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第1話『砂場の卵焼き』 ~Section 2:ママチャリの咆哮と、十五分の限界点~

 『機動力という名の特権』――。

 校門の裏で僕を待っていたその『特権』は、控えめに言っても、如月コンツェルンの令嬢が他人に与えていい代物ではなかった。


 銀色の塗装は至る所が剥げ落ち、泥除けにはいつのものか分からない乾いた泥がこびりついている。ハンドルを握れば、安っぽいゴムのグリップが経年劣化でベタつき、僕の手のひらに不快な拒絶の感触を伝えてくる。

 サドルに跨がると、カチカチに硬くなった合皮が、僕の尻に容赦ない衝撃を予感させた。

 この街、月見坂市の表通りで見かけるのは、すべてが流線形のボディを持つ最新の電動モビリティだ。それに引き換え、この鉄の塊はどうだ。漕げば漕ぐほど乗り手の寿命を削り、関節を摩耗させるために設計された拷問器具にしか見えない。


「……やるしかないんだな。やるしかないんだ」


 僕は自分に言い聞かせるように呟くと、ペダルに全体重を乗せた。

 ギィィ……。

 油の切れたチェーンが悲鳴を上げ、後輪が重々しく回転を始める。


 旧校舎から新市街へと続く道は、月見坂市でも指折りの急勾配だ。

 通常、この坂を利用する数少ない生徒たちは、如月コンツェルンが提供する最新の電動キックボードか、完全予約制の自動運転スクールバスを利用する。重力に逆らわず、汗もかかず、エアコンの効いた車内でスマートウォッチを眺めながら優雅に下るのが、この街における『正しい高校生』の姿だ。

 だが今の僕は、そのすべてのスマートさから切り離されている。


 加速が始まった。

 重力に引かれ、ママチャリはみるみる速度を上げていく。

 ひび割れたアスファルトの段差をタイヤが拾うたびに、細いフレームが折れんばかりにしなり、その振動がダイレクトに脳天を突き抜ける。ブレーキを軽く握ってみたが、『キィィィィン!』という、まるで猛禽類が断末魔を上げているような金属音が響くだけで、速度は一向に落ちる気配がない。


「ひ、ひぃぃ……止まらない! 止まれない!」


 視界が開け、眼下には宝石を散りばめたような月見坂市の全景が広がった。

 如月コンツェルンが築き上げた、完璧な光の幾何学模様。超高層ビルの窓から漏れる青白い光と、磁気浮上式の車両が描く音のない光の帯。その美しさに息を呑む余裕など、今の僕には一秒もなかった。


 前方、新市街の入り口となる巨大な交差点が迫る。

 ここは二十四時間、高度な交通管理AI『アルテミス』によってすべての車両と歩行者がミリ秒単位で制御されている。信号待ちという概念さえ効率化されたこの場所に、ブレーキの壊れかけた中古自転車で突っ込むのは、精密機械の歯車の中に砂利を放り込むような暴挙だ。


「どいてくれええええ!」


 僕の絶叫が、防音ガラスに囲まれた街に木霊した。

 交差点のセンサーが、北側斜面から時速四十キロを越える速度で接近する『未確認の移動物体』を検知する。

 瞬時に、周囲を走っていた数十台の自動運転タクシーが、乗客にGを感じさせない滑らかさで一斉に減速。歩行者用の信号が不自然なタイミングで青から赤に変わり、僕の進路に『安全な空白』が作り出された。


 AIによって無理やり開かれたモーセの海のような道を、僕は目を剥きながら突き抜けた。


 ガラス張りのカフェで、完璧に温度管理されたコーヒーを啜っていたビジネスマンたちが、驚愕の表情でその光景を見送る。

 彼らの網膜には、汗だくになり、必死の形相でハンドルにかじりつき、悲鳴を上げながら通り過ぎる『前世紀の遺物』が焼き付いたことだろう。

 清潔で、静かで、すべてが予測可能なこの街において、僕の存在はあまりにも不純な、そして暴力的な『ノイズ』そのものだった。


(如月……いや、瑠璃さん……!)


 心の中で、初めて彼女を名前で呼んでみた。

 だが、すぐに後悔が押し寄せる。口に出す勇気などこれっぽっちもない。

 如月瑠璃。

 彼女は僕に『瑠璃と呼んでいい』と言った。それは彼女なりの歩み寄りだったのかもしれない。だが、女の子に耐性のない僕にとって、その行為は自身の生存戦略を根底から覆す行為だ。

 僕のような凡人が、如月家の至宝を名前で呼ぶ。そんな傲慢な真似をすれば、この街の完璧な秩序が、文字通り僕を『排除』しにかかるのではないかという、本能的な恐怖がある。だから僕は、防壁のように『如月さん』という呼び方にしがみついているのだ。


 新市街の整然とした大通りを抜けると、空気の質がガラリと変わった。

 最新の空気清浄システムが届かない境界線を越えた瞬間、街灯の色が白からオレンジ色のナトリウムランプへと変わった。再開発の波が意図的に止められた『旧市街』――港湾地区だ。


 道は急激に狭くなり、路面状況はさらに悪化する。

 潮風に晒されてボロボロになったトタン屋根の倉庫、出所の分からないスクラップが山積みされた空き地。新市街のきらびやかなホログラムは、ここでは遠い星の光のようにかすんで見える。


 僕の脚は、すでに限界を越えていた。

 太腿の筋肉は熱を持ち、心臓は肋骨を内側から叩き壊さんばかりに激しく鼓動している。

 喉の奥は焼けるように熱く、呼吸をするたびに血の味がした。


「あと……三分……」


 手首の安い腕時計に目をやる余裕はない。だが、体感的な時間は無慈悲に過ぎ去っていく。

 十五分という期限。

 もし間に合わなければ、僕の進路希望調査票は彼女の手によって『地下農場の強制労働』へと書き換えられる。

 そんな馬鹿な、と思うだろう。だが、如月瑠璃という少女は、自分の知的好奇心を満たすためなら、国家のデータベースにさえハッキングしかねない危うさを持っていることを、僕は直感していた。


 路地の奥から、潮の匂いが強くなってきた。

 それと同時に、磯臭さに混じって、確かに『あの匂い』が漂ってくる。

 甘辛い醤油、濃厚な出汁、そして微かなリンゴ酢の爽やかさ。


 暗い港の岸壁を背に、ぽつんと明かりを灯す一軒の店舗が見えてきた。

 色褪せた暖簾には、かろうじて読み取れる力強い文字で『月見亭』と書かれている。

 その前に、場違いなほど優雅に、かつ傲慢なほど優雅に停車する黒塗りのリムジン。


「……着い……た……」


 僕は最後の力を振り絞ってブレーキを握った。

 今度は、あの猛禽類のような音はしなかった。ただ、使い古されたブレーキシューがアスファルトの上を滑り、タイヤが白煙を上げた。


 僕は自転車を止めるのと同時に、支える力もなくそのまま地面へと崩れ落ちた。

 ひび割れたアスファルトの冷たさが、火照った頬に心地いい。

 荒い呼吸を繰り返しながら顔を上げると、リムジンの後部座席のドアが、重厚な音を立てて開いた。


 降りてきたのは、汚れ一つない、鏡のように磨き上げられた黒いローファー。

 そして、夕風にその黒髪をなびかせた如月瑠璃だった。


 「十四分三十二秒。……ふむ、合格じゃ、サクタロウ。お主の脚は、案外と実戦向きのようだな。泥を啜りながら走る姿、見苦しくも美しかったぞ」


 彼女は金色の懐中時計をパチンと閉じると、地面に這いつくばっている僕を一瞥し、不敵な笑みを浮かべた。

 彼女は僕に手を差し伸べることもなく、その視線を『月見亭』の暖簾へと向けた。


 「さあ、案内せよ、サクタロウ。わしは待つのが嫌いだと言ったはずじゃ。この『黄金の迷い子』の故郷を暴き、その裏に隠された真実を、わしの手で引き摺り出してやる」


 僕は、震える足で立ち上がった。

 全身の関節が悲鳴を上げ、膝が笑っている。だが、彼女の瞳に宿る、あの底知れない好奇心の炎を前にすると、逃げ出すことさえ許されないような気がした。


 これが、僕と「如月さん」による、最初で最悪の捜査の幕開けだった。

 僕は歪んだ前カゴを一度だけ叩き、彼女の背中を追って、暖簾をくぐった。



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