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第1話『砂場の卵焼き』 ~Section 4:銀色の社章と、完璧な家庭の亀裂~

 『月見亭』の暖簾(のれん)をくぐり、外へ出た瞬間に僕を待ち受けていたのは、冷徹な現実としての夜風だった。

 港の夜は、新市街のように空調で管理された心地よい温度ではない。潮の匂いが混じった湿った風が、汗で濡れた制服を容赦なく冷やし、僕の体温を奪っていく。

 リムジンのヘッドライトが、港の淀んだ海面を白々と照らし出していた。重油が浮いた水面が、死んだ魚の鱗のように鈍く光っている。その光の中に立つ如月瑠璃は、まるであらゆる『電子機器』を拒絶する壁を纏っているかのようだった。


 彼女は、僕が膝を震わせながら店から這い出してくるのを待つこともなく、手にした『革表紙の分厚い手帳』をめくっていた。万年筆のインクの匂いが、潮風に混じって微かに漂う。彼女はこのデジタル全盛の時代に、指先を汚して紙にペンを走らせることを至上の喜びとする、ある種の『生きた化石』だ。


「サクタロウ。ぼうっとしている暇はない。わしの脳内に蓄積された地図と、今主から聞いた証言を照合した。……さあ、お主の持っているその『光る板』を動かせ。わしの推論に裏付けを与えるのじゃ」


「……光る板って、スマホのことですよね。如月さん、自分で操作したほうが早いんじゃ……」


「黙れ。指先から流れる電流が思考を汚す。わしは、お主という『不器用なインターフェース』を通じてのみ、外の世界のデータに触れると決めておる」


 僕は、ひび割れたママチャリのハンドルに手をかけながら、震える指でスマホを取り出した。サドルに腰を下ろそうとするだけで、先ほどの激走で酷使された大腿直筋が『ピシリ』と音を立てて痙攣し、激痛が脳髄を駆け抜ける。だが、瑠璃の紫色の瞳は、僕の肉体的な限界など一ミリも考慮していない。


「検索せよ。新市街第3ブロック、銀色のピンバッジ、コンサルティング会社。……主が言った『一生に一度の勝負』という言葉から推測するに、ターゲットは今日、如月学園初等部の説明会に出席していたはずの男じゃ」


 僕は彼女の指示に従い、画面をスワイプする。彼女は僕の肩越しに画面を覗き込むことさえしない。僕が読み上げる情報の『音』だけを拾い、脳内の手帳と照らし合わせているのだ。


「……出ました。新市街第3ブロックに本社がある『アーク・コンサルティング』。ここの社章は、銀色の鷲をモチーフにしたピンバッジです。そして、今日の如月学園の説明会……出席者名簿のログをハック、いや、公開情報から照らし合わせると……一人、不自然な動きをしている人物がいます。シニアマネージャーの、佐伯浩介(さえき こうすけ)という男です」


「ほう。その男、なぜ不自然だと?」


「説明会の開始時刻から終了まで、彼のIDは会場のゲートを通過していますが……彼の個人デバイスのGPSログは、なぜかここ、港湾地区を指しています。……つまり、誰かに身代わりを立てて自分はここへ来ていたか、あるいはデバイスだけを誰かに持たせていたか」


 瑠璃は、万年筆の尻で自分の顎を軽く叩いた。彼女が満足げに目を細める。


「佐伯浩介。完璧なキャリア、完璧な家庭、そして完璧な自己管理を売りにする男。……だが、その完璧という皮を一枚剥げば、中から出てくるのはドロドロとした執着じゃな。サクタロウ、その男の住所を特定せよ。おそらく、この街で最も空に近い場所に住んでおるはずじゃ」


「……新市街の最高級タワーマンション『クレスト・スカイタワー』の最上階。ビンゴです」


 瑠璃は、手帳をパチンと閉じると、リムジンのドアを開けさせた。彼女の動きには、一切の迷いがない。


「次はそこへ向かう。サクタロウ、お主はそのまま自転車で、新市街の第3検問所まで先回りせよ。わしのリムジンが到着するまでに、マンション周辺の『人の流れ』と、管理AIが感知せぬ路地裏の状況を把握しておけ」


「……また自転車!? しかも、今度は登り坂ですよ!? 如月さん、僕に死ねって言ってるようなもんですよ!」


「死ぬのは勝手じゃが、真実を暴くまでは許可せぬ。十五分じゃ。一秒でも遅れたら、お主の進路調査票はわしが没収し、その空欄には『一生、わしの情報の奴隷として、名前を呼ぶ権利すら剥奪される』と書き込んでやるからな。……行け、猟犬。お主の流す汗こそが、あの無機質なマンションに隠された『嘘』を炙り出す名脇役となるのじゃ」


 バタン、と重厚なドアが閉まる。

 リムジンの車内は、一瞬で無音の世界へと戻り、V8エンジンの唸りとともに、黒い影は再び加速していった。


 後に残されたのは、排気ガスの匂いと、暗い海に反射する街灯の影、そして絶望に打ちひしがれた僕だけだ。

 僕は震える足でペダルを踏み込んだ。

 下り坂は地獄だった。だが、登り坂はさらなる奈落だった。


 新市街への帰路は、港湾地区の曲がりくねった旧道を抜け、あの地獄のような勾配を、今度は重力に逆らって這い上がらなければならない。

 ママチャリのチェーンが、ガリガリという不快な音を立てて空回りしかける。

 立ち漕ぎをしようとした瞬間、太腿の筋肉が千切れるような悲鳴を上げた。


「……如月さん……! せめて、せめて、牽引ロープ一本くらい貸してくれたっていいだろ……!」


 僕は夜空に向かって叫んだが、返ってくるのは遠くで鳴る自動運転車の走行音だけだ。

 周囲の景色が、少しずつ変わっていく。

 暗いトタン屋根の倉庫群が消え、再び白く輝く新市街の光壁が見えてきた。

 高度なセキュリティに守られた『光の世界』へ戻るには、顔認証と生体情報の登録が不可欠だ。だが、今の僕は、泥と汗にまみれ、顔は苦痛で歪み、およそ『善良な市民』とはかけ離れた外見をしていた。


 ゲートが近づく。

 最新型の警備ドローンが、赤いセンサー光を僕に照射する。


『未確認の低速車両を検知。市民IDの照合を開始します』


 無機質な合成音声が頭上から降り注ぐ。

 僕は必死にスマホをゲートにかざし、許可証を表示させた。瑠璃の意向で僕のデバイスにはあらゆる特権アクセスが付与されているが、それを駆使する僕自身の肉体は、ただのボロボロな高校生だ。


 新市街に入った瞬間、空気が変わった。

 塵一つないアスファルト。完璧に調律された照明。

 その中を、汗だくの高校生が、きしむママチャリを漕いで進む。

 道行く人々の視線が、刃物のように僕を切り刻む。

 彼らにとって、僕は新市街という完璧なキャンバスにこぼれた『墨汁』のようなものだ。


 前方に、天を衝くようなタワーマンションが見えてきた。

 佐伯浩介の自宅。

 あの卵焼きを巡る、最初の犠牲者、あるいは加害者が住む場所だ。


 僕は、マンションの入り口でブレーキを握り、そのまま自転車ごと歩道に倒れ込んだ。

 荒い呼吸が、冷たいタイルに白く染み付く。

 視界がチカチカと点滅する中、目の前に一台の黒いリムジンが滑り込んできた。


 時計を見れば、十四分五十秒。

 地獄のタイムリミットまで、あと十秒。


 ドアが開き、再びあのローファーが姿を現した。

 如月瑠璃は、手帳を胸に抱き、まるで僕などそこにはいないかのようにマンションの威容を見上げ、冷たく笑った。


「お主の集めたデータと、わしの観察眼。……どちらが先に、あの『完璧な父親』の化けの皮を剥ぐか、勝負といこうではないか、サクタロウ」



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