隣の個室
ステージは光で埋めつくされていた。
女の子たちを包む華やかな衣装が、照明を受けるたびにきらめき、胸元に揃ったワッペンが紋章のように浮かび上がる。
ファンの声が、会場の天井まで満ちている。名前を呼ぶ声、手を振る影、返す笑顔。
熱気は、ほぼ熱狂に近かった。
国民的な規模のアイドルグループだった。
人数が多く、よく言えば美形揃い。
ファンでなければ顔の見分けがつきにくい。
私はそのグループの、かなり熱心なファンの一人だった。
ライブの途中で急に腹具合が悪くなり、私は仕方なく席を立った。
新曲で盛り上がっている真っ最中。
ファンがトイレに行くタイミングではなかった。
通路はがらんとしていて、係の目もほとんどない。
自分の足音だけが、空虚に響いた。
会場から廊下を二つほど外れたトイレに、急ぎ足でたどり着く。
入り口を開けた瞬間、湿度が肌に張り付いた。
消毒液と、別の何かが混じった匂い。
壁の向こうから、ファンの歓声と、メンバーのファンサがかすかに聞こえてくる。
甘くて、しっかり練習された、無個性な声。
タイルの壁が、その声を少しだけ歪めて返す。
このグループは、新しく入った子にはしばらくの間、個性がある。
話す速度も、笑い方も、目の使い方も、それぞれ違う。
なのに、長く活動しているうちに、トークも化粧も、似たような感じになっていく。
人気投票で下位が続けば「卒業」させられるからだ。
ファンに選ばれ続けるために、個性は削られ、人気のあるものへと最適化されていく。
それが出来ない子から、消えていくのだ。
私がかつて推していた子のように。
トイレの個室のいくつかは、目を背けたくなるほど汚れていた。
床から扉の下へ、粘り気のある黒い染みがゆっくりと広がっている。
壁の下部にも、同じ色の筋が、垂れ落ちたまま固まりかけている。
消毒液の下から、生ゴミと糞便、それに腐臭が混じったような異様な匂いが立ち昇っていた。
鼻の奥に、ねっとりと残る悪臭だった。
私はできるだけ息を浅くして、それらを避けた。
比較的汚れの少ない個室を選び、扉を閉めた。
鼻の奥に、まだその匂いの残りが張り付いている。
しばらくして、外から音がした。
最初は、何かを引きずる音だった。
ずるぅり、ずるり、と重く、湿った音。
時折、肉が床に張り付いてはがれるような粘着質の抵抗がある。
その音が、ゆっくりと隣の個室へと入ってきた。
ドアが閉まる音はしなかった。
続いて、モップが緩慢に床をこする音。
だが、それだけではない。
壁を、何かがゆっくりと舐め回すような音が混じっている。
舌というより、もっと大きくて、厚みのあるものが、タイルの目地に沿って動いている感じがした。
ぬるり、と間を置いて、またぬるり、と。
支離滅裂な独り言が聞こえた。
老人のような、枯れた声。
「……減った……ここはよくない……」
「……まだ残ってる……中に……」
「……スマホの奥で……もっと……もっと見て」
その合間に、まったく別の、若々しい声が割り込んでくる。
「推してくれてる人、手挙げて〜!」
かつての推しの、決め台詞。
声が上ずるタイミングまで、寸分違わず同じだった。
思考が、白いノイズのように潰れた。
異様な事態に、身体が動かない。
視線は床に釘付けのまま、まぶただけが小さく痙攣する。
心臓が、不規則に跳ねた。
そのとき、個室の上から、何かが覗き込む気配がした。
重くて、粘着質な何かが、ゆっくりと境界を越えてくる感触。
天井と扉の間の空間が、押し広げられていく。
湿度が急激に上がり、肌がじっとりと濡れる。
何かに「見られている」。
得体の知れない気配が、壁面を伝って室内に這い降りてくる。
「きみは、私を推してくれてた?」
かつて応援していた娘の声が、ほとんど耳の中で鳴った。
湿った息が、耳の後ろの皮膚に直接かかる。
すぐに、老いた声が下から掠れて重なる。
同じ言葉を、わずかに遅れて、追いかけてくる。
私は目を硬く閉じた。
思考が拒絶していた。
見てはいけない。
確認してはいけない。
耳鳴りが急に大きくなり、自分の脈拍が鼓膜の内側で激しく叩かれる。
答えなければ、消される気がした。
答えれば、何かが消えてしまう気がした。
どちらを選んでも、取り返しがつかない気がした。
冷や汗が背中を伝って一気に流れる。
震える声で、私は言った。
「……私は、きみを推していた」
気配が一瞬、満足そうにざわめいた。
湿った空気が小さく揺らぎ、何かが嬉しそうに身震いするような感触がした。
満ちていたものが、ゆっくりと、室内から引いていく。
粘着質な質量が、壁を伝うように上へ戻っていくのがわかった。
気配は、やがてトイレの奥へと移っていった。
肉を引きずる音が、徐々に遠ざかる。
モップの音も、舐める音も、一緒に消えていく。
どれくらい経ったか分からない。
耳鳴りがするほど静かになったのを確認してから、やっと個室を出た。
突き当たりの扉が、半開きになっていた。
貼り付けられた目のマークが、暗がりの中でこちらを見ている。
その目の形は、グループの胸元に揃うワッペンの紋章と酷似していた。
中は深かった。
光が届かない。
ただ、中で無数の何かが蠢いているような、湿った音がしていた。
扉の前に、汚れたワッペンが落ちていた。
薄い肉片のようなものが、何箇所か付着している。
思わず手を伸ばした。
その瞬間、奥から手が伸びてきた。
汚れにまみれた、黒い手。
反射的に、喉の奥から短い悲鳴があがる。
その手はワッペンをひったくり、ずるずると扉の奥へと消えていった。
指先に触れた感触は、ぬるりとして、死体のように冷たかった。
手に残った汚れは、トイレの壁についていたものと同じく、異様な臭気を放っていた。
震えながら、ようやく顔を上げると、扉から目のマークは消えていた。
トイレの壁の向こうから、ライブ会場の音が薄く漏れ聞こえてくる。
グループのヒット曲だった。
軽快なリズムと、重なった歌声。
「いつまでも見ててね、私たちを」
そのフレーズに合わせて、ファンたちの歓声が一気に上がるのが聞こえた。
手を叩く音、名前を呼ぶ声、熱狂そのもの。いつもと何ひとつ変わらず、夜のステージは華やかに進んでいた。
その後も、グループから卒業する子は定期的に続いた。
公式の文言は、いつも同じものだ。
人気投票の結果を見るたびに、指の腹があの夜の冷たさを思い出して、小さく痺れる。
代わりに入ってくる新人アイドルたちの目は、濁りひとつなく輝いていた。
同じマークのワッペンを胸につけて、ステージの光の中で手を振っている。
しかし私はもう、誰の目も、まっすぐ見られなくなっていた。
後日、改めてあの扉を開けてみたが、掃除用具が納められているだけの、なんの変哲もない用具入れだった。
目のマークも、どこまでも続くような暗い空間も、痕跡すら見つけられなかった。
私は今でもたまに想像するのだ。
あの目の扉の奥は、どこへ繋がっていたのだろう。
卒業したアイドルたちは今、なにをしているのだろうか。
考えても、答えが出るはずもない。
出ない方が、いいのだろう。
ただ、私はライブに行くとき、必ず自宅でトイレを済ませるようになった。
会場のトイレには、もう近づかない。
それも、アイドルへの応援の一つなのだろうから。




