第1話『砂場の卵焼き』 ~Section 6:幾何学的な矛盾と、深夜の再捜査~
タワーマンションの自動ドアが、背後で重厚な音を立てて閉まった。
新市街の人工的な静寂が、僕の汗ばんだ肌を冷たく包み込む。見上げれば、完璧な幾何学模様を描く高層ビル群が、星の見えない夜空を支配していた。
全身を襲う凄まじい疲労感。乳酸が溜まりきった太腿が、一歩踏み出すたびに『もう限界だ』と悲鳴を上げている。だが、それ以上に僕を支配していたのは、一つの『解決』を終えたという空虚な達成感だった。佐伯親子は、おそらくこの日から変わり始めるだろう。間違った愛を正し、砂の中に埋めた本音を掘り起こして。
……めでたし、めでたし。そう締めくくって、温かい風呂に浸かって眠りたかった。
「……終わりましたね、如月さん。悲しい結末でしたけど、あの親子もこれで、少しは向き合えるようになるんでしょうか。翔太くんのあの涙、本物でしたよ」
僕は、歩道に放置していたママチャリを拾い上げ、重い溜息とともに呟いた。
だが、リムジンの前で立ち止まった如月瑠璃は、僕の方を振り返りもしなかった。彼女は月明かりの下で、再びあの革表紙の分厚い手帳を開き、万年筆を小刻みに動かしている。カリカリ、という金属的なインクの掠れる音が、静まり返った夜の街に不気味に響く。
その背中からは、解決を喜ぶ雰囲気など微塵も感じられない。むしろ、より深い闇の底に目を凝らしているような、そんな不穏な気配が漂っていた。
「サクタロウ。お主は、先ほどの少年の言葉を、あの涙の温度だけで信じ込んだのか?」
「……信じたのかって。あんなに泣いて、本当のことを話してくれたじゃないですか。あれが演技だとしたら、あの子は天才役者ですよ」
「涙に嘘はない。あの子の絶望も、砂場に隠したという告白も真実じゃろう。……だが、物理的な『事象』が、その告白を冷酷に否定しておるのじゃ」
瑠璃は、保存容器に入ったあの卵焼きを、街灯の冷淡な白い光にかざした。
砂にまみれた黄金色が、夜の闇の中で不気味な存在感を放つ。
「思い出せ、サクタロウ。わしが今日の放課後、南公園の砂場でこれを発見した時の状況を。お主のその節穴のような目でも、あの異様さは焼き付いておるはずじゃ。わしが最初に言った言葉を忘れたか?」
言われてみれば、そうだ。
瑠璃は最初、それを『黄金の迷い子』と呼び、発見したとき、卵焼きは砂場の『ど真ん中』に鎮座していたと言った。
南公園の砂場は、円形をしていた。瑠璃が最初に見つけた時、卵焼きは砂場の中心、幾何学的な一点に、まるで誰かに奉納されたかのように、正確に置かれていたのだ。
「翔太くんは『砂の中に、隠した(埋めた)』と言ったな。しかし、わしが発見した時、これに砂は付着してはおったが、埋まってなどおらなかった。それどころか、砂を掘り起こした形跡も、上から砂を被せられた形跡もなかった。……少年の告白と、発見時の物理的事実は、決定的に矛盾しておる」
僕は、全身の毛穴が逆立つような感覚に襲われた。
新市街の冷たい夜風が、制服の隙間から入り込み、汗ばんだ肌を凍らせる。
もし翔太くんが朝、登校途中に砂の中に『隠した』のなら、放課後に瑠璃が見つけたとき、なぜそれは地表に、それも正確な中心に移動していたのか。
「……誰かが、掘り起こしたってことですか? 偶然、誰かが砂遊びをしていて見つけたとか」
「偶然で、これほど正確に中心へ置くか? 否。これは明確な『再配置』じゃ。翔太くんが埋めた絶望を、誰かが掘り起こし、あえて目立つように飾り立てた。……そこには、明確な意図がある。それに、あのリビングの隅にあった『二回り小さな弁当箱』……お主、あれを見たか?」
「え……? 弁当箱、ですか? いや、僕は翔太くんの相手で手一杯で……」
「これだから凡人は。情報の断片は、常に現場の『余白』に落ちておるのじゃ。あの家族、子供は一人のはず。ならば、なぜ予備の、それもさらに小さな弁当箱が必要だったのか。……サクタロウ、お主の持っているその『光る板』で、佐伯家の近隣トラブル、あるいは不審者の通報履歴を再検索せよ」
僕は、震える指でスマホを操作した。
「……いえ、如月さん。新市街の治安管理ログには、該当するデータはありません。佐伯家は完璧な『優良市民』として登録されています。……でも、南公園周辺では、ここ数日、子供たちの間で変な噂が流れているみたいです。『砂場の神様』が、願い事を叶えてくれる、とか……」
「砂場の神様、か。ヘドが出るほど安っぽい物語じゃな」
瑠璃は忌々しげに手帳を閉じ、僕を射抜くような視線を向けた。
「サクタロウ。お主のそのガラクタをトランクに入れ、リムジンに乗れ」
「えっ……?」
僕は耳を疑った。
彼女は今、何と言った?
あんなに『女の子に耐性のないお主と密室など名誉に関わる』と吐き捨て、僕にママチャリでの死走を強いた彼女が、如月家の権力の象徴である後部座席に、僕を招き入れようとしている。
「どうした。自分の耳を疑う前に、その泥だらけの足を拭け。……今の時間は一分一秒が惜しい。ママチャリで再び坂を登り降りするような、生産性のない無駄はこれ以上許さぬ。わしの思考を加速させるための、生け贄としての同乗を特別に許可してやる。感謝せよ」
黒服の使用人が、無言で、だが恭しくドアを開ける。
僕は、恐る恐るその最高級の革張りのシートに身体を沈めた。
重厚なドアが閉まった瞬間、世界から音が消えた。
車内は、外の喧騒が嘘のような、完全な静寂と適温に包まれていた。微かに漂うのは、人工的な芳香剤の匂いではない。瑠璃が使い込んでいる古いインクの香りと、彼女自身の――どこか雪の日の空気のように冷たく、それでいて不思議と落ち着く、凛とした香りだった。
「……向かう先は、再び南公園ですね」
「当然じゃ。佐伯浩介が買った卵焼きは六つ切り。翔太くんの弁当に入っていたのは三つ。……残りの三つはどこへ消えた? 砂場に置かれていたのは、そのうちのたった一つ。……まだ、二つ足りぬのじゃ」
瑠璃は、手帳を膝に置き、窓の外を見つめた。
車窓を流れる新市街の夜景は、あまりに完璧すぎて、まるで巨大なジオラマの中を走っているような錯覚に陥らせる。
「サクタロウ。この街のAIは、最適解を出すことは得意じゃが、『意味のない悪意』や『無秩序な情熱』を理解できぬ。だから、わしがそれを定義してやらねばならん。準備せよ。南公園に着いたら、お主には『再発掘』に従事してもらう。卵焼きが置かれていたあの砂場の下に、何が埋まっているのか……わしはこの手で暴かずにはいられぬのじゃ」
僕は、隣に座る少女の横顔を、ただ黙って見つめていた。
女の子に耐性のない僕にとって、この至近距離で彼女の吐息を感じる状況は、本来ならパニックに陥ってもおかしくないはずだ。
だが、今の彼女が放つ『真実への渇望』があまりに鋭すぎて、僕の中のドギマギとした感情さえも、一瞬で凍りついていた。
彼女が求めているのは、正義でも倫理でもない。
ただ、この完璧に調律されたディストピアに風穴を開ける、剥き出しの『人間』という名のノイズなのだ。
リムジンが停車した。
そこは、街灯の届かない、深い闇が支配する南公園の入り口だった。
僕は、震える足で車外へ出た。
再び、湿った砂の匂いと、夜の冷気が僕を包み込む。
瑠璃は手帳を胸に抱き、月光に照らされた砂場へと、迷いのない足取りで踏み出した。
「さあ、始めよう。砂の中に眠る、真の『ノイズ』を掘り起こすのじゃ。……サクタロウ、その『光る板』のライトで、足元を照らせ」
瑠璃の声は、深夜の公園に低く、だが鋭く響き渡った。
僕たちは、まだ何も知らない。
あの卵焼きの下に、この街の根幹を揺るがすような、さらに醜悪で美しい『落とし物』が隠されていることを。




