エピローグ:鑑定料は、青春のリボ払いで
事件解決から、ちょうど一週間が過ぎた。
月見坂市は、まるで何事もなかったかのように平穏な夕暮れを迎えている。
不知火湖の騒動は、九条一馬という一人の男の『個人的な不祥事』として処理され、新市街のネオンは今日も変わらず、人工的な光で街を塗り潰そうとしている。
旧校舎の図書室。
カビと古本の匂いが染み付いたこの場所だけが、世界の喧騒から切り離されたように静かだった。
茜色の西日が、埃の舞う空気の中を斜めに差し込んでいる。
僕は、カウンターの隅で、愛用のノートパソコンではなく、無骨な事務用電卓を叩いていた。
液晶画面に表示された数字は、何度計算し直しても、桁が減ることはない。
『負債残高:299,980,000円』
「……はぁ。今月分の労働ノルマ、あと三十時間か……。時給換算すると、最低賃金どころか、コンビニの廃棄弁当の方が高いですよ、これ」
僕は深いため息をつきながら、手元の大学ノートに数字を書き込んだ。
あの湖底での一件以来、僕は正式に――というより強制的に――如月瑠璃の『専属使用人兼クラスメイト』という肩書きを得てしまった。
報酬はない。あるのは、アリアという一人の少女の自由を、如月コンツェルンから買い取った際の、天文学的な借金の返済義務だけだ。
「サクタロウ、手が止まっておるぞ。手が動かぬなら、口ではなく利子を払え」
図書室の奥、革張りの安楽椅子に深く沈み込んだ瑠璃が、紅茶のカップを優雅に傾けながら声をかけてくる。
彼女が読んでいるのは、ミステリー小説でも都市伝説の本でもない。この図書室の蔵書目録と、古い学校の『備品台帳』だ。
「如月さん。利子って何ですか、利子って。僕、トイチの闇金で借りたつもりはないんですけど」
「黙れ。貸し手であるわしがルールじゃ。お主の労働力が鈍れば、その分だけアリアの『維持費』が嵩むのじゃからな」
「維持費って……。彼女の住むマンションも、学費も、全部あなたのポケットマネーでしょう?僕の借金関係あります?」
アリアの住居は、瑠璃が手配したセキュリティ万全のマンション(如月グループ管理)だ。
女性耐性のない僕が一緒に住めるはずもなく、そもそもそんなことになったら僕が過呼吸で死んでしまう。
「……で、その『商品』の様子はどうじゃ?」
瑠璃が台帳から視線を上げずに尋ねる。
僕は、開け放たれた窓の外、グラウンドの方へと目を向けた。放課後の校庭には、部活動に励む生徒たちの声が響いている。
その一角、園芸部の花壇のそばに、見慣れた後ろ姿があった。
真新しい、この高校のブレザーに身を包んだ少女。アリアだ。彼女は、クラスメイトの女子たち数人に囲まれて、何かを話している。ぎこちない手つきでジョウロを持ち、水を撒き、そして――花が咲いたような笑顔を見せた。
「……馴染んでますよ。最初はオドオドしてましたけど、昨日は教室の僕の席まで来て、『数学の先生の鬘がズレていた』って、お腹抱えて報告してきましたから」
もっとも僕は、顔を真っ赤にして「そ、そう……」としか言えなかったけど。
「……フン。平和ボケした顔をしおって。あれだけの修羅場をくぐり抜けたというのに、緊張感のないことじゃ」
瑠璃は鼻で笑ったが、その口元が少しだけ緩んでいるのを、僕は見逃さなかった。
彼女にとっても、アリアという『鑑定品』が日常に溶け込み、ただの高校生として笑っている事実は、決して悪い気分ではないらしい。
「でも、平和でいいじゃないですか。もう、あんな命がけの事件は懲り懲りですよ。僕の心臓と財布が持ちません」
「平和?何を寝言を言っておる」
パタン、と乾いた音がして、瑠璃が備品台帳を閉じた。彼女は立ち上がり、ふらりと書架の方へ歩いていく。
「サクタロウ。お主、この図書室の『構造』に違和感を持ったことはないか?」
「え?構造ですか?まあ、ボロいとは思いますけど……」
「甘いな。わしの目をごまかせると思うてか」
瑠璃は、一番奥にある『郷土史』のコーナーの前で立ち止まった。
そして、並んでいる本ではなく、その上の空間――天井に近い、埃を被った『通気口』を指差した。
「……見よ。あの通気口のカバーじゃ」
「はあ。金網が錆びてますけど、それがどうかしました?」
「違う。金網の『編み目』じゃ」
瑠璃は、ポケットから白手袋を取り出し、装着しながら言った。
「この校舎が建てられたのは昭和初期。当時の通気口は『亀甲金網』が主流じゃ。だが、あそこだけ『溶接金網』……つまり、現代のホームセンターで売っている安いメッシュになっておる」
「修理したんじゃないですか?古いから」
「修理?ならばなぜ、そのメッシュの奥に、これがある?」
瑠璃は近くにあった脚立に登り、その金網の隙間にピンセットを差し込んだ。
引き抜かれたのは、埃にまみれた、しかし色鮮やかな『映画の半券』だった。
「……これ、先月公開されたばかりのアクション映画のチケットですよ。なんでこんな天井裏に?」
「ありえない場所に、ありえないもの。……誰かがここを『出入り口』として使い、その際に落としたのじゃろうな」
瑠璃は、そのチケットを光にかざし、ニヤリと笑った。
その笑顔は、借金取りよりもタチが悪く、そしてどんな名探偵よりも楽しそうだった。
「サクタロウ。この図書室の天井裏に、何者かが『住んで』おるか、あるいは『何か』を持ち込んでおるぞ」
「……え、嘘でしょ……勘弁してくださいよ……」
「さあ、鑑定の時間じゃ。このチケットの持ち主が、どこの誰で、なぜ天井裏などに潜り込む必要があったのか。そのルーツを突き止めるぞ」
彼女は脚立を降りると、僕に懐中電灯を放り投げた。
依頼人などいない。
事件など起きていない。
ただ、そこに『わけのわからないもの』があったから、彼女は動くのだ。
僕たちの『日常』は、まだ始まったばかりだ。
如月瑠璃のノイズ探しは、終わらない。
~如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』 fin~




