9.……なあ、その約束、前から決まっとったん?
六月上旬。
朝の空気はもう春というより初夏に近くて、教室の窓から入ってくる風も少しだけ湿っていた。
雨こそ降っていないけれど、空は薄い雲に覆われていて、日差しはどこかやわらかい。窓の外では中庭の木がゆっくり揺れていて、開け放した窓際のカーテンがふわふわと動いていた。
梅雨が近いんだな、と、なんとなく思う。
そんな六月の朝。
「席替えするぞー」
担任のその一言で、教室がざわついた。
「急だな」
「マジか」
「今の席、そこまで悪くないんだけど」
「窓側当たりたい」
俺――桐谷湊も、周りと同じように少しだけ顔を上げる。
そこまで大きなイベントでもないけど、席が変わるとなれば空気は少し変わる。
そのとき。
「……」
横から、視線。
見ると、白銀ルナ――白銀さんが、じっとこっちを見ていた。
「何」
「別に」
「何か言いたそうだけど」
「言ってへん」
即答だった。
でも、そのあとほんの少しだけ間が空く。
「……まあ」
「何」
「今の席、そこそこ悪くなかっただけや」
「そうだね」
「その返しやめて」
「何が」
「軽い」
白銀さんはむっとした顔をする。
「もうちょい何かあるやろ」
「まだ変わるか分からないし」
「そうやけど」
そこでまた少し視線を逸らす。
「……隣やと話しやすいやん」
「うん」
「すぐ聞けるし」
「うん」
「……からかいやすいし」
「そこ大事なんだ」
「大事や」
言い切ったあと、白銀さんは自分で少しだけ笑った。
たぶん本音が出すぎたと思ったんだろう。
「まあ、全部が全部悪くないってだけやし」
「そっか」
「その“そっか”もなんか腹立つな……」
そう言いながら、少しだけ頬が緩んでいる。
◇
くじ引きは、担任が持ってきた小さな箱から順番に番号の紙を取っていく方式だった。
前の列から順番に呼ばれていく。
「うわ、真ん中だ」
「やった、後ろ」
「最悪、教卓の前」
そんな声が飛び交う中、やがて俺の番が来る。
紙を引いて、番号を見る。
「どこやった?」
すぐ後ろから白銀さんの声。
「窓側の後ろ」
「ええやん」
少しだけ羨ましそうな声だった。
「風入ってくるやろ」
「たぶん」
「六月やしなあ。ちょっと蒸す日増えてきたし、そこ当たりやん」
たしかに、この時期の窓際はわりと助かる。
「白銀さんは?」
「まだ」
そして、白銀さんの番。
箱に手を入れて、紙を一枚引く。
「……真ん中や」
「近いね」
「まあな」
短く返す。
でも、その口元はほんの少しだけ安心したみたいに見えた。
今までの隣同士ではなくなるけど、教室の端と端みたいな極端な位置でもない。視線を上げれば見えるくらいの距離だ。
「その顔、何」
「何が」
「ちょっと安心した顔」
「してへん」
「してる」
「してへん!」
即ツッコミ。
でも少し赤い。
◇
席移動が始まる。
机と椅子が動く音が、教室のあちこちで鳴っていた。
俺は後ろの窓側へ移る。前より少しだけ風通しがよくて、たしかに悪くない席だった。
「そこええなあ」
机を置き終えたタイミングで、白銀さんが自分の新しい席からわざわざこっちへ来た。
「そこまで?」
「六月入って蒸してきたやろ。うち、暑いのちょっと苦手やねん」
「そうなんだ」
「お父さんの血かもなあ」
「ハーフ要素、そこなんだ」
「そこだけちゃうけど?」
白銀さんは少し得意げに胸を張る。
「髪とか目ぇとか、よく言われるやろ」
「まあ、かなり目立つよね」
「……」
「何」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ」
「……そっか」
少しだけ嬉しそうに目を細める。
それから、白銀さんは教室の中を見回して、小さく息をついた。
「まあでも、思ったより遠ないな」
「そうだね」
「斜め前やし」
「うん」
「見ようと思たら見えるし」
「見てるんだ」
「確認や」
「何の」
「ちゃんとおるか」
「いなくならないよ」
「分かっとる!」
でも、どこか安心したような声だった。
◇
席替え後の最初の授業が始まる。
いつも隣から飛んできていた小声やツッコミがないだけで、教室の空気は妙に静かに感じた。
でも、完全に静かだったかというと、そうでもない。
前を向いているはずの白銀さんが、数分おきにこっちを見てくるからだ。
目が合う。
逸らす。
数十秒後、また見る。
また逸らす。
その繰り返し。
分かりやすい。
休み時間になった瞬間、白銀さんはくるっと振り返った。
「なあ」
「何」
「遠ない?」
「遠くない」
「ほんま?」
「さっきから見えてるし」
「見てへん!」
「見てた」
「それは確認や!」
「同じこと言ってるね」
「大事やからな」
白銀さんはそう言ってから、小さく笑った。
「でもまあ、思ってたより悪くないわ」
「席替え?」
「うん」
「後ろすぎたら、湊くん見えへんかったかもしれへんし」
「見る前提なんだ」
「……知らん」
そう言って視線を逸らす。
でも、その髪の隙間から見える耳が少し赤かった。
◇
昼休み。
俺がいつものように購買パンを持って席に戻ると、白銀さんは当然みたいに弁当箱を持って後ろまで来た。
「ここで食べる」
「いいけど」
「ええやろ」
「誰に許可取ってるの」
「うちが決めた」
そこもいつも通りだった。
席が変わっても、やることはあまり変わらないらしい。
「やっぱこの距離なら来れるな」
「思ったより近かったしね」
「せやろ?」
白銀さんは満足そうに弁当箱を開ける。
「なあ」
「何」
「ちゃんと見えてる?」
「何が」
「うち」
「見えてるよ」
「ほんま?」
「銀髪だから」
「それ便利やなあ」
「便利なの?」
「うん。目立つんはめんどい時もあるけど、こういう時は楽や」
「こういう時って?」
「……知らん」
ごまかした。
でもたぶん、本音は単純だ。
**“見つけてもらえる”**のが少し嬉しいんだろう。
白銀さんは弁当を一口食べてから、ふいに聞いてきた。
「なあ湊くん」
「何」
「六月ってなんか嫌やない?」
「なんで」
「湿気。髪ふわっとするし」
白銀さんは自分の銀髪を少し持ち上げる。
「これでも朝けっこう頑張ってるんやで」
「そうなんだ」
「うん。日本の梅雨、ちょっと油断したらあかんってお母さんよう言うてる」
「たしかに、今日は少し重い感じするかも」
「っ……」
「何」
「そういうの気づくんやな」
「見たら分かるよ」
「……ほんまにいちいち刺さるなあ」
白銀さんは頬を押さえながら笑った。
そして、その流れのまま少しだけ前のめりになって聞いてくる。
「で?」
「何が」
「今のうち、いつもより可愛い?」
「話飛んだね」
「ええから」
少し考えてから答える。
「いつもと違う感じで可愛い」
「……っ」
「ルナ?」
また、口が滑った。
白銀さんが固まる。
「今……」
「何」
「……何でもない」
「いや、今のは」
「言わんでええ!」
白銀さんは顔を真っ赤にして、机に額をつけた。
「名前で呼ばれるの、まだ慣れてへんのやって……」
「嫌だった?」
「嫌ちゃう!」
即答だった。
それから、少し小さく続ける。
「……ちょっとびっくりするだけやし」
◇
放課後前。
六時間目の終わりが近づいて、教室の空気も少しゆるくなっていた。
そのタイミングで、俺はスマホを取り出す。
福原七海からメッセージが来ていた。
『来週の土曜、例のゲーム大会いける?』
少し考える。
別に予定はない。
短く『行ける』と返信して送る。
そのとき。
「……」
横から視線。
いや、今は横じゃなくて斜め前だけど。
顔を上げると、白銀さんがじっとこっちを見ていた。
「何」
「今の」
「何が」
「“行ける”ってやつ」
「……」
「誰と?」
少しだけ声が低い。
「福原さん」
「……ああ」
一瞬だけ間が空く。
それから軽く頷いた。
「ゲームのやつ?」
「そう」
「ふーん」
そこで会話は終わるかと思った。
でも終わらなかった。
「……なあ」
「何」
「その約束」
「うん」
「前から決まっとったん?」
「いや、今決まった」
「……そうなんや」
白銀さんは小さく視線を逸らした。
「急やな」
「大会だから」
「ふーん」
机に指先で小さくリズムを刻む。
「……別にええけど」
「何が」
「約束とか」
「うん」
「気にしてへんし」
「さっきから言ってるね」
「ほんまや」
白銀さんは少し笑う。
でも、そのあとでちゃんと付け足した。
「……ちょっと気になっただけや」
その言い方がやけに素直で、俺は少しだけ驚いた。
でも、そこで何か返す前に終礼のチャイムが鳴った。
◇
放課後。
教室を出て、二人で昇降口へ向かう。
六月の空気は朝より重たくて、廊下の窓から見える空もどこか白っぽかった。
「なあ湊くん」
「何」
「その大会」
「うん」
「強いん?」
「福原さんが?」
「そう」
「強いよ」
「へえ」
「負けることあんまりない」
「……」
「……」
「それ、ちょっと悔しいな」
「なんで」
「なんとなく」
白銀さんはそう言って少しだけ笑う。
「まあええか」
「何が」
「別に勝負ちゃうし」
「そうだね」
「……でも」
「何」
「ちょっとくらいは」
「うん」
「うちのことも見とってな」
「見てるよ」
「……」
「……」
「それや」
白銀さんは顔を逸らした。
「そういうとこや」
「何が」
「……知らん」
でも、その頬は少し赤かった。
校門を出る。
六月の少し湿った風が、銀色の髪を揺らした。
その髪は夕方の光を受けて、やっぱり目立つ。
「白銀さん」
「何」
「見つけやすいよね」
「なんで今それ言うん」
「思ったから」
「……ずるい」
白銀さんは少しだけ笑って、それから小さく手を振った。
「また明日な」
「ああ、また明日」
思ってたより、変わった感じはしなかった。




