11.……近ない? これ、ほんまに普通なん?
放課後。
教室の外は、昼間よりも少し暗くなっていた。
空はどんよりとした灰色で、窓の外には今にも雨が落ちてきそうな雲が広がっている。
「降りそうやな」
白銀ルナ――白銀さんが、窓の外を見ながら言った。
「予報では降るって言ってた」
「朝は降ってへんかったのに」
「梅雨だし」
「それ言われたら終わりや」
白銀さんは肩をすくめる。
教室にはまだ数人残っているけど、ほとんどの生徒はもう帰り始めていた。
「湊くん、傘ある?」
「ない」
「うちも」
「詰んだね」
「軽く言うなや」
白銀さんは少しむっとする。
「どうするん?」
「様子見る?」
「様子見てる間に降るやつやろそれ」
「たぶん」
「最悪やん」
でも、その口調はどこか楽しそうだった。
◇
昇降口に着く頃には、ぽつ、と一滴落ちた。
それが合図みたいに、次の瞬間には雨が降り出す。
「……タイミング悪すぎやろ」
「さっきまで降ってなかったのに」
外はもうしっかりと雨。
強すぎるわけじゃないけど、傘なしで帰るには普通に無理な量だった。
昇降口には同じように立ち止まる生徒が何人かいる。
「どうする?」
「待っても止みそうにないな」
「うん」
「……」
「……」
少し沈黙。
そのあと。
「……なあ」
「何」
「走る?」
「無理」
「即答やめて」
「普通に濡れるし」
「まあそうやけど」
白銀さんは腕を組んで考える。
それから、ちらっとこっちを見る。
「……一応聞くけど」
「何」
「湊くん、濡れても平気なタイプ?」
「平気ではない」
「やんな」
また少し沈黙。
そして。
「……じゃあ」
「うん」
「一緒に帰る?」
「……」
「……」
「傘ないけど」
「……うち、折りたたみある」
「あるんだ」
「さっき思い出した」
「さっき?」
「うん」
「じゃあ最初から出してよ」
「なんか悔しいやん」
「何が」
「一人で帰れるのに、みたいになるやろ」
「ならないよ」
「なるねん」
白銀さんは少しだけ視線を逸らす。
それから、小さく言う。
「……ほら」
バッグから折りたたみ傘を取り出して、開く。
「入る?」
その一言が、やけに静かに聞こえた。
◇
傘の下。
距離が、近い。
「……」
「……」
無言のまま歩き出す。
普通の会話をしようと思えばできるのに、なぜか最初の一歩が出てこない。
雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……なあ」
先に口を開いたのは白銀さんだった。
「何」
「近ない?」
「近いね」
「普通なんこれ」
「相合傘なら普通じゃない?」
「そうなん?」
「たぶん」
「……」
納得してない顔だった。
肩が軽く触れる。
傘が小さいから、どうしても距離は詰まる。
「ちょっと寄って」
「どっちに」
「そっち」
「これ以上行くと濡れるよ」
「じゃあそのままでええ」
結局そのまま。
歩くたびに、ほんの少しだけ触れる。
◇
数分歩いたところで。
「なあ」
「何」
「うちのほう、ちゃんと入っとる?」
「入ってる」
「ほんま?」
「むしろ俺のほうが少し濡れてる」
「え」
白銀さんが慌てて距離を詰める。
「ちょ、寄りすぎ」
「濡れるほうがあかんやろ!」
「近い」
「しゃあないやん!」
さらに距離が近くなる。
さっきよりも明らかに近い。
顔が少し近い。
「……」
「……」
「なあ」
「何」
「これ、あかんやつやない?」
「何が」
「距離」
「さっきから言ってるね」
「さっきより近いねん!」
その通りだった。
◇
風が少し吹く。
雨が傘に当たる音が強くなる。
その瞬間、白銀さんの髪が少し揺れた。
湿気を含んで、少しだけ重くなった銀髪。
それが、すぐ近くにある。
「……」
「……何」
「いや」
「今、なんか見とったやろ」
「見てた」
「なんで正直なん」
「綺麗だから」
「……っ!」
一瞬で固まる。
「今それ言う!?」
「思ったから」
「タイミング考えろや!」
白銀さんは顔を押さえる。
「ほんま無理……」
「何が」
「この距離でそれはあかん……」
でも、その指の隙間から見える頬は真っ赤だった。
◇
少し歩く。
また沈黙。
でも、さっきとは違う。
変に意識しているのが分かる。
「……なあ湊くん」
「何」
「さっきの」
「うん」
「忘れて」
「無理」
「なんで」
「本当だから」
「……っ!」
また赤くなる。
「ほんまなんなん……」
でもその声は、少しだけ笑っていた。
◇
横断歩道で止まる。
信号待ち。
雨は少しだけ強くなっていた。
傘の中は、やっぱり近いまま。
「……なあ」
「何」
「このままやとさ」
「うん」
「帰るまでずっとこの距離やんな」
「そうだね」
「……」
「……」
「それ、しんどい」
「なんで」
「分かるやろ!」
白銀さんが小さく叫ぶ。
でも、そのあと。
「……でも」
「何」
「ちょっとだけなら、ええかも」
「どっち」
「どっちでもええわ!」
でも、その言い方は少しだけ柔らかかった。
◇
家の近くまで来る。
雨はまだ止まない。
でも、もう少しで別れる距離。
「……なあ」
「何」
「今日のこれ」
「うん」
「勝負的にはどうなん」
「照れさせたいゲーム?」
「そう」
少し考える。
「白銀さんの負け」
「なんでや!」
「ずっと赤かった」
「それはしゃあないやろ!」
「でも俺はそんなに困ってない」
「……」
「……」
「……ちょっとは困ってたやろ?」
「少しだけ」
「ほら!」
少し嬉しそうにする。
でもすぐに顔を逸らす。
「……じゃあ」
「何」
「引き分けにしといたる」
「優しいね」
「上からやめろ」
でも笑っていた。
◇
分かれ道。
傘を閉じる。
雨はまだ続いている。
「ほな」
「うん」
「今日は……その」
「何」
「……まあ、ええわ」
言いかけてやめる。
でも、その代わりに少しだけ笑った。
「また明日な」
「ああ、また明日」
白銀さんは少しだけ手を振って、歩き出す。
銀色の髪が、雨に少し濡れていた。
さっきまであんなに近かった距離が、少し遠くなる。
でも。
たぶん。
あの距離は、もう一度簡単に戻る気がした。
――そして、きっと次は。
もう少しだけ、長くなる。
読んでくださりありがとうございます。




