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第1話『砂場の卵焼き』 ~Section 3:潮風の弁当屋と、鉄鍋の主~

 暖簾(のれん)をくぐった瞬間、僕の鼻腔を襲ったのは、先ほどまで新市街で嗅いでいた『空調で管理された清潔な無臭』とは対極にある、暴力的なまでの『生活の匂い』だった。

 それは、複数の匂いが幾重にも重なり合い、地層のように積み重なった混沌の香りだ。使い込まれた揚げ油が放つ、どこか重苦しくも食欲をそそる香ばしさ。大量の千切りキャベツから漂う、鼻を突くような青臭い生命力。そして――瑠璃が予言した通り、醤油と出汁の中に潜む、微かなリンゴ酢の爽やかな酸味が、店内の湿った空気に重く溶け込んでいる。

 この街の『表側』では、すべての匂いは脱臭フィルターによって除去されるべき不純物だが、この場所では、その匂いこそが、人々が今日を生き抜いているという何よりの証拠だった。


 店内は、およそ如月コンツェルンの令嬢が立ち入るべき場所ではなかった。

 三人も立てば身動きが取れなくなるほど狭い土間。コンクリートの床は長年の油と水で黒ずみ、滑り止めの役目を果たさないほどに磨り減っている。カウンターの隅には、誰が読み終えたのかも分からない、湿気で端が丸まった数日前の新聞が放り出され、棚の上では、かつては白かったであろう招き猫の置物が、油煙を浴びて茶褐色の埃を被ったまま、所在なげに右手を挙げていた。


 奥の調理場には、一人の男がいた。

 白髪混じりの短髪を、汚れの目立つタオルで無造作に巻き、丸太のような腕で巨大な鉄のフライパンを振っている。男の背中は岩のように頑強で、そこから立ち上る熱気は、店内の温度を数度引き上げているかのようだった。

 彼は、無造作に、だが恐ろしく精密なリズムでフライパンを煽っていた。カチャカチャと金属が触れ合う音が、まるでメトロノームのように正確に店内に響き渡る。


「……いらっしゃい。悪いが、今日はもう仕舞いだ。おかずも米も、さっきの客で最後になっちまった」


 男は顔を上げることなく、低く、地響きのような声で告げた。

 彼の手元では、最後のひと盛りであろうコロッケが、泡立つ油の中でパチパチと爆ぜながら、見事なきつね色に輝いている。その音さえも、この男の支配下にある楽器の演奏のように聞こえた。


 僕は思わず、隣に立つ瑠璃の横顔を盗み見た。

 最新のスマートレストランであれば、彼女が姿を現した瞬間に支配人が血相を変えて飛んできて、最高級のVIPルームへと傅いて案内されるだろう。だが、この『月見亭』という名の聖域において、『如月』という名は、何の意味も持たない。

 しかし、瑠璃は怯むどころか、むしろ歓迎すべき敵地へ乗り込んだ征服者のように、その紫色の瞳を爛々と輝かせた。彼女の小さな鼻が、店内の匂いを丁寧に分別するように、わずかにひくつく。


「ふむ、終わりか。それは重畳(ちょうじょう)。客が一人もおらぬのなら、存分に話が聞けるというものじゃ」


 瑠璃はそう言うと、一歩も汚れのない、鏡のように磨き上げられたローファーで、油の染みたコンクリートを遠慮なく鳴らした。

 彼女は、あの『砂まみれの卵焼き』が入った保存容器を、まるで国宝を献上する使者のようにうやうやしくカウンターの上に置いた。


(あるじ)よ。わしはこの街の管理網から漏れた、ある『迷い子』の故郷を捜しておる。お主に問いたい。この卵焼きに見覚えはないか?」


 店主の手が、ぴたりと止まった。

 油の跳ねる音が一段と大きく聞こえる。彼はゆっくりと鉄鍋を火から下ろし、使い古したタオルで無骨な手を拭いながら、カウンターへと歩み寄ってきた。

 彼が近づくにつれ、立ち上る熱気と汗の匂いが、僕の身体を圧迫する。男の鋭い眼光が、透明な容器の中の『無残な塊』を捉えた。


「……なんだ、こりゃ。ゴミか? うちはゴミ捨て場じゃねえんだ。捨てたいなら新市街の自動回収ボックスにでも持っていきな」


「ゴミではない。これは物語の欠片じゃ。主よ、よく見よ。この焦げ目のグラデーション。そして、わずかに層が不均一なのは、箸の入れ方に一瞬の迷いがあった証拠。だが、この味、この出汁の配合は隠せんぞ。カツオ節の厚削りと利尻昆布の比率、そして隠し味に使用されている、リンゴを皮ごと漬け込んだ自家製のリンゴ酢……。わしの舌によれば、これを生み出したのは、この街にただ一人。お主以外には考えられんのじゃが?」


 瑠璃がまくし立てるように告げると、店主の眉がわずかに動いた。

 彼は無言で容器を手に取り、蓋を開けた。

 一秒、二秒……。

 店内に流れる、ノイズ混じりの古いラジオのニュースが、やけに大きく聞こえる。サクタロウは、その静寂が怖くて、自分の心臓の鼓動が店主に漏れ聞こえてしまうのではないかと、必死に息を止めていた。


「……確かに、うちの卵焼きだ。リンゴ酢の隠し味まで当てるとは、見かけによらず大した舌をしてやがるな、お嬢ちゃん」


 店主は感心したように呟いたが、すぐにその顔を、職人特有の険しい怒りへと歪めた。


「だが、どうしてそれをそんな砂まみれにして持ってきた? うちの弁当は、この辺の港湾労働者や、古くから住んでる連中の大事な活力源なんだ。心を込めて焼いたもんを、道端に放り出すような真似をされたんじゃ、こっちは商売あがったりだ。食い物を粗末にする奴に、教えることなど何もねえ。帰んな」


「待て。捨てられたのではない。これは『落とされた』のじゃ。それも、南公園の砂場の、幾何学的な中心地点にな。わしが知りたいのは、今日、この卵焼きが入った弁当を誰に売ったかではない。この卵焼きが、なぜ『単品』でそこに存在したのかということじゃ。主よ、お主の店では、卵焼きだけをバラで売るような、野暮な真似はしておらんはずじゃろう?」


 店主は、カウンターの下に隠したタバコの箱を弄りながら、黙り込んだ。

 彼は視線を外し、壁にかけられた、何年も使い込まれて油で半透明になった手書きの注文表に目を向けた。


「……ああ、そうだ。うちは弁当屋だ。おかずをバラで売るなんてことは、効率が悪くてやってられねえ。だが……」


 店主が言葉を濁した瞬間、瑠璃の瞳が、獲物を捕らえた猛禽のように鋭く光った。


「だが、何だ? 言え。その言葉の続きに、わしが求める『意志あるノイズ』が潜んでおるはずじゃ」


「……今日、一つだけ、妙な注文があった。常連でもなけりゃ、この辺の住人でもねえ。ピカピカに磨き上げられた新市街の高級車を、わざわざこんな小汚い裏路地に停めてやってきた、場違いな男だ。襟元に、小さな銀色のピンバッジがついてた。確か……新市街にある、有名なコンサル会社の社章だ」


 店主の話によれば、その男はメニューも見ずに『最高の卵焼きを、六つ切りで一パック分作れ』と、通常の弁当代の数倍の現金を置いていったという。


「うちはそんな注文受けねえって断ったんだが、男があまりに必死な顔をしてやがってな。『子供の、一生に一度の勝負がかかっているんだ。あの子には、ここの味が一番の力になるんだ』なんて言われたら、こっちも鬼じゃねえ。……特別に焼いてやったよ。お受験か何か知らねえが、合格祈願のゲン担ぎに、うちの卵焼きが欲しいんだってよ」


 サクタロウは思わず身を乗り出した。


「お受験……。南公園の近くには、確かこの街で一番偏差値の高い小学校、如月学園の初等部がありますよね」


「左様。わが如月コンツェルンが運営する、未来のエリート養成所じゃな」


 瑠璃は冷徹に、かつ深い軽蔑を込めて頷いた。


「なるほど、見えてきたぞ。名門校への切符、親の期待、そして……それらすべてを砂場に叩きつけた『何か』。主よ、その男は弁当を受け取るとき、どんな様子だった?」


「……手が震えてやがった。期待に胸を膨らませているというよりは、何かに追い詰められているような、そんな震えだ。あんな顔をして食う卵焼きが、本当に子供の力になるのかねえ……」


「ふむ、興味深い。実に興味深いぞ、サクタロウ! 期待、プレッシャー、あるいは――取り返しのつかない嘘。それらすべてが凝縮されたのが、あの砂まみれの黄金色というわけか」


 瑠璃はそう言うと、再び風のように身を翻した。


「主よ、礼を言う。お主の焼いた卵焼きは、砂にまみれてなお、強い意志を放っておった。それが誰の絶望に変わったのか、わしが見届けてやろう。お主の職人魂を汚したのは誰か、この如月瑠璃が暴いてやる」


 彼女は再び暖簾をくぐり、港の夕闇へと消えていく。彼女の足取りは、事件の真相を捉えた確信に満ちて、より一層速くなっていた。

 後に残されたのは、僕の疲弊しきった体と、店主がポツリと漏らした一言だった。


「……あんな目をしたガキは、この街にはもういねえと思ってたんだがな。まるで、戦時中の生き残りみたいな、ギラついた目をしてやがる」


 僕は慌てて店主に向かって頭を下げると、外で再びアイドリングを始めたリムジンへと駆け出した。

 新市街の『お受験』という光り輝く物語の裏側に、このドロドロとした旧市街の卵焼きが、どうして投げ込まれたのか。

 その謎の入り口に、僕たちは立っていた。



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