第5話 コイビト、ちょっとだけわかりました
一億は、本当に一億らしい。
聡と話してそれを確認した柚は、それでも現実感がないなと思いながらスイートの室内を見渡す。
まさか自分がこんな場所で寝起きする日がくるとは、考えたこともなかった。
夢ではなさそうだと納得しつつあるけれど、地に足がつかないまま時間が過ぎていく。
そもそも、高徳者と言われることにも違和感がある。そんなに清く正しく生きたつもりがないからだ。
エレベーターの開ボタンを押していた回数を三途は誉めていたけれど、あれは、急いだり焦ったりするのが嫌で早めに行動していたから、時間に余裕があっただけに過ぎない。
会社のビルのエレベーターでは顔も覚えていないような上層部の人も乗りあわせている可能性だってある。そういう人を押しのけてエレベーターを急いで下りた、それだけで派遣の継続をしてもらえなかった人も知っているから尚更慎重になっただけだ。
車から子どもを庇ったのだって、そのままうっかり死んでしまうなんて知っていたら、あんな風に庇えたかは甚だアヤシイ。
ただ、とにかく結果として現世でいうところの億万長者になったらしい。
少なくともこの世界で過ごす間は、ゴールデンウィークは祝日が多いから収入が減ってしまう、なんてことを心配しないでいいだろうから、それはよかったと思う。
とはいえ、この世界のシステムが問題だ。
この世界には、働いたからといって固定の給与がもらえるわけではない。ただ、自分の行いによって、徳が増えたり減ったりするだけだ。そのため、働いても目論見通りに預徳残高が増えるかは、文字通り神のみぞ知る。行い次第では、マイナスの月もあるというのだから恐ろしいシステムだ。
つまり、億あっても油断ならない。柚はそう結論づけた。
柚はころりとベッドに転がった。適度なスプリングの心地良さを感じながら、そっと息を吐く。
恋人契約は一ヶ月。
三百万なんて大金を使った実感もなければ、恋人を得られたという実感もない。
別れ際にそう口にした柚に、聡は渋い顔をした。
「なら、この一ヶ月でそれを実感させてやる。一ヶ月後、少なくとも『恋人がいたことがない』なんて思わせない。それがゴールだ」
どうだ? と言う聡に、柚は同意して頷いた。
何がどうなるとそう思えるのかはよくわからないけれど、なにかしらの実感が残るなら三百万もきっと無駄にはならない。
聡が柚の思い描いていた恋人かといえば、随分と違う。何を期待していたかはうまく言葉にできないけれど、違うということはわかる。
でも、聡がいてくれるお陰で、この世界について教えてもらえるし、スマホの連絡先もひとつ増えた。おやすみなさいとメッセージを送る相手ができた。それはよかったと心から思う。
聡は、以前派遣で行った会社の部長に雰囲気が似ている。厳しい人だったけれど、派遣だからと差別することもなく、作った書類を誉めてくれた。
もっとも、そのせいで他の正社員のやっかみを買い、派遣を切られることになったのだけれど。
とりあえず、住むところと仕事は探す必要がある。
結局、人は死んでも『生活』が続いていくらしい。
それでも、今日の生姜焼きはおいしかった。あんなご飯が食べられるなら、まあいいか、と思う。いくら何かを憂いてみても、生き返って現世に戻ることはできないのだ。
明日も聡と会う。
せっかくだから、今日買ったコートを着ていこう。
そう思いながら、柚は部屋の照明を落とした。
翌朝。身仕度を調えた柚が一階のラウンジに下りると、既に聡が新聞を広げ、珈琲を飲んでいた。
聡が欠伸をかみ殺す姿に、柚は「おはようございます」と声を掛ける。
「眠そうですね」
「あ?……いや、おはよう。早いな」
待ち合わせの十五分前。
早いと言えば早いかもしれないけれど、柚にはいつものことだった。
「行くか」
珈琲の残りを飲み干した聡が立ち上がる。
「すみません、早かったですね」
「時間になっても来ないより断然いい。似合ってる。……学生みたいだな」
昨日買ったダッフルコート姿の柚に、聡が息をこぼすように笑った。
キャラメル色のダッフルコート。ピーコートにするか散々迷って、トグルボタンを決め手に選んだものだ。
「子どもっぽいですかね」
「いいや。可愛い。柚の雰囲気によく合ってていいんじゃないか」
やわらかに言われて、小さく鼓動が跳ねた。
聡につづいてエントランスを出ると、コート越しにも風が冷たく感じられて、ふるりと震える。
すると、聡が持っていた紙袋からオフホワイトのマフラーを出して巻いてくれた。両端についたうさぎの尾のようなポンポンが可愛らしい。
「やる。寒ければ巻いとけ」
「ありがとうございます! あったかいです」
「そりゃよかったな」
くれた張本人のくせに、まるで人ごとのような物言いだ。けれど、声音は冷たくない。
「はい! ありがとうございます」
二度目の礼に返事はないまま、聡はゆっくりと歩いて行く。柚もそこに並んで歩いた。
聡は柚より頭ひとつ背が高い。普通に歩けば、歩幅が違う。
初日、急いでついて歩く柚にすぐに気づいた聡は、歩調を緩めてくれた。以来、柚がいつものペースで歩いても、置いて行かれることはない。
目端が利く人なんだな、と思った。それは職業柄、当然のことなのか、それとも聡の性分なのかはわからない。
それでも、柚好みのマフラーは可愛らしく、心地良い肌触りとあたたかさに鼻先を埋めてみる。
「映画でも見に行こうと思っているが、どうだ?」
「映画もあるんですね。なんだかすごくデートっぽいですね」
「デートだからな」
「そういえばそうでした」
ぱちりと目を瞬かせて口にすると、聡はどこか呆れたように口の端を引き上げた。
「聡さん、恋人がいたことを実感するって、つまりどんな感じですかね」
「さあな。まあでもとりあえず、こういうことじゃないか?」
聡は柚の手を取って恋人繋ぎすると、そのまま自身の口元に持って行って、柚の手の甲に口づける。
送られた流し目にどぎまぎして手をほどこうとすると、ぎゅっと握られて離してもらえなかった。
「いやか?」
答えなどわかっていそうな表情の聡に、ふるりと首を振る。
「……コイビト、ちょっとだけわかったかも、デス」
「そりゃよかったな」
機嫌よく笑った聡は、「ああ、でも、本気にはなるなよ?」と釘を刺すのも忘れない。
やられっぱなしが悔しくて、「聡さんもですよ」と見上げると、クッと肩を揺すって笑われた。
「なると思うか?」
「ですよねぇ」
ホスト相手に敵うわけがない。柚は早々に白旗をあげる。
本気で好きになるとどうなるんだろう? などと考えながら機嫌の良さそうな聡を見上げる。
「あれ? 聡さんからすると、本気にさせたほうがよくないですか? 本気にさせて貢がせるって聞いたことあります」
聡は、柚が高徳者であることを知っている。
それならいっそ本気にさせた方が、都合がいいんじゃないだろうか。
「……刺されるのは、ごめんだな」
「は?」
「いや。俺は忠告したからな。それでも本気になったら、……まあ、自己責任だ。せいぜい貢いでくれ」
ニヤリと笑った聡は、「行くぞ」と手を引き歩き出した。




