「仮面を外した姿を見たら命はないと思え」と脅してきた冷徹な呪われ公爵様、私が夜食に作ったおにぎりが美味しいからって毎晩素顔を晒して待つのをやめてくださいっ!!
「いいか。お前を妻として扱う気は一切ない。それから、私の仮面を外した姿を見たら命はないと思え」
薄暗い寝室。蝋燭の炎がゆらゆらと揺れる中で言い放たれたのは、あまりにもテンプレ通りの冷酷な台詞だった。
声の主は、私の正面に立つ男――ギルバート公爵。戦場での呪いにより顔半分に禍々しい紋様が浮かび、普段は白銀の仮面でそれを隠していることから、巷では『冷徹な死神』と恐れられている人物だ。
そんな男の元へ、実家から厄介払いとして嫁がされたのが私、スイ・カルミネアである。
(……うわあ、生で見ると迫力すごいな。声、低くてめちゃくちゃ良い)
私は怯えるどころか、内心でそんな呑気な感想を抱いていた。それもそのはず、私には前世の記憶がある。
前世の名前は、軽海粋。名前の通り「粋に生きる」をモットーに定食屋でせっせとフライパンを振っていた、ただの飯テロ大好きな料理人だ。
『うわっ!?』
酔っ払ったおっさんに突き飛ばされて頭を打ち、私は、カルミネア侯爵家の長女として転生した。
けれど、幼い頃から妹のルミアと比べられてばかりだった。
「ルミアは魔法理論を一度教えれば覚えるというのにどうしてお前はこんな簡単な計算もできないんだ!侯爵令嬢として最低限の教養くらい身につけろ!」
父はいつも怒っていたし母は困ったように笑っていた。ルミアは、そんな私の隣でいつも完璧だった。
魔法も。勉強も。刺繍も。社交も。何をやらせても私より上手だった。だから私は、次第に何もしなくなった。
どうせやってもルミアには敵わないし、それなら私のやりたいことやりたいし!
「お姉様、これ……美味しい」
幼い頃、一度だけルミアが私の料理に対してそう言ったことがある。嬉しくなって、私は翌日も作った。けれど父は、
「貴族令嬢が厨房などに立つな。料理人でもないくせに、そんなものばかり覚えて何になる」
その言葉を聞いた日から、私は厨房に逃げ込むようになった。そこには、唯一私を笑わなかった人がいたから。
「お嬢様の料理は、人を笑顔にしますよ」
厨房のおばあちゃんメイド。私が作った不格好味のスープを、いつも美味しそうに食べてくれた。
「料理っていうのはね。上手に作ることより、誰かに美味しいって言ってもらうことが一番大事なんです」
その人がいたから、私は料理を嫌いにならずに済んだ。けれど――その人も、ある日屋敷を去った。そして、その翌年。
「公爵家から縁談が来た。ギルバート公爵だ」
「……あの、死神公爵?」
「そうだお前なら問題ないだろう」
「問題ない?」
「公爵は『自分の顔を見ても怯えない女』なら誰でもいいと言っているらしい。それに……公爵家から多額の援助を受けられる」
つまり。私は売られたのだ。
「ルミアの婚約にもお金が必要なのよ」
母は申し訳なさそうに言っていたけれど、その言葉の裏にある意味くらい、私にも分かった。
――お前より、妹のほうが大切だから。
「分かりました」
泣かなかった。怒りもしなかった。ただ一つだけ。
「お米だけは、持っていってもいいですか?」
「……は?」
それだけは、どうしても譲れなかった。
たとえ実家で冷遇されようが、結婚相手が死神と呼ばれていようが、美味しいご飯さえあれば人間どこでも生きていける。それが私の持論である。
「畏まりました、ギルバート閣下」
私はドレスの裾を持ち上げ、完璧なカーテシーを決めた。
「プライベートには一切干渉するな、ということですね。承知いたしました。命は惜しいので、仮面には決して触れません。おやすみなさいませ!」
「……っ、あ、ああ。分かればいい」
一歩も引かずにっこり笑って見せた私に、ギルバート閣下は毒気を抜かれたように一瞬だけ言葉を詰まらせた。
それから、どこか気まずそうにマントを翻して部屋を出ていく。よし、交渉成立。初夜から夫に拒絶された形だが、私にとっては願ってもない自由の獲得である。
しかし、私のウキウキ気分は、この城の「現実」を知ることで一瞬にして打ち砕かれることになった。
「……何これ、味しない……ゴム?」
翌日。私の部屋に運ばれてきたのは、パサパサのパンと、ただ塩水で煮ただけの根菜、そして異常に硬い肉。
どうやら城の使用人や料理人たちも、主人の『死神』っぷりに怯えきっているらしい。城全体にピリピリとした重苦しい空気が漂っており、料理人の手元も狂っているのだろう。
素材は良いのに、信じられないほど不味い。
(前世は意味わかんない死に方、現世は味覚の餓死なんて冗談じゃない!)
食を愛する元料理人として、この事態は看過できない。私は即座に行動を起こすことにした。
――そして、結婚から三日目の深夜。静まり返った城の厨房に、私はこっそりと忍び込んでいた。
幸い、料理長に「自分で夜食を作りたい」とお願いしたところ、面倒な押し付け合いから解放されたと思ったのか、二つ返事で夜間の厨房使用を許可してくれたのだ。
「ふふん、やっぱり厨房は落ち着くなあ」
私は持ち込んだ麻の袋から、貴重なお米を取り出した。この世界では一部の東方地域から輸入されている高級食材だが、実家を出る時に「これだけは」と強引に貰ってきたものである。
竈に火を入れ、手際よく米を研ぐ。スープ用の極上出汁の残りを少し拝借して、ふっくらと炊き上げた。炊き立ての米から立ち上る、甘く香ばしい湯気。
思わずよだれが垂れそうになる。具材には、厨房のセラーで見つけた高級魚の塩漬けをほぐしたもの。そして、現世のすりごまに似た香ばしい木の実の粉。
「よし、握るよ!」
熱々の白米を両手に取り、前世の身体に染み付いた職人技で、キュッ、キュッ、とリズミカルに三角形に成形していく。
仕上げに、これまた貴重な乾燥海苔の代用品である黒藻の海苔をくるりと巻く。
「できた! 軽海粋特製、鮭おにぎり!」
お皿にぽんと置かれた、完璧な三角形。我慢できずにパクリと口に含んだ瞬間、米の甘みと塩気が絶妙に絡み合い、脳内に幸福物質が駆け巡った。
「んん〜っ!! 生き返る〜っ!!」
「……夜中にコソコソと、何をしている」
「ぶふっ!? げほっ、ごほっ!」
驚きのあまり、私はおにぎりを喉に詰まらせそうになりながら振り返った。
そこには、白銀の仮面を怪しく光らせた、黒い部屋着姿のギルバート閣下が腕を組んで立っていた。
背後から突然響いた冷徹極まりない低音ボイスに、私の心臓は一瞬だけ跳ね上がった。けれど、前世は下町の荒波でもまれた料理人だ。これくらいでご飯を落とす私ではない。
「……夜中にコソコソと、何をしている。毒でも密造しているのか」
「失礼な。これは毒ではなく、私の命を繋ぐための聖なる食べ物ですよ、閣下」
私は胸を張り、お皿の上に鎮座する完璧な三角形――おにぎりを指差した。
ギルバート閣下は、仮面の奥の鋭い双眸で私とおにぎりを交互に見つめている。その立ち姿は相変わらず威圧感たっぷりだが、私は気づいてしまった。
(くんくん……あれ? 閣下の視線、完全におにぎりにロックオンされてない?)
鼻をわずかに動かした閣下の動きを見逃さなかった。
それもそのはず、この厨房には今、炊き立ての米の甘い香りと、香ばしく炙った魚の塩気、そして海苔に似た黒藻の磯の香りが充満しているのだ。城の料理人が作る味のしないゴムのような食事に辟易していたのは、きっと私だけではないはずだ。
「それは……何だ。見たこともない不気味な形をしているが」
「これはおにぎりと言いまして、私の故郷……の、さらに遠い東方の島国の料理です。不気味に見えますが、最高に美味しいんですよ。閣下も夜食にいかがですか? 毒見なら、今さっき私が済ませましたので」
私はにっこりと笑い、予備として握っておいた大ぶりのおにぎりを、お皿に乗せて差し出した。
ギルバート閣下は一瞬、眉をひそめるような気配を見せた。
「……断る。私はお前を妻として扱う気はないと言ったはずだ。お前が作ったものなど――」
「まあまあ、堅いことは抜きにして。ほら、温かいうちにどうぞ。お腹が空いていては、明日からの冷徹な死神業にも差し障るでしょう?」
ぐい、とお皿を突き出す。
「冷徹な死神業」と言われてピキリと固まった閣下だったが、おにぎりから立ち上る抗えない香いについに負けたらしい。
彼はふいっと私から背を向け、壁の方を向いた。
「……そこまで言うなら、処分してやる」
彼は長い指先でおにぎりを持ち上げると、私の見えない角度で、白銀の仮面をわずかに持ち上げた。
そして、躊躇いながらもそれを口へと運ぶ。
サクッ。
黒藻の海苔が小気味良い音を立てた。
次の瞬間、閣下の背中が完全にフリーズした。
(よし、入った!)
私は内心でガッツポーズを決めた。閣下は一言も発しない。しかし、その背中は猛烈な勢いで動いている。
もぐもぐ、もぐもぐ、もぐもぐ。
ものの十秒ほどで、大ぶりのおにぎりは閣下の胃袋へと消え去った。
仮面をきっちりと直した閣下が、ゆっくりと振り返る。その表情は相変わらず仮面に隠れて見えないが、心なしか耳のあたりがほんのりと赤い。
「……悪くない。だが、二度とこのような真似はするな」
それだけ言い残すと、閣下はマントを翻し、風のような速さで厨房を去っていった。
残された私は、空っぽになったお皿を見て、ふっと唇を綻ばせる。
「ツンデレめ。あんなに勢いよく食べといて『悪くない』は無理があるでしょ」
粋な料理人は、客の嘘を見逃さない。皿の上が空っぽであることこそが、何よりの絶賛の証拠なのだ。
私は満足して、自分のおにぎりを完食すると、その夜は泥のように深く眠った。
*
翌日の深夜。
昼間の不味い食事に耐えかねた私は、再び厨房へと足を運んだ。
今夜の具材は、魔獣の猪肉を甘辛く生姜で煮詰めた、前世でいうところの「しぐれ煮」風の具材だ。濃いめの味が白米に絶対に合う。
「さて、今日も最高の三角を作りますか……って、ええ!?」
厨房の扉を開けた私は、思わず声を裏返らせた。
薄暗い厨房の中、昨日と同じ椅子に、すでに誰かが座っていたのだ。
白銀の仮面、黒い部屋着。紛れもない、この城の主、ギルバート閣下である。
閣下は腕を組んで目を閉じていたが、私が部屋に入った気配を察して、ゆっくりと目を開けた。
「……遅い」
「はい?」
「待たせるな。夜食の時間だ」
「いや、閣下。ここは私の個人行動の場でして、閣下をお呼びした覚えは……」
「黙れ。これは公爵城の厨房だ。私がどこにいようと私の自由だ」
相変わらずの傲慢な態度。けれど、その視線は私の手元にある麻の袋――お米が入っている袋――に釘付けになっている。
私は呆れ半分、可笑しさ半分でため息をついた。
「分かりましたよ。じゃあ、今夜も閣下の分を作りますね。私はこの前『仮面を外した姿を見たら命はないと思え』って脅されたんですけど、どうすればいいですか?」
「……私はそんなことは言っていない」
「言いました」
「言っていない。私の記憶にはない」
大真面目な顔で記憶喪失を主張する閣下に、私は思わず吹き出しそうになった。冷徹な死神のプライドはどこへ行ったのか。おにぎりの魅力の前に、彼の鉄の掟は早くも崩壊しかけているらしい。
「分かりました、そういうことにしておきます。では、そこに座って待っていてください」
私は調理に取り掛かった。
米を研ぎ、火にかけ、炊き上がるのを待つ。その間、ギルバート閣下は微動だにせず、じっと私の手元を見つめていた。その視線が妙に熱い。
やがてパチパチと良い音がして、米が炊き上がる。
私は炊き立ての白米をボウルに移し、生姜の香りが漂う甘辛い肉を混ぜ込んだ。今夜は「混ぜ込みおにぎり」のスタイルだ。
キュッ、キュッ、と手際よく握っていく。
湯気とともに広がる醤油と生姜の香りに、閣下の喉がごくりと鳴るのが聞こえた。可愛いところあるじゃないか、この死神様。
「はい、お待たせしました。今夜は『魔猪の生姜しぐれ煮おにぎり』です」
お皿に乗せて差し出すと、ギルバート閣下は信じられない行動に出た。
なんと、彼は私が見ている目の前で、ためらいもなく白銀の仮面に手をかけ、それをゆっくりと外したのだ。
「え……?」
私は思わず息を呑んだ。
現れたのは、息を呑むほどの絶世の美形――のはずだったが、その顔の右半分には、のたうつ黒い蛇のような、禍々しい紋様がべったりと張り付いていた。肌の白さを痛々しく引き立てる、悍ましい呪いの刻印。
これが、彼が「死神」と恐れられ、仮面で隠し続けてきた理由。
ギルバート閣下は、私の視線に気づくと、自嘲気味に冷たく目を細めた。
「……醜いだろう。どんな魔法も解呪も効果がなかった。怯えて逃げ出すなら今のうちだ、スイ」
「何を言っているんですか。それより、早く食べないと冷めちゃいますよ」
「なっ……」
私の拍子抜けした返事に、閣下は目を丸くした。
前世の下町食堂には、顔に大きな火傷の跡がある常連の職人さんもいれば、強面の極道風のおじさんもいた。外見なんて、美味い飯を食う前には何の意味も持たない。それが私の基準だ。
「呪いの紋様なんて、ちょっとしたタトゥーみたいなものでしょう。そんなことより、このおにぎりは温かいうちが一番美味しいんです。ほら、口を動かしてください!」
「お前……本当に変わった女だな……」
閣下は呆然としながらも、おにぎりを手に取り、ガブリと口に開けた。
「っ……!」
その瞬間、彼の切れ味の鋭い瞳が、驚きで見開かれた。
肉の旨味と生姜のピリッとした辛み、それが米の甘みと完璧に調和して、口の中で弾けている。
「美味い……。何だこれは、肉の旨味が米全体に染み渡っている……」
「ふふん、混ぜ込みおにぎりの破壊力を知りましたか。たくさんあるので、どんどん食べてくださいね」
閣下は、先ほどまでの冷徹な雰囲気をどこかへ置き忘れたように、夢中でおにぎりを頬張り始めた。
その姿は、まるで美味しい木の実を見つけたリスのようだ。
呪いの紋様があろうとも、一生懸命に食べる彼の姿は、不覚にも「可愛い」と思ってしまうほどだった。
「ふぅ……」
三つの大きなおにぎりを完食し、閣下は満足そうに息を吐いた。
その顔には、先ほどまでの張り詰めた空気はなく、どこか穏やかな表情が浮かんでいる。
「スイ。お前の料理は、不思議だ」
「不思議、ですか?」
「ああ。この城の食事は、どれを食っても砂を噛むようで、私の身体を満たさなかった。だが、お前が作ったこれを食うと……体の奥の澱みが、少しだけ軽くなる気がするのだ」
「それは良かったです。料理は人を元気にするためにあるものですから」
私はお皿を片付けながら、誇らしげに笑った。
前世の定食屋でも、「粋ちゃんの飯を食うと明日も頑張れる」と言ってもらえるのが一番嬉しかった。世界が変わっても、その本質は変わらない。
「明日も……ここに、来てもいいか?」
仮面を再びつけ直しながら、閣下が少しだけバツ悪そうに聞いてきた。
「ええ、もちろん。お客様の来店は大歓迎ですよ。明日は何にしましょうかね」
私の言葉に、閣下は仮面の奥で、確かに優しく微笑んだように見えた。
*
それからの日々は、まさに怒涛の胃袋掴み溺愛ストーリーの幕開けだった。
毎晩、深夜の厨房は私たち二人の秘密の定食屋となった。
私は前世の知識とこの世界の食材を組み合わせ、毎晩異なるおにぎりを生み出した。
ある夜は、地鶏の卵黄を模した魔鳥の卵を醤油漬けにして、丸ごと一個包んだ「とろーり卵黄おにぎり」。
ある夜は、ツナマヨを再現するために、白身魚のオイル煮に自家製の酸味の効いたクリームを混ぜた「異世界風ツナマヨおにぎり」。
ある夜は、少し焦げ目をつけた「焼きおにぎり」に、薬草をブレンドした特製味噌を塗ったもの。
「スイ。明日は……何を作る?」
ギルバート閣下は、毎晩楽しみに厨房へやってきた。
そして、厨房に入るなり、自分で率先して白銀の仮面を外して机に置くのがお決まりのパターンになった。
「閣下、今日も席に着くのが早いですね。しかも仮面、秒で外しましたよね?」
「私はそんなことはしていない。入室と同時に仮面が自重で落下しただけだ」
「物理法則を無視した言い訳はやめてください」
最初はあんなに冷酷だった冷徹な死神は、今や見る影もない。おにぎりを前にすると、ただの素直でちょっと強情な、食いしん坊の旦那様である。
「スイ、今日の中身は何だ。早く私の口に運んでくれ」
「はいはい、今握りますから。待て、ができない子は、お預けですよ」
「なっ、私は公爵だぞ……。だが、おにぎりのためなら、待とう」
心なしか、閣下の態度が日を追うごとに甘くなっている気がする。
最初は皿から自分で取っていたのに、最近では「手が汚れる」だのなんだの理由をつけて、私に直接口元へ運ばせようとする。いわゆる、あーん、というやつだ。
前世で独身アラサーの料理人だった私にとって、このハイスペックイケメンからの無自覚な甘えは、なかなかに心臓に悪い。
しかし、変化はそれだけではなかった。
「……あれ?」
結婚して一ヶ月が経ったある夜。
仮面を外したギルバート閣下の顔を見て、私は思わず手を止めた。
彼の右顔を覆っていた、あの禍々しい黒い紋様。それが、明らかに薄くなっているのだ。蛇のようだった蛇行が消え、今や淡い灰色のあざのようになっている。
「どうした、スイ。私の顔に、何かついているか?」
「閣下、鏡を見てください。呪いが、薄くなっています!」
「何……?」
閣下は驚いて、私が差し出した手鏡を覗き込んだ。そこには、全盛期の呪いの面影を失いつつある、本来の彼の美しい素顔が映っていた。
「これは……どういうことだ。教会の高位聖職者ですら、解呪は不可能だと言ったはずなのに」
「もしかして……」
私は自分の両手を見つめた。
実は、転生した時にこの身体に宿っていた、わずかな魔力。前世の「美味しくなれ、元気になれ」という料理人としての強い想いがその魔力と結びつき、無自覚に『超高密度の浄化魔法』となって料理に込められていたのでは。
「私の、おにぎりの力……でしょうか」
「スイ……お前は、やはりただの女ではないな。私を救うために遣わされた、女神の申し子か」
「いや、ただの食い意地が張った元料理人ですけども」
真剣な目で私を見つめる閣下に、私は照れ隠しでそっぽを向いた。
けれど、閣下は私の手を優しく取り、その甲にそっと唇を寄せた。仮面のない彼の唇が触れた場所が、火がついたように熱くなる。
「理由はどうあれ、私が救われているのは事実だ。身体だけではない。お前と過ごすこの時間が、お前が笑って差し出してくれるその温かい塊が、私の凍てついた心をどれほど溶かしてくれたか……」
「閣下……」
「ギル、と呼んでくれ。私の最愛の妻よ」
彼の濁りのない双眸が、真っ直ぐに私を射抜く。
あ、ダメだ。これは完全に、胃袋を掴んだつもりが、私のハートの方が掴まれかけている。
*
そして、奇跡の夜は訪れた。
結婚から二ヶ月。
その夜、私はおにぎりではなく、前世の定食屋の定番である「出汁巻き卵」と、ほかほかの白飯、そして味噌汁代わりの特製スープを厨房で用意していた。呪いがほとんど消えかけたギルバート――いや、ギルに、日本の完璧な朝食(深夜だけど)を食べさせてあげたかったのだ。
「お待たせ、ギル。今日は趣向を変えて――」
振り返った瞬間、私は言葉を失った。
そこに立っていたのは完全に素顔を晒したギルだった。
そして彼の顔からは、あの忌まわしい黒い紋様が、一変の曇りもなく完全に消え去っていた。
月光が厨房の窓から差し込み、彼の姿を照らす。
現れたのは、金色の髪をなびかせ、夜空を切り取ったかのような深い青色の瞳を持つ、この世のものとは思えないほどの超絶絶世の美男子だった。少女漫画のヒーローを束にしても勝てないレベルの、文字通りの国宝級イケメン。
「スイ……。今、身体の中から、呪いの核が完全に消滅したのを感じた」
ギルは自分の顔に触れ、それから信じられないものを見るかのように私を見つめた。
「完全に、解呪された。私は……もう、仮面を被る必要がないのだな」
「ギル……。はい、本当に綺麗に消えています。めちゃくちゃ……その、男前ですよ」
あまりの美しさに、私の前世のアラサー人格がキャーキャーと悲鳴を上げている。心臓がうるさいくらいに脈打っていた。
ギルはゆっくりと私に近づくと、私の華奢な肩を包み込むように抱きしめた。
彼の体温と、ほんのりと香る、私が作った料理の匂い。
「すべてはお前のおかげだ、スイ。私の命の恩人であり、魂の救い主。……いや、もうそんな建前はどうでもいい」
ギルは抱きしめる力を強め、私の耳元で、低く、しかし熱情を孕んだ声で囁いた。
「私はお前を愛している。最初はおにぎりに胃袋を掴まれただけだと思っていた。だが違う。私は、どんな時も物怖じせず私に笑いかけ、美味い飯で私を包み込んでくれる、お前という人間そのものに、狂おしいほど恋をしてしまったんだ」
「ギ、ギル……?」
「お前を実家には絶対に返さない。一生、この城で私の妻として、私の隣にいてくれ。お前の作る料理を、お前と共に食べる人生を、私にくれ。……嫌か?」
普段の冷徹な公爵様からは想像もつかない、どこか縋るような、切ない瞳で私を見つめてくる。
しかも、その顔が凶器レベルの美形なのだ。こんな風に迫られて、断れる女子がこの世にいるだろうか。いや、いない。
前世では男っ気もなく、ただフライパンを振るだけだった軽海粋。
現世でこんな最高の男から、一生モノのプロポーズを受けるなんて、人生何が起こるか分からない。
私は彼の胸にそっと手を当て、顔を真っ赤にしながらも、粋な女らしく、最高の笑顔で答えることにした。
「嫌なわけ、ないじゃないですか。私の料理をそれだけ綺麗に平らげてくれるお客様を、手放す料理人は失格です。……喜んで、一生あなたのご飯を作ります、私の旦那様」
私の答えを聞いた瞬間、ギルの顔に、これまでに見たこともないような花が咲くような、眩しい笑顔が浮かんだ。
そして、彼は私の唇に、おにぎりよりもずっと甘くて温かい、誓いのキスを落としたのだった。
*
それから数ヶ月後。
ギルバート公爵の「呪いが完全に解けた」というニュースは、またたく間に国中を駆け巡った。
さらに、その奇跡を起こしたのが、実家から厄介払いされたはずのスイ公爵夫人であることも噂となり、私の実家は「とんでもない至宝を手放してしまった」と、今さら青ざめて公式に返却を求めてきているらしいが、時すでに遅し。
ギルが「我が妻を侮辱した罪は重い」と、冷徹な死神のような顔で圧をかけ、実家は現在、事実上の没落への道を突き進んでいる。
『お姉様、お願い、なんとかして。ギルバート公爵が圧力をかけてるから私の結婚が決まらないの。お願い。なんとかして!』
そして、現在の公爵城。
昼間の食堂には、活気溢れる城の使用人たちの姿があった。
私が厨房に立って料理長たちに前世のレシピを伝授した結果、今や城の食事は国一番の美味さを誇るようになり、誰も怯えて料理を焦がすことなどなくなった。
しかし。
我が家の最大の「問題」は、深夜に発生する。
「スイ。私は待っているぞ」
深夜二時。静まり返った厨房の特等席に、今日も今日とて、世界一の美形公爵が鎮座していた。
もちろん、白銀の仮面はすでに机の上にポイと放り出されている。呪いが解けたのだから仮面をつける必要は一切ないのだが、彼はなぜかまだ昼間の公務中は仮面をつけたままだ。
「ギル、仮面をつける必要はもうないんですよね?なんでまだつけてるんですか?」
「んー?スイ以外に俺の素顔を見せたくないからだ」
ふへへ。と悪戯に笑う。いや、皆さん怖がってるからやめてあげてぇ。
「ていうかもう呪いは完全に解けたんですから、夜中におにぎりを食べなくても大丈夫ですよ? 太りますよ?」
「断る。私はお前のおにぎりを食べなければ、一歩も動けない呪いに、新しくかかってしまったのだ」
「そんな都合のいい呪い、聞いたことありません!」
ため息をつきながらも、私は炊きたてのご飯を取り出す。
今夜のリクエストは、原点にして頂点、あの最初の夜に作った「鮭おにぎり」だ。
キュッ、キュッ、とリズミカルに握り、黒藻の海苔を巻く。
完璧な三角形のおにぎりを皿に乗せて差し出すと、ギルは待ってましたとばかりに顔を輝かせた。
そして、自分で食べるかと思いきや。
「スイ。手が疲れていて持てない。……あーん、をしてくれ」
「……ギル。昼間、あれだけ重い両手剣を振り回して訓練してたの、私は知ってますよ?」
「気のせいだ。今の私は、お前に甘やかされないと死んでしまう、か弱い夫なのだ」
どの口がそれを言うのか。国中の貴族を恐怖で震え上がらせる第一軍の総帥が、嫁の前ではただの甘えん坊のヒモ(風のハイスペ旦那)である。
仕方なく、私はおにぎりを持って、彼の美しい唇へと近づけた。
ギルは嬉しそうに目を細め、ガブリと大きく一口齧る。
「やはり、世界一美味い。お前の愛が詰まっている」
「はいはい、お粗末様です」
もぐもぐと幸せそうに食べる彼を見つめながら、私は心の中で、前世の自分に語りかける。
――粋ちゃん、見てる? あんたが必死に覚えた料理の技術は、異世界で一人の男の命を救って、こんなに最高の幸せを連れてきてくれたよ。
「スイ、残りの半分もお前の手から食べたい」
「もう、しょうがないですね……んっ!?」
おにぎりを差し出そうとした瞬間、ギルが私の手首を優しく掴み、そのままグイと顔を近づけてきた。
おにぎりを挟んで、彼の超絶絶世の美形な顔が、わずか数センチの距離に迫る。夜空のような青い瞳が、いたずらっぽく、そして深い愛を込めて私を見つめていた。
「ギ、ギル!? 顔が近い、近いです! 心臓に悪い!」
「フッ、お前が私を胃袋で捕まえたのだから、これくらいの役得は認められるべきだろう? ほら、次のひとくちを……それとも、おにぎりの前に、私を食べるか?」
「な、何を言ってるんですかこの元死神様はーーーっ!!」
真っ赤になって叫ぶ私を見て、ギルは心底楽しそうに声を上げて笑った。
かつて「仮面を外した姿を見たら命はないと思え」と冷酷に脅してきた私の旦那様。
今や、毎日仮面を外して、私のおにぎりと愛を全力でおねだりしてくる、世界一過保護で甘々な旦那様になりました。
でもね、旦那様。
その国宝級の美顔で毎晩ゼロ距離まで迫られるのは、私への精神的破壊力が強すぎて、私の命が本当に危ないので、それだけは本当にやめてください!




