き渡った。
女は炎の中でもがきながら、こちらへ手を伸ばした。
真っ黒な目の穴が、最後まで私を捉えている。
けれど、その指先が私に届くことはなかった。
やがて身体が黒い煙となり、跡形もなく消えていった。
炎も消え、教室には静けさが戻った。
……。
……助かった、の?
「水守さん。怪我はない?」
一条君が、いつもの穏やかな声で話しかけてきた。
「い、一条君……?」
「うん。もう大丈夫だよ。」
その言葉を聞いた瞬間、足の力が抜けた。
私は、その場に座り込んでしまった。
「……無理しなくていいよ。」
一条君が、私の前にしゃがんだ。
「怖かったよね。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
……怖かった。
本当に、怖かった。
でも、一条君が来てくれた。
私は小さく頷いた。
「……ありがとう。」
一条君は、少しだけ微笑んだ。
「うん。もう大丈夫だから。」
そう言って、私に手を差し出してくれた。
その手を借りて、どうにか立ち上がる。
……温かい。
さっきまで震えていた指先に、少しだけ感覚が戻ってきた。
そのとき、一条君の足元で何かが動いた。
白い、小さな狐。
さっき私を助けてくれた、あの狐だった。
狐は私を見上げると、ちょこんと首を傾げた。
「……かわいい。」
「……え?」
「一条君、その子、どうしたの?」
「……その子?」
「ほら、足元の白い狐。」
一条君が、ぴたりと動きを止めた。
「……水守さん。それが見えるの?」
「うん。見えるよ?」
……え?
何か変なこと言った?
一条君は、信じられないものを見るような顔をしていた。
白い狐が、私の足元に近づいてくる。
しゃがんで手を差し出すと、狐は嬉しそうに鼻先を寄せてきた。
「わあ! 触れるんだ!」
「……白夜。」
一条君が、驚いたように呟いた。
狐は振り返ったが、すぐに私の手へ顔をすり寄せた。
「……珍しいな。」
「何が?」
「いや……何でもない。」
……。
……一条君って、こんなに不思議な人だったんだ。
「ねえ、一条君。」
「……何?」
「さっきの赤い服の女の人、いったい何だったの?」
一条君は少し考えてから、口を開いた。
「……あれは、人の恐怖に引き寄せられるあやかしだよ。」
「あやかし……?」
「人の不安や恐怖を感じ取って、少しずつ近づいてくる。あの姿も、相手を怖がらせるためのものなんだ。」
「……だから、日に日に近づいてきたの?」
「おそらくね。」
「でも、どうして私のところに……?」
「それは、まだ分からない。」
一条君は、少しだけ表情を曇らせた。
「ただ、あの女はもう祓った。二度と現れないよ。」
「……そっか。」
私は、ようやく小さく息を吐いた。
あの赤い服の女は、もういない。
そのことだけは、信じてもいいのだと思えた。
◇
「水守さん。俺が家まで送るよ。」
教室を出たところで、一条君がそう言った。
「えっ? でも、一条君にも用事があるんじゃ……。」
「大丈夫。それより、今日は一人で帰らない方がいい。」
その言い方が妙に真剣だった。
私は少し迷ってから、頷いた。
「……ありがとう。」
途中、アルバイト先には事情を話して休ませてもらった。
体調が悪いというのは、嘘ではないと思う。
まだ、足が震えていたから。
学校から家までは、歩いて二十分ほど。
一条君は、私の隣を静かに歩いていた。
白い狐の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
……どこに行ったんだろう。
「あのね、一条君。」
「うん?」
「さっきの女の人……一昨日から学校にいたの。」
「……そう。」
「昨日は、校門の中にいて……。今日は、グラウンドにいた。」
「うん。」
「……知ってたの?」
一条君は、少しだけ黙った。
「赤い服の女が学校に現れていることは、気づいていた。」
「えっ?」
「ただ、誰を狙っているのか分からなかったんだ。」
……狙っている?
「昨日、水守さんが友達と話しているのが聞こえた。あの女が見えているみたいだったから、気になっていたんだ。」
「じゃあ、今日も……?」
「放課後、女が動き出したのを見て、後を追ったんだ。」
「……そうだったんだ。」
「もっと早く気づければよかった。怖い思いをさせて、ごめん。」
私は首を横に振った。
「ううん! 一条君が来てくれなかったら、私……。」
言葉が続かなかった。
あの真っ黒な目の穴を思い出す。
思わず身体が震えた。
「……もう大丈夫。」
一条君が静かに言った。
「少なくとも、あの女は二度と現れない。」
その声には、不思議な安心感があった。
……不思議だな。
昨日までは、ほとんど話したこともないクラスメイトだったのに。
今は、隣を歩いてくれているだけで、こんなにも心強い。
◇
「ここが、私の家。」
古い木造の家の前で、私は立ち止まった。
おばあちゃんと暮らしていた、大切な家だ。
「……立派な家だね。」
「古いだけだよ。おばあちゃんが大事にしてたの。」
一条君は、門の前で足を止めた。
そして、何かを確かめるように家を見上げる。
それまで穏やかだった表情が、少しだけ険しくなった。
「……なるほど。」
「どうしたの?」
「……いや。」
一条君は門の柱に視線を向け、しばらく何かを考えていた。
私には、何が気になっているのか分からなかった。
「水守さん。ここには、誰と住んでいるの?」
「……今は、一人。」
「一人?」
「うん。両親は小さい頃に亡くなってて、おばあちゃんと二人で暮らしてたんだけど……。」
言葉が少し詰まった。
「先月、おばあちゃんも亡くなっちゃったんだ。」
「……そうだったんだ。」
「旅行先で事故に遭ってね。突然だったから、まだ実感がなくて。」
私は、無理に笑った。
「今、私、独りになっちゃったんだ。」
一条君は、何も言わなかった。
ただ、少し悲しそうな顔をした。
その表情を見て、なぜか胸が温かくなった。
「……おばあさんは、よく旅行に行っていた?」
「うん。旅行が大好きだったの。急に思い立って出かけちゃうこともあったよ。」
「……そう。」
「どうして?」
「ちょっと気になって。」
一条君は、もう一度家を見た。
「水守さん。おばあさんは、何か特別なことをしていた?」
「特別なこと?」
「例えば……昔から伝わるような、不思議な仕事とか。」
「ううん。普通のおばあちゃんだったよ。」
「……そっか。」
一条君は、しばらく考え込んでいた。
そして、真剣な顔で私を見た。
「水守さん。お願いがあるんだけど。」
「何?」
「しばらく、この家を離れてほしい。」
「……え?」
「ここには、何かを寄せつけないための守りが残っている。でも、最近になって急激に弱まったみたいなんだ。」
……守り?
何のこと?
「さっきの女が水守さんを狙っていたのも、偶然じゃないかもしれない。」
「……っ!」
背筋が冷たくなった。
あの女の、真っ黒な目の穴が頭に浮かぶ。
最後まで私に向かって伸ばされていた、あの手。
「で、でも、私……ほかに行くところなんて……。」
「だから、必要な荷物をまとめてくれないかな。」
「え?」
「着替えとか、学校のものとか。大事なものを持ってきて。」
「……どこに行くの?」
「俺の家。」
……。
……はい?
「えええっ!?」
思わず大きな声が出た。
「い、一条君の家!?」
「うん。」
「で、でも、わ、私たち、まだお付き合いもしていないし……!」
「……いや、そういう意味じゃないから。」
一条君が、少し困った顔をした。
「俺の家には妹もいるし、水守さんの部屋も用意できる。家の人にも事情はちゃんと説明するよ。」
「……。」
……どうしよう。
クラスの男子の家に泊まるなんて、考えたこともなかった。
しかも、ほとんど話したことのない一条君の家だ。
普通なら、絶対に断っていると思う。
でも。
さっきの赤い服の女を思い出す。
もし、またあんなものが現れたら。
今度は、一条君が助けに来てくれるとは限らない。
「……分かった。」
私は小さく頷いた。
「でも、本当に迷惑じゃない?」
「大丈夫。水守さんが安心して過ごせるようにするから。」
「……ありがとう。」
私は家に入り、必要なものを鞄に詰めた。
着替え。
教科書。
財布と携帯電話。
そして、机の上に飾っていた、おばあちゃんとの写真。
写真の中のおばあちゃんは、いつものように優しく笑っていた。
旅行先で撮った写真だ。
あの日、おばあちゃんはとても楽しそうだった。
……おばあちゃん。
私、ちょっとだけ家を離れるね。
写真を鞄にしまい、私は玄関へ向かった。
◇
「……え?」
一条君の家に到着した私は、思わず立ち止まった。
目の前には、大きな門があった。
その向こうには、広い庭園。
そして、立派な日本家屋。
……。
……何これ。
「い、一条君……。」
「何?」
「ここ、本当に家?」
「うん。」
「……お寺とかじゃなくて?」
「違うよ。」
「……。」
……すごい。
学校では、いつも教室の隅で静かに本を読んでいる一条君。
そんな彼が、こんな大きなお屋敷に住んでいるなんて。
門をくぐると、着物姿の女性が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、お坊ちゃま。」
「……ただいま。お坊ちゃまはやめてって、いつも言ってるでしょ。」
「ふふっ。失礼いたしました。」
女性は微笑んだ。
そして、私に気づく。
「まあ……!」
目を丸くした。
「お坊ちゃまが、女性をお連れになるなんて!」
「……だから、そういうのじゃないから。」
「まあまあ! これは皆様にお知らせしなくては!」
「ちょっと、待って!」
女性は嬉しそうに屋敷の奥へ向かっていった。
……。
……一条君。
何だか、大変そう。
「……ごめんね。」
「う、ううん!」
一条君は、小さくため息をついた。
「とりあえず、入ろうか。」
◇
案内された居間は、驚くほど広かった。
大きな窓からは、美しい日本庭園が見える。
立派な家具が並び、床には柔らかそうな絨毯が敷かれていた。
……すごい。
まるで高級旅館みたい。
ただ、一つだけ気になるものがあった。
居間の中央に置かれた、大きなソファ。
そこに、女性が寝転がっていた。
長い黒髪。
美しい顔立ち。
華やかな着物。
そして、片手にはポテトチップスの袋。
女性はテレビに釘付けになっていた。
『行かないで! あなたを愛しているの!』
テレビから、切実な声が響く。
「おおっ! そこで引き止めるのじゃ!」
女性が、ソファの上で身を起こした。
「そうじゃ! そのまま抱きしめるのじゃ!」
……。
……えっと。
この人、何してるの?
「鈴鹿。」
一条君が声をかけた。
「……。」
「鈴鹿。ちょっといい?」
「待て、朔夜! 今が一番大事なところじゃ!」
「……また韓流ドラマ?」
「そうじゃ! この男、ようやく己の恋心に気づいたのじゃ!」
「……そう。」
……一条君、完全に無視されてる。
やがてドラマが終わると、女性は満足そうに息をついた。
「ふう……。実によい話じゃった。」
そして、ようやくこちらを向いた。
「ところで朔夜。その娘は誰じゃ?」
「ああ。クラスメイトの水守さん。」
「初めまして! 水守日向です!」
慌てて頭を下げる。
すると、女性は不思議そうに目を瞬かせた。
「……む?」
「はい?」
「お主、妾が見えるのか?」
「……え?」
私は思わず首を傾げた。
こんなに綺麗な女性が目の前にいるのに、見えないわけがない。
「はい。見えますけど……。」
「……ほう。」
女性はポテトチップスの袋を置くと、興味深そうに私を見つめた。
「朔夜。この娘、ただの人間ではないのか?」
「水守さんは人間だよ。ただ、式神が見える理由は、俺にもまだ分からない。」
……。
……えっと。
何だろう、この会話。
「ふむ。面白い娘じゃのう。」
女性は満足そうに頷いた。
「妾は鈴鹿御前じゃ。鈴鹿と呼ぶがよい。」
「す、鈴鹿さんですね。よろしくお願いします!」
「うむ!」
鈴鹿さんは満足そうに頷くと、再びポテトチップスを手に取った。
「ところで朔夜。この娘は何用じゃ?」
「事情があって、しばらくうちに泊まってもらうことになった。」
「……何じゃと!?」
鈴鹿さんの手が止まった。
「……泊まる?」
「うん。」
「この屋敷に?」
「そう。」
「……そなたと、ひとつ屋根の下で?」
「そういうことになるね。」
鈴鹿さんが、ゆっくりと立ち上がった。
「朔夜よ!」
「……何?」
「妾という者がありながら、何ということを!」
「……いや、そういう関係じゃないから。」
「韓流ドラマでは、同居から始まる恋は必ず成就するのじゃ!」
「……ドラマと現実を一緒にしないで。」
「油断は禁物じゃ! 恋とは、いつ芽生えるか分からぬものなのじゃぞ!」
……。
……何だろう。
すごく綺麗な人なのに、何だか変わってる。
そのときだった。
「お兄様!」
廊下から、明るい声が響いた。
振り返ると、可愛らしい女の子が立っていた。
年齢は、私より少し下くらいだろうか。
長い黒髪を綺麗に整えた、上品な雰囲気の女の子だった。
「お帰りなさいませ、お兄様!」
「ああ。ただいま、小夜。」
「本日もお務め、お疲れ様でございました!」
「……学校に行ってただけだけど。」
「学校生活もまた、お兄様にとって大切なお務めです!」
……。
……すごい。
ものすごく尊敬されてる。
女の子は、嬉しそうに一条君へ近づいてきた。
そして、私に気づいた。
「……ところで、お兄様。」
「何?」
「そちらの女性は、どなたでしょうか?」
「クラスメイトの水守さん。事情があって、しばらくうちに泊まってもらうことになったんだ。」
「……はい?」
女の子の笑顔が、ぴたりと止まった。
「……お泊まり、ですか?」
「うん。」
「……お兄様が、女性をお連れになって?」
「そうだよ。」
女の子は、しばらく固まっていた。
けれど、すぐに気を取り直したように私へ向き直る。
「……失礼いたしました。初めまして。一条小夜と申します。朔夜お兄様の妹です。」
「は、初めまして! 水守日向です!」
私は慌てて頭を下げた。
小夜ちゃんは、とても丁寧にお辞儀をしてくれた。
……よかった。
優しそうな妹さんだ。
そう思ったのも束の間。
「お兄様! 水守さんのお部屋は、私が責任を持ってご用意いたします!」
「ありがとう。助かるよ。」
「もちろん、お兄様のお部屋から一番遠い場所に!」
「……何で?」
「念のためです!」
……。
……あれ?
小夜ちゃん、さっきまで優しそうだったのに。
「むむっ! 小夜、そなたもそう思うじゃろう!」
鈴鹿さんが、勢いよく立ち上がった。
「朔夜が、突然娘を連れて帰ってきたのじゃ!」
「そうです! お兄様が女性をお連れになるなんて、前代未聞です!」
「そうじゃ! これは由々しき事態じゃ!」
鈴鹿さんと小夜ちゃんが、揃って私を見る。
……。
……えっと。
何だか、ものすごく居心地が悪いんですけど。
「二人とも、水守さんはお客さんなんだから。」
一条君が、少し呆れたように言った。
「困らせないでよ。」
「お兄様! 私は困らせてなどおりません!」
「そうじゃ! 妾も少し事情を聞きたいだけじゃ!」
「……だったら、落ち着いて聞いて。」
二人が、同時に口を閉じた。
……すごい。
一条君の一言で、二人とも静かになっちゃった。
◇
それから、一条君は私に、信じられない話をしてくれた。
この世には、普通の人には見えない存在がいること。
人に害をなすものもいて、それらは「あやかし」と呼ばれていること。
そして。
一条家は、代々そうした存在に対処してきた陰陽師の家系なのだという。
「……陰陽師?」
「うん。」
「映画とかに出てくる、あの?」
「……まあ、似たようなものかな。」
……。
……嘘でしょ。
でも、さっきの赤い服の女を思い出す。
あれは、どう考えても普通の人間じゃなかった。
「じゃあ、一条君が呼んだ白い狐も……?」
「式神だよ。陰陽師が使役する霊的な存在。」
「……式神。」
「普通の人には見えないんだけど、水守さんには見えている。」
私は、鈴鹿さんを見た。
「じゃあ、鈴鹿さんも……?」
「うむ! 妾も朔夜の式神じゃ!」
鈴鹿さんが、得意げに胸を張った。
「……えええっ!?」
思わず声が出た。
……この人が!?
さっきまでソファでポテトチップスを食べながら、韓流ドラマに夢中になっていた人が!?
「鈴鹿は、かなり高位の式神なんだ。」
「かなり、ではないぞ! 妾は特別じゃ!」
「……うん。そうだね。」
「ふふん!」
鈴鹿さんは満足そうに笑った。
そして、ふと思い出したように言った。
「そもそも、あの程度のあやかしなど、朔夜が本気を出すまでもないわ。」
「……え?」
「あの白狐だけで十分じゃ。朔夜が本気になれば、あのようなものは――。」
「鈴鹿。」
「……む?」
「水守さんが怖がるから、その話はもういいよ。」
「むう。仕方あるまい。」
……。
……一条君。
いったい、どれくらい強いの?
私は改めて、隣に座っている一条君を見た。
長い前髪に、黒縁の眼鏡。
いつも教室の隅で静かに本を読んでいる、あの一条君だ。
とても、そんなにすごい人には見えない。
……人って、見かけによらないんだなあ。
一条君は、私の家に結界の痕跡が残っていたことも教えてくれた。
「結界……?」
「うん。あやかしを近づけないための守りだよ。」
「でも、そんなもの……。」
「水守さんの家には、かなり強い結界が張られていたみたいなんだ。ただ、今はその力がほとんど残っていない。」
……誰が、そんなことを?
私の頭に、おばあちゃんの顔が浮かんだ。
けれど。
おばあちゃんは、普通の人だったはずだ。
料理を作ってくれて、一緒にテレビを見て、旅行のお土産を買ってきてくれる。
優しい、普通のおばあちゃん。
「……おばあちゃんが?」
「まだ分からない。でも、誰かが水守さんを守っていたのは確かだと思う。」
一条君は、真剣な顔をした。
「だから、しばらくここにいてほしい。何が起きているのか分かるまで。」
「……いいの?」
「もちろん。家の人にもきちんと説明するよ。水守さんが安心して過ごせるようにする。」
私は、しばらく黙っていた。
おばあちゃんのいない家。
一人きりの夜。
そして、あの赤い服の女。
……怖かった。
本当に、怖かった。
でも。
ここには、一条君がいる。
それだけで、少し安心できる気がした。
「……ありがとう、一条君。」
私は、心からそう言った。
一条君は、少し照れたように眼鏡の位置を直した。
「……うん。」
そのとき。
コツ。
廊下から、小さな足音が聞こえた。
「……っ!」
思わず、身体が強張った。
あの赤い服の女が、頭に浮かぶ。
けれど。
「お兄様!」
廊下から顔を出したのは、小夜ちゃんだった。
「水守さんのお部屋の準備が整いました!」
……あ。
小夜ちゃんだったんだ。
私は、ほっと息を吐いた。
すると、一条君がこちらを見た。
「……水守さん?」
「う、ううん。何でもない!」
慌てて笑うと、一条君は少し心配そうな顔をした。
けれど、何も言わずに微笑んでくれた。
……大丈夫。
ここは、あの教室じゃない。
私は、もう一人じゃないんだ。
「お兄様!」
小夜ちゃんが、勢いよく一条君に近づいた。
「水守さんがお泊まりになることは理解いたしました!」
「うん。」
「ですが! お兄様のお隣は、これまでどおり私の席ですからね!」
「……何の話?」
「お食事の席です!」
「……別に、誰が座ってもいいと思うけど。」
「よくありません!」
「そうじゃ! 朔夜の隣は、妾が座るべきじゃ!」
「鈴鹿様は黙っていてください!」
「何じゃと!?」
……。
……あれ?
また始まっちゃった。
一条君は、小さくため息をついた。
私は、思わず笑ってしまった。
「……ふふっ。」
すると、一条君がこちらを見た。
「……どうしたの?」
「ううん。何でもない。」
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
おばあちゃんが亡くなってから、家に帰っても誰もいなかった。学校でどんなに楽しい時間を過ごしても、玄関の扉を開ければ、そこには静かな部屋が待っていた。
けれど、今日は違う。
目の前には、賑やかな人たちがいる。
そして、私を助けてくれた一条君がいる。
……おばあちゃん。
私、しばらくここでお世話になるね。
こうして私は、クラスの地味な男子だと思っていた一条朔夜君の家に、居候することになった。
しかも、彼は最強の陰陽師らしい。
分からないことは、まだたくさんある。
あの赤い服の女が、どうして私を狙ったのか。
おばあちゃんの家に、どうして結界が張られていたのか。
そして、なぜ私には、普通の人には見えないものが見えるのか。
でも、今は。
もう少しだけ、この賑やかな時間を楽しんでいたかった。
窓の外には、綺麗な夕焼けが広がっていた。
明日から、どんな毎日が待っているのだろう。
少し不安だけれど。
今は、それ以上に楽しみだった。
――完。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
赤い服の女の恐怖と、朔夜や日向たちの物語を楽しんでいただけましたら、とても嬉しいです。
本作は、現代を舞台にした陰陽師シリーズの第一作です。
今後も、さまざまな怪異事件と、朔夜や日向、個性豊かな式神たちの日常を描いていければと思っています。
また、ほかにも異世界恋愛やファンタジー、コメディなど、短編シリーズや長編作品を執筆しています。
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