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隣の個室

作者: 鈴音めぐり
掲載日:2026/07/28

ステージは光で埋めつくされていた。

女の子たちを包む華やかな衣装が、照明を受けるたびにきらめき、胸元に揃ったワッペンが紋章のように浮かび上がる。

ファンの声が、会場の天井まで満ちている。名前を呼ぶ声、手を振る影、返す笑顔。

熱気は、ほぼ熱狂に近かった。


国民的な規模のアイドルグループだった。

人数が多く、よく言えば美形揃い。

ファンでなければ顔の見分けがつきにくい。

私はそのグループの、かなり熱心なファンの一人だった。


ライブの途中で急に腹具合が悪くなり、私は仕方なく席を立った。

新曲で盛り上がっている真っ最中。

ファンがトイレに行くタイミングではなかった。


通路はがらんとしていて、係の目もほとんどない。

自分の足音だけが、空虚に響いた。

会場から廊下を二つほど外れたトイレに、急ぎ足でたどり着く。


入り口を開けた瞬間、湿度が肌に張り付いた。

消毒液と、別の何かが混じった匂い。

壁の向こうから、ファンの歓声と、メンバーのファンサがかすかに聞こえてくる。

甘くて、しっかり練習された、無個性な声。

タイルの壁が、その声を少しだけ歪めて返す。


このグループは、新しく入った子にはしばらくの間、個性がある。

話す速度も、笑い方も、目の使い方も、それぞれ違う。

なのに、長く活動しているうちに、トークも化粧も、似たような感じになっていく。

人気投票で下位が続けば「卒業」させられるからだ。

ファンに選ばれ続けるために、個性は削られ、人気のあるものへと最適化されていく。

それが出来ない子から、消えていくのだ。

私がかつて推していた子のように。


トイレの個室のいくつかは、目を背けたくなるほど汚れていた。

床から扉の下へ、粘り気のある黒い染みがゆっくりと広がっている。

壁の下部にも、同じ色の筋が、垂れ落ちたまま固まりかけている。

消毒液の下から、生ゴミと糞便、それに腐臭が混じったような異様な匂いが立ち昇っていた。

鼻の奥に、ねっとりと残る悪臭だった。


私はできるだけ息を浅くして、それらを避けた。

比較的汚れの少ない個室を選び、扉を閉めた。

鼻の奥に、まだその匂いの残りが張り付いている。

しばらくして、外から音がした。


最初は、何かを引きずる音だった。

ずるぅり、ずるり、と重く、湿った音。

時折、肉が床に張り付いてはがれるような粘着質の抵抗がある。

その音が、ゆっくりと隣の個室へと入ってきた。

ドアが閉まる音はしなかった。

続いて、モップが緩慢に床をこする音。

だが、それだけではない。

壁を、何かがゆっくりと舐め回すような音が混じっている。

舌というより、もっと大きくて、厚みのあるものが、タイルの目地に沿って動いている感じがした。

ぬるり、と間を置いて、またぬるり、と。


支離滅裂な独り言が聞こえた。

老人のような、枯れた声。

「……減った……ここはよくない……」

「……まだ残ってる……中に……」

「……スマホの奥で……もっと……もっと見て」

その合間に、まったく別の、若々しい声が割り込んでくる。

「推してくれてる人、手挙げて〜!」

かつての推しの、決め台詞。

声が上ずるタイミングまで、寸分違わず同じだった。


思考が、白いノイズのように潰れた。

異様な事態に、身体が動かない。

視線は床に釘付けのまま、まぶただけが小さく痙攣する。

心臓が、不規則に跳ねた。

そのとき、個室の上から、何かが覗き込む気配がした。

重くて、粘着質な何かが、ゆっくりと境界を越えてくる感触。

天井と扉の間の空間が、押し広げられていく。

湿度が急激に上がり、肌がじっとりと濡れる。

何かに「見られている」。

得体の知れない気配が、壁面を伝って室内に這い降りてくる。

「きみは、私を推してくれてた?」

かつて応援していた娘の声が、ほとんど耳の中で鳴った。

湿った息が、耳の後ろの皮膚に直接かかる。

すぐに、老いた声が下から掠れて重なる。

同じ言葉を、わずかに遅れて、追いかけてくる。


私は目を硬く閉じた。

思考が拒絶していた。

見てはいけない。

確認してはいけない。

耳鳴りが急に大きくなり、自分の脈拍が鼓膜の内側で激しく叩かれる。

答えなければ、消される気がした。

答えれば、何かが消えてしまう気がした。

どちらを選んでも、取り返しがつかない気がした。

冷や汗が背中を伝って一気に流れる。

震える声で、私は言った。

「……私は、きみを推していた」

気配が一瞬、満足そうにざわめいた。

湿った空気が小さく揺らぎ、何かが嬉しそうに身震いするような感触がした。

満ちていたものが、ゆっくりと、室内から引いていく。

粘着質な質量が、壁を伝うように上へ戻っていくのがわかった。


気配は、やがてトイレの奥へと移っていった。

肉を引きずる音が、徐々に遠ざかる。

モップの音も、舐める音も、一緒に消えていく。

どれくらい経ったか分からない。

耳鳴りがするほど静かになったのを確認してから、やっと個室を出た。


突き当たりの扉が、半開きになっていた。

貼り付けられた目のマークが、暗がりの中でこちらを見ている。

その目の形は、グループの胸元に揃うワッペンの紋章と酷似していた。

中は深かった。

光が届かない。

ただ、中で無数の何かが蠢いているような、湿った音がしていた。


扉の前に、汚れたワッペンが落ちていた。

薄い肉片のようなものが、何箇所か付着している。

思わず手を伸ばした。

その瞬間、奥から手が伸びてきた。

汚れにまみれた、黒い手。

反射的に、喉の奥から短い悲鳴があがる。

その手はワッペンをひったくり、ずるずると扉の奥へと消えていった。

指先に触れた感触は、ぬるりとして、死体のように冷たかった。

手に残った汚れは、トイレの壁についていたものと同じく、異様な臭気を放っていた。


震えながら、ようやく顔を上げると、扉から目のマークは消えていた。

トイレの壁の向こうから、ライブ会場の音が薄く漏れ聞こえてくる。

グループのヒット曲だった。

軽快なリズムと、重なった歌声。

「いつまでも見ててね、私たちを」

そのフレーズに合わせて、ファンたちの歓声が一気に上がるのが聞こえた。

手を叩く音、名前を呼ぶ声、熱狂そのもの。いつもと何ひとつ変わらず、夜のステージは華やかに進んでいた。


その後も、グループから卒業する子は定期的に続いた。

公式の文言は、いつも同じものだ。

人気投票の結果を見るたびに、指の腹があの夜の冷たさを思い出して、小さく痺れる。

代わりに入ってくる新人アイドルたちの目は、濁りひとつなく輝いていた。

同じマークのワッペンを胸につけて、ステージの光の中で手を振っている。

しかし私はもう、誰の目も、まっすぐ見られなくなっていた。


後日、改めてあの扉を開けてみたが、掃除用具が納められているだけの、なんの変哲もない用具入れだった。

目のマークも、どこまでも続くような暗い空間も、痕跡すら見つけられなかった。


私は今でもたまに想像するのだ。

あの目の扉の奥は、どこへ繋がっていたのだろう。

卒業したアイドルたちは今、なにをしているのだろうか。

考えても、答えが出るはずもない。

出ない方が、いいのだろう。

ただ、私はライブに行くとき、必ず自宅でトイレを済ませるようになった。

会場のトイレには、もう近づかない。

それも、アイドルへの応援の一つなのだろうから。

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