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第1巻:如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『忘却の残響』 ~Section 7:没落の肖像画と、三番目の足跡~

 新市街の北端、空を切り裂くようにそびえ立つ全面ガラス張りの摩天楼。『S-Musicコーポレーション』の本社ビルは、管理社会における『成功』の象徴そのものだった。

 かつての老舗『Satsuki-classic』を汚職という名の劇薬で強制解体し、その残滓からPOPSやロックといった『効率的に消費される音楽』へと舵を切ったこの会社は、新市街の若者たちの薄っぺらな欲望を完璧にパッケージングしている。

 僕と瑠璃は、地下回廊の泥を落とし、如月家令嬢としての『公的な顔』を纏って、その最上階にある役員室の前に立っていた。ここには旧市街のような泥の匂いはないが、代わりに鼻を突くのは、高級なルームフレグランスと、過剰に濾過された無機質な酸素の匂い。それが逆に、僕の肺を不快に圧迫した。


「……ふむ。……かつての高潔な弦楽器の響きを捨て、安っぽい電子音の波に溺れるとはな。……このビルの空気に混ざる香水の匂いさえも、わしの鼻には、死を隠蔽するために塗りたくられた防腐剤の臭気と同じに感じられるわ。……サクタロウ、お主、鼻を摘まんでいろ。この部屋の空気は『欺瞞』という名の毒じゃ」


 瑠璃は、受付のドローンを鋭い視線だけで一喝し、認証を待たずに重厚な自動扉を突き進んだ。

 部屋の奥、広大な全面窓から新市街のパノラマを背に座っていたのは、優奈の面影をどこか冷淡に、そして卑屈に引き継いだ青年――皐月龍也(さつき りゅうや)だった。

 彼は、僕たちの突然の訪問にも眉ひとつ動かさず、デスクに投影されたホログラムの収支表を無造作に消すと、僕のことなど存在しないかのように瑠璃だけを見据えた。その瞳には、かつての音楽家一族としての誇りは微塵も残っておらず、ただ『如月の名』を恐れる実業家の顔があった。


「……如月瑠璃さん。……如月コンツェルンのご令嬢が、我が社の不純な空気を吸いに来るとは珍しい。……いや、今は亡き妹の『命日』が近いからかな?それとも、そこの……君が連れている、その薄汚れた『荷物持ち』が、何か私の落ち度でも見つけたのかね?」


「……龍也。お主にしおらしい追悼の心など欠片もないことは、そのネクタイの締め方を見れば明白じゃ。お主が愛しておるのは優奈ではなく、彼女の死と引き換えに手に入れた、その安っぽい合皮の椅子じゃろう。……お主、優奈を殺した相手が誰か、とうの昔に気づいておったな?己の地位を守るために、その真実を五線譜の裏に塗り潰したのじゃろう」


 瑠璃の言葉が、部屋の空気を一瞬にして凍りつかせた。

 龍也は、ゆっくりと立ち上がり、壁に掛けられた一枚の大きな絵画の前で立ち止まった。それは、かつての『Satsuki-classic』時代の優奈と、まだ幼い瑠璃が共にピアノの前に座っている肖像画だった。

 しかし、その絵画の右下、不自然に色が塗り潰された箇所に、僕は言いようのない違和感を覚えた。不自然に厚塗りされた油絵具の層が、そこにあったはずの『何か』を無理やり消し去っている。


「……如月さん、あの絵……。あそこに、誰かもう一人、描かれていた跡があります。筆の運びがそこだけ不規則で、何かを急いで隠そうとしたみたいだ」


「……気づいたか、サクタロウ。……お主のような凡庸な目が気づくほど、その修正は『不純』な隠蔽に満ちておる。……龍也、お主が隠し持っておった『三番目の遺品』。……それを今すぐ出せ。……電話ボックスに置かれておったあの靴下は、単なるペアではない。……あの日、不知火湖のほとりには、優奈とわしの他にもう一人、誰かにおもねるための『足跡』が存在したはずじゃ。それを知っておるのは、遺品を整理したお主だけじゃろう」


 龍也の顔から、営業用の笑みが剥がれ落ちた。

 彼は無言でデスクの引き出しの奥から、古い、色褪せた一枚のモノクロ写真を取り出した。それは、七年前の優奈の葬儀の際に撮られたものだった。

 参列者の群れの中に、一人だけ、周囲とは明らかに異質な、顔を深く伏せた少女が写っている。

 そしてその少女の足元には、あの『片方だけの靴下』と同じ編み目をした、三つ目の、真っ赤な靴下が映り込んでいた。


「……如月さん、この子は誰なんですか?皐月家の親戚……?なぜ一人だけ、こんな真っ赤な靴下を……」


「……違うよ。……その子は、皐月家が没落する際、如月コンツェルンが『保険』として送り込んだ、優奈の予備(スペア)だ。……僕たちは、彼女をそう呼んでいた。妹の代わりを演じるための、生きた楽器としてね」


 龍也の声は、絶望を通り越して、ある種の諦観に満ちていた。


「……如月グループは、皐月家の音楽的才能を抽出するために、優奈の遺伝子をベースにした『模造品(レプリカ)』を密かに育成していた。……九条一馬が主導した、マインド・コピー計画の初期被検体。……その子の名は、アリア。優奈という本物が壊れた時、代わりに旋律を奏でるために用意された、声を持たぬ人形だ」


「模造品……!?人間のコピーを作るなんて、そんなこと……。そんなの、人間をなんだと思ってるんだ!音楽家の一族が、そんなことを許したんですか!」


「……サクタロウ、お主、まだこの街の『純粋さ』を信じておるのか。……この月見坂市において、才能とは管理されるべきリソース、あるいは再利用可能なデータに過ぎぬ。……優奈が不知火湖で見た『秘密』とは、自分の姿を模した人形が、地下の培養槽で冷たい液に浸かって眠っている光景だったのじゃよ。彼女はその時、自分が『唯一無二』ではないことを突きつけられたのじゃ」


 瑠璃の声は、氷よりも冷たく、しかし怒りに震えていた。

 龍也は、震える手で写真の裏側を指差した。そこには、新市街の住所ではない、旧市街の廃墟となった『音楽ホール』の地下室の座標が、優奈ではない、もっと稚拙な、しかし必死な筆跡で記されていた。


「……その『アリア』という子が、昨日、僕の部屋にこの写真を届けてきたんだ。……彼女は、自分が消去されることを恐れている。……管理AIが、優奈の情報を完全に抹消し、予備である彼女の存在理由を無くそうとしているからだ。……如月さん、あの日、優奈は死ぬ間際、その子を逃がそうとしたんだよ。自分を模した不純物を、あろうことか『妹』として救おうとしたんだ」


「……優奈が、自分を模した不純物を、救おうとしたと?愚かな……。だが、いかにも彼女らしい不合理な選択じゃな。自らの命と引き換えに、偽物の未来を守ったというわけか」


 その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の瞳に、はっきりとした激しい感情が溢れ出した。

 彼女は、龍也の手から写真をひったくると、僕を振り返ることなく部屋を飛び出した。


 エレベーターを降りる間、瑠璃は一言も発さなかった。

 ただ、彼女が握りしめた写真が、その指の力でくしゃくしゃに歪んでいく。その震えは、彼女がこれまで見てきたどんな不条理よりも、この『模造品』という真実が彼女を深く傷つけていることを示していた。


「……如月さん。その『アリア』って子……本当に、優奈さんとそっくりなんでしょうか。それとも、やっぱりどこか偽物っぽさが……」


「……わかっている。……あの龍也が示した座標。……そこは、わしと優奈が初めて合奏した、旧市街の『カノン音楽堂』の地下室じゃ。……お主、覚悟せよ。……これからわしたちが対峙するのは、優奈の幽霊ではない。……優奈という太陽を奪われ、誰にも知られぬ暗渠で七年間生き長らえてきた、悲しき『欠陥品』じゃ。……わしが、この手で審判を下さねばならぬ」


 僕たちは、新市街の眩しすぎるネオンを背に、再び影の濃い旧市街へと、全速力で走り出した。


 S-Musicビルのロビー。

 僕たちの後姿を見送る監視ドローンの赤い光が、まるで血のように不気味に明滅していた。そしてそのドローンの通信記録の端には、九条一馬の承認スタンプが、静かに、しかし冷酷に刻まれていた。

 『最初の種』が、優奈の遺伝子データ、あるいは彼女の魂を模した『人』を指していたのだとしたら、如月コンツェルンが隠蔽しようとしたのは、単なる汚職ではなく、この街全体を『偽物の才能』で埋め尽くそうとする、神の領域への冒涜だったのだ。


 三番目の足跡を追い、僕たちは優奈が遺した『最後の譜面』が鳴り響く、あの崩れかけた音楽堂へと辿り着く。


 そこには、一足の赤い靴下を履いた、優奈と瓜二つの顔をした少女が、月光の下で、音の出ない鍵盤を叩き、静寂のピアノを弾き続けていた。

 その背中越しに、瑠璃が静かに、しかし魂を削るような声で呟いた。


「……見つけたぞ、わしの『不純な妹』よ」



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