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第1話『砂場の卵焼き』 ~Section 5:天空の揺り籠と、冷めた黄金色~

 新市街第3ブロックにそびえ立つ『クレスト・スカイタワー』は、見上げるだけで首が痛くなるほどの威容を誇っていた。

 外壁は特殊な調光ガラスで覆われ、夜の闇の中でも周囲の光を反射して、まるで巨大な水晶の柱のように輝いている。入口には、制服を着たコンシェルジュではなく、最新型の警備ドロイドが二体、彫像のように鎮座していた。

 僕が汗だくで倒れ込んでいる歩道のすぐ横を、音もなく電気自動車が通り過ぎ、高級なタイヤがアスファルトを噛む乾いた音だけが響く。


「……はぁ、はぁ……如月さん。ここ、住民以外の立ち入りは厳禁ですよ。僕のデバイスに特権アクセスがあるとはいえ、無闇に侵入すればログが残って、明日には僕の家に憲兵が来ちゃいます」


 僕は震える手でスマホを握りしめ、冷たいタイルに膝をついたまま訴えた。だが、如月瑠璃は僕の言葉など風の音ほどにも留めていない。彼女は手帳を小脇に抱え、迷いのない足取りでマンションのメインゲートへと歩を進めた。


「案ずるな、サクタロウ。この街の管理AIは『異常』を検知するようにできているが、『あまりに堂々とした異物』には意外と脆い。それに、わしの顔そのものが、この街においては最高位のパスワードなのじゃよ」


 彼女がゲートの前に立つと、センサーの赤い光が彼女の全身をなぞった。数ミリ秒の照合時間の後、無機質な合成音声が『ようこそ、如月瑠璃様。良き夜を』と告げ、重厚なガラスドアが恭しく左右に開かれた。

 僕は慌てて立ち上がり、自分の惨めな姿を隠すようにして彼女の背中を追った。


 エレベーターは重力を感じさせない滑らかさで、僕たちを地上二百メートルの最上階へと運んでいく。鏡張りの壁面に映る僕の姿は、泥にまみれ、顔は青白く、まるで幽霊のようだ。対照的に、隣に立つ瑠璃は、これから行われる『解剖』を待ちきれない外科医のような、静かな興奮を湛えた瞳をしていた。


「サクタロウ。お主の持っているその『光る板』で、佐伯家の家族構成を再確認せよ。情報の最終確認は、現場に踏み込む直前に行うのが鉄則じゃ」


「……はい。佐伯浩介、妻の真由美、そして長男の翔太くん、六歳。……翔太くんは今年、如月学園初等部への入学を目指して、複数の有名塾を掛け持ちしているようです。SNSの裏垢と思われる投稿には……『期待が重すぎる』『パパが怖い』といった単語が散見されますね」


「ふむ、典型的な『期待という名の絞首刑』じゃな。親は子供を愛していると嘯くが、その実、愛しているのは『自分たちが成し得なかった完璧な人生』を演じる子供の姿に過ぎぬ。……着いたぞ」


 チーン、という控えめな電子音とともにドアが開いた。

 最上階のフロアは、廊下全体に厚手の絨毯が敷き詰められ、足音一つ響かない。突き当たりにある『4501号室』の前に、僕たちは立った。


 瑠璃はチャイムを鳴らす代わりに、その小さな拳で、物理的にドアを三回叩いた。

 コン、コン、コン。

 その硬質な音が、静まり返った廊下に異様に大きく響く。


「……どなたですか。こんな時間に」


 インターホン越しに聞こえてきたのは、ひどく疲れ切った、だがどこか虚勢を張ったような男の声だった。

 瑠璃はインターホンのカメラを見つめ、不敵な笑みを浮かべた。


「如月家の者じゃ。佐伯浩介殿とお見受けする。お主に、ある『落とし物』を届けに参った」


 数秒の沈黙の後、カチリというロックの解除音が響き、ドアがゆっくりと開いた。

 現れたのは、タブレットに映っていた顔写真よりも、ずっと老け込んで見える男だった。シャツの襟は乱れ、ネクタイは緩み、その瞳の奥には隠しきれない動揺が泳いでいる。


「如月……家の……? なぜ、私のような者に……。落とし物とは一体」


「これのことじゃ」


 瑠璃は、僕が持っていたあの保存容器を奪い取るようにして、男の目の前に突きつけた。

 透明な容器の中に横たわる、砂まみれの黄金色。

 それを見た瞬間、佐伯の顔から血の気が引いていくのがわかった。彼はまるで見てはいけない呪いの道具を突きつけられたかのように、後ずさりした。


「……っ! それは……」


「これに見覚えがあるはずじゃな。お主が今朝、港の『月見亭』で、自らのプライドと引き換えに手に入れた卵焼き。……なぜこれが、南公園の砂場で野晒しになっていたのか。それを聞きに来た」


 瑠璃は、男の動揺を一切無視して、土足同然の勢いで玄関へと踏み込んだ。


「ちょ、如月さん! 勝手に入るのは――」


 僕が止めるのも聞かず、彼女はリビングへと続く廊下を突き進む。リビングの大きな窓からは、月見坂市の夜景が一望できた。だが、その豪華な空間には、生活の温もりというものが微塵も感じられない。整然と並んだ高級家具は、まるでモデルルームの展示品のようで、そこにあるのは『正解』だけで構成された冷たい静寂だった。


 ソファには、一人の少年が座っていた。

 佐伯翔太(さえき しょうた)くん。

 紺色のベストに白いシャツ。お受験用の模範的な服装のまま、彼は魂が抜けたような目で、消えたテレビの画面を見つめていた。その手元には、銀色のお受験用弁当箱が、口を開けたまま転がっている。


「……翔太、くん?」


 僕が声をかけても、彼は反応しない。

 瑠璃は少年の前に立ち、その弁当箱の中身を覗き込んだ。

 そこには、新市街の高級デパートで購入されたであろう、色鮮やかで、形も整った、だが一口も付けられていない豪華なおかずが並んでいた。

 ただ一つ、本来あるべき『隙間』を残して。


「なるほど、パズルは完成したわ」


 瑠璃は手帳を取り出し、そこにある『空白』を万年筆の先で指した。


「佐伯浩介。お主は息子に、完璧な点数を求めた。だが、息子はプレッシャーで食事も喉を通らなくなった。お主は焦り、かつて自分が苦学生だった頃に唯一の贅沢だった、あの港の弁当屋の味を思い出した。あの味が、今の自分の原動力だと信じ込んでおったからな」


 佐伯は、リビングの壁に背を預け、ずるずると崩れ落ちるように座り込んだ。


「……翔太に、合格してほしかったんだ。この子がこの街で生きていくには、如月学園に入るしかない。あそこの卵焼きを食べれば、あの子も、私のように強くなれると思ったんだ。だから……説明会の身代わりを立ててまで、私は港へ走った」


「だが、お主が持ち帰ったその『愛情』は、この子にとっては毒でしかなかった。……翔太くん。お主がこの卵焼きを砂場に埋めたのか?」


 瑠璃が優しく、だが逃げ場のない声で問いかけると、少年の肩が小さく震えた。

 彼はゆっくりと、瑠璃が差し出した砂まみれの卵焼きに目を向けた。


「……パパは、それを食べれば合格できるって言った。でも、食べたら……もっとパパの期待に応えなきゃいけなくなる。それが怖くて……。公園で、パパの見ていない隙に……捨てようと思った。でも、捨てられなくて……。砂の中に、隠したんだ」


 少年の瞳から涙が溢れ出す。佐伯は顔を覆い、声を殺して泣き始めた。

 エリートコンサルタントとしての仮面は完全に剥がれ落ち、そこにはただ、愛し方を間違えた不器用な父親の姿しかなかった。


「……サクタロウ、お主の役目じゃ。この親子の『不始末』を記録せよ。わしは、他人の涙には興味がない」


 瑠璃は冷たく言い放つと、リビングの窓際に立ち、夜景を見下ろした。

 だが、その瞳は、泣き崩れる親子を見ているのではなく、リビングの隅に置かれた「あるもの」に固定されていた。


 ――そこには、翔太くんが持っているものとは別の、さらにもう一回り小さな『銀色の弁当箱』が、予備のように置かれていた。


「……ふむ。一件落着、というわけにはいかぬようじゃな」


 瑠璃は独り言のように呟き、万年筆で手帳に何かを激しく書き殴った。

 彼女が何に気づいたのか、僕にはまだわからなかった。だが、彼女の視線が、再びあの砂まみれの卵焼きへと戻ったとき、その瞳には解決の安堵ではなく、新たな『獲物』を見つけた猛禽のような鋭い光が宿っていた。


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