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第1話『砂場の卵焼き』 ~Section 8:銀色の亡霊と、迷い子たちの聖域~

 深夜二時を回った南公園は、もはや僕たちが知っている『市民の憩いの場』ではなかった。

 スマホのライトが照らし出す、頼りない円形の光。その境界線の向こう側は、あらゆる光を飲み込むほど深い、粘り気のある闇が支配している。瑠璃が駆け出した先は、公園の最深部――古びた石垣が崩れかけ、巨大なエノキの根がアスファルトを毒蛇のように突き破っている、旧市街との境界エリアだ。


「如月さん、待ってください! 暗すぎて足元が危ないですよ! 根っこに躓いたら……」


 僕は砂の中から引き揚げたばかりの『銀色の弁当箱』を、爆弾でも扱うかのように両手で抱え、必死に彼女の背中を追った。

 瑠璃の足取りは、闇の中でも驚くほど迷いがない。彼女は手帳を胸に抱いたまま、まるで夜の風そのものに導かれているかのように、複雑に絡み合った茂みの間を音もなくすり抜けていく。僕が枝を払い、クモの巣に顔を突っ込みながら無様に突き進む一方で、彼女の制服のプリーツは、まるで重力を無視するように美しく揺れていた。


 やがて、彼女は唐突に足を止めた。

 そこは、かつて噴水だったのか、それともただのコンクリートの残骸なのか判別もつかない、奇妙な広場だった。新市街の煌々とした光が、遠くのビル群の影に遮られ、ここには一切届かない。ただ、頭上の三日月だけが、廃墟のような広場を青白く、不気味に照らし出している。


「……消えた、か。足跡も、衣擦れの音も、人の匂いさえもな。実に手慣れた『消去法』じゃ」


 瑠璃の声は低く、だが確かな苛立ちを孕んでいた。彼女は手帳をめくり、万年筆の尻で自分の唇を軽く叩きながら、周囲の闇を『網膜に焼き付ける』かのように見渡している。

 僕は激しい立ち眩みに襲われながら、彼女の隣に膝をついた。肺が冷たい夜気を吸い込み、ヒリヒリと痛む。心臓の鼓動が耳の奥で、暴走する機械のように鳴り響いていた。


「……誰も、いませんよ。やっぱり、ただの風の音だったんじゃないですか? もしくは、僕の見た幻覚か……」


「否。サクタロウ、先ほど拾った『ボタン』を見せよ。……光る板に映る幻ではなく、重みのある物理的な証拠をな」


 僕は震える指でポケットを探り、茂みの足元で拾った銀色のボタンを取り出した。

 スマホのライトを至近距離で当ててみると、そのボタンには、この街のどのブランドにも、どの学校の制服にも属さない、奇妙な紋章が刻印されていた。それは、開いた本の中に、一滴の雫が落ちるような、繊細でどこか宗教的なまでの不気味さを湛えた図案だ。


「……見たことがないマークです。新市街の高級ブランドでも、旧市街の作業服でもない。でも、どこかで見たような懐かしさがある……」


「ふむ……わしの脳内ライブラリにも、直接の該当データは存在せぬな。だが、このボタンの材質を見よ。安物のプラスチックを塗装したものではない。最高級の真鍮(しんちゅう)を削り出し、特殊な電解メッキが施されておる。……これは、わが如月家の特注品にも劣らぬ、極めて高価な『不純物』じゃ」


 瑠璃はそのボタンを指先で弄び、爪で弾くと、キィィィンという澄んだ金属音が夜の静寂に響き渡った。彼女は、闇の向こう側にある『境界線』――旧市街へと続く腐った路地を見つめた。


「サクタロウ。お主のその不器用な指先で、この紋章を検索せよ。……ただし、新市街の管理AIが推奨するクリーンなネットワーク(表層)ではなく、削除済みのログや、都市伝説のアーカイブが漂う情報の深層を優先的にな」


 僕は彼女の指示通り、如月コンツェルンの特権IDを隠れ蓑にして、管理社会のゴミ溜めへと、意識の触手を伸ばしていった。画面には、新市街の住人が決して目にしてはならない、ドロドロとした情報の断片が次々と浮かび上がる。

 数分後、一つだけ、一致する画像がノイズ混じりの画面に浮かび上がった。


「……ありました。これ、『迷い子たちの聖域サンクチュアリ』と呼ばれている非合法コミュニティのシンボルです」


「迷い子……。なんとも感傷的で、吐き気のする名前じゃな。実態は?」


「公式な記録は完全に隠蔽されています。ただ、新市街の『完璧な家族』という枠組みから溢れ、精神的に、あるいは社会的に脱落した子供たちが、密かに旧市街の地下に集まっている場所だという噂があります。……彼らは自分たちを、AIの最適解に選ばれなかった『美しいノイズ』と呼んでいるそうです。……そして、そこには彼らを導く『神様』と呼ばれる大人の存在があるとか」


 瑠璃の瞳が、一瞬だけ鋭く、そして獲物を見つけた猛禽のように楽しげに細まった。


「美しいノイズ、か。……ようやく、わしの退屈を殺してくれるに足る、偏屈な敵が現れたようじゃな。サクタロウ、先ほどの弁当箱の中身をもう一度思い出せ。三種類の卵焼き……。あれは、佐伯浩介に向けられた『復讐』などという陳腐なものではない。この街に蔓延する『成功という名の強迫観念』を、最も滑稽な形で演劇(アート)に仕立て上げるための、舞台装置だったのじゃ」


「演劇……? でも、どうしてそれが砂場に? まさか、翔太くんを誘い出そうとしたんですか?」


「砂場は、子供たちが人生で最初に出会う『社会の縮図』じゃ。そこで行われる無邪気な遊びを、彼らは大人のドロドロとした欲望に上書きし、それを再び地表へと掘り起こした。……つまり、彼らは佐伯翔太くんの絶望を『収穫』し、それを種として、この街の完璧さに飽きた連中への招待状を植え付けたのじゃよ。……現に、こうしてわしが食いついたようにな」


 瑠璃は、手帳にボタンのスケッチを素早く、流れるような線で書き込むと、そのまま旧市街の暗い路地――汚水が滴り、錆びた鉄の匂いが立ち込める場所へと、一切の躊躇なく歩き出した。


「待ってください! 如月さん! これ以上は、本当に冗談じゃ済みません。ここから先は、如月家の権力だって監視カメラだって届かない、月見坂市の『(はらわた)』ですよ!」


「腸ならば、そこで何が消化され、何が排泄されているかを知るのが解剖学の基本じゃ。サクタロウ、お主はそこで震えておるか、それともわしの後をついてきて、この街の裏側にある『もう一つの教科書』を読むか。……選ぶ権利を、特別に一秒だけ与えてやる」


「……三秒にしてくださいよ、せめて!」


 僕は泣きそうになりながらも、抱えた銀色の弁当箱を落とさないよう必死に抑え、彼女の背中を追った。

 旧市街の路地裏は、腐った潮の匂いと、不法投棄された電子部品の焦げた匂いが混ざり合っていた。新市街の『管理された清潔』とは無縁の、むせ返るような生身の人間たちの営みが、暗闇の中にひっそりと、だが強かに息づいている。


 やがて、僕たちの前に、古びたレンガ造りの時計塔が現れた。

 かつては旧市街の誇りだったであろうその塔は、今では真っ黒なツタに覆われ、巨大な墓標のように天を指している。時計の針は、永遠に『零時』を指したまま止まっていた。


 その時計塔の根元、深い影の中に、人影があった。


 銀色のボタンと同じ、雫の紋章を胸につけた、灰色のパーカーを着た少年。

 彼は、僕たちの接近に気づくと、青白い顔に薄ら笑いを浮かべ、手にした『何か』をゆっくりと口に運んだ。

 それは――『月見亭』の、あの黄金色の卵焼きの最後の一つだった。


「……如月瑠璃。君が来るのを、『砂場の神様』が待っていたよ」


 少年の声は、透き通るように高く、それでいて感情が一切欠落した、まるで録音機のような響きだった。

 彼は卵焼きをゆっくりと咀嚼し、それを飲み込むと、僕たちが持っている銀色の弁当箱を細い指で指差した。


「それは、君たちへの『招待状』だ。……完璧な世界に飽きたお嬢様。君は、自分の家のシステムが、どれだけ脆い砂の城の上に立っているか……その『ノイズの正体』を知りたいとは思わないかい?」


 瑠璃は、一歩も引かずに少年に歩み寄った。

 彼女の手に握られた万年筆が、月光を反射して冷たいナイフのように光る。


「わしを誘うには、些か卵焼きの味が濃すぎたようじゃな。……お主たちの神様とやらに伝えよ。如月瑠璃は、ノイズを『楽しむ』者は許すが、ノイズを『利用する』者は、その喉元をペン先で突き通すと」


 少年は、音もなく笑うと、そのまま時計塔の影へと溶け込むように消えていった。

 後に残されたのは、微かなリンゴ酢の匂いと、僕たちの心に刻まれた、底知れない不安の澱だけだった。


 僕は、抱えていた弁当箱を、より一層強く抱きしめた。

 砂場から始まったこの黄金色の謎は、今、一家族の悲劇という殻を破り、この街の根幹を揺るがす巨大な陰謀へと、その姿を変えようとしていた。



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