第3話『偽りの星空』 ~Section 10:魚魚なる祝祭と、芯のない日常~
昨夜の、あの湿り気を帯びた狂気と鉄錆の廃工場が、まるで悪い夢だったかのように、月見坂市の朝は眩いほどの人工的な光に包まれていた。
旧市街の隅に位置するライブハウス『アンダーウォーター』の前には、開演の数時間前から、色とりどりの推しTシャツに身を足した『戦士たち』が列をなしている。新市街の管理AIが『生産性のない熱狂』として眉をひそめ、ドローンの巡回ルートから意図的に外しているような、熱苦しくも純粋な空間。そこには、昨夜のブラックアウトも、時計塔の崩落も、もはや誰も覚えていないかのように、いや、そんな日常の綻びを焼き尽くすかのような活気が溢れていた。
「……よかった。本当に、本当によかった……っ」
僕は、ライブハウスの入り口の、年季の入った看板を見上げ、溢れそうになる涙を必死で堪えていた。看板には、スタッフが書いたのであろう『GyoGyoっとラブ ワンマンライブ! 〜荒波を越えて、君に届け〜』という力強い手書きの文字が躍っている。
あの砂場の卵焼きから始まり、日付のズレたジャムの瓶、空を指し続けた時計塔の悲しい人形、そして芯にリップを隠したトイレットペーパーという名の狂気。如月瑠璃という嵐に翻弄され続けたこの数日間の『不純物』たちが、僕の脳内で一つの走馬灯のように駆け抜けていく。それらすべては、今、このステージの幕が上がる瞬間のためにあったのだと、僕は勝手に自分を納得させていた。
「……サク、泣くのはまだ早いぜ。伝説のライブはこれから始まるんだからな。ほら、鼻を啜るな、鼻を。魚るぞ、おい」
隣で、新市街のモデル事務所のスカウトマンが泣いて喜びそうな完璧なスタイルで、魚魚ラブ限定Tシャツ(ビビッドなピンク色)を完璧に着こなしている大輔が、不敵な笑みで僕の肩を強く叩いた。彼の瞳には、昨夜山代を組み伏せた時の鋭さはなく、ただ純粋な一人のファンとしての期待が満ちている。
反対側では、慎之介が『山ちゃん』特製の、魚のすり身を練り込んだ揚げパンを両頬いっぱいに詰め込みながら、スマホの画面で最新のセットリスト予想スレッドを熱心にチェックしていた。
「……むぐ、むぐ……サクの言う通りだよ。僕のハッキング……じゃなくて高度な検索によれば、さやかちゃんの衣装、事務所の人が必死で夜通しクリーニングしたらしいからね。最高の状態で出てくるはずだよ。……さあ、行こう、僕たちの『聖域』へ!」
僕たちは、誇らしげに、そして聖遺物でも扱うかのようにチケットを提示し、重厚な防音扉を開けてライブハウスの内部へと足を踏み入れた。
ライブが始まった瞬間、世界からすべての『ノイズ』が消失した。
重低音が心臓を直接叩き、サイリウムの光の海が視界を埋め尽くす。ステージ中央、スモークの中からスポットライトを浴びて現れた箱崎彩華――さやかちゃんの姿は、昨夜、僕が泥にまみれ、如月瑠璃という調律師の手を借りて守り抜いた、あの純白のステージ衣装に包まれていた。
彼女がくるりと回るたびに、繊細なレースの裾が、海を泳ぐ魚の鱗のように美しく舞う。そこにはもう、あの山代が執着という名の樹脂で塗り固めようとした、ストロベリーの毒々しい香料の匂いも、不純な汚れも一切残っていない。ただ、彼女が懸命に踊り、流す本物の汗と、僕たちの絶叫が混ざり合った、この場所でしか味わえない『生きた熱量』が満ちていた。
彼女の笑顔は、新市街の巨大なホログラム広告が描く『完璧に設計された幸福』よりも、ずっと、ずっと泥臭く、そして眩しかった。僕は、自分の喉が引き千切れるのも忘れて、彼女の名前を叫び続けた。昨夜の恐怖も、将来の不安も、この瞬間の熱狂の前では、一バイトの価値もないデータの塵に過ぎなかった。
――さやかちゃぁぁぁん!! 魚ってるよ、最高に魚ってるよぉぉぉ!!
その時。
ライブハウスの最後列。スピーカーの爆音を避けるように壁際に立ち、明らかにこの『不純な祝祭』に馴染んでいない、凛とした立ち姿の少女が一人。
如月瑠璃だ。
彼女は、如月学園の制服の上から漆黒のコートを羽織り、耳には周囲の騒音を完全にシャットアウトする、如月コンツェルン製の特注ノイズキャンセリング・ヘッドフォンを装着して、ステージを冷めた、鑑定士のような目で見つめていた。
彼女の手元には、事務所の上層部から『此度の不祥事の解決に対する謝礼』として渡されたであろう、最高級の限定グッズセットと、次回のプレミアムライブの最前列招待券、さらには非売品のメモリアルフォトブックが無造作に抱えられている。新市街の令嬢にとって、それは興味の対象外である『データの残滓』に過ぎないようだった。
僕はライブの合間、暗転した隙を狙ってドリンクカウンターへ向かうフリをし、彼女の元へ駆け寄った。
「……如月さん!本当に来てくれたんですね!さやかちゃん、見てください!昨夜の出来事なんて微塵も感じさせない、最高のパフォーマンスですよ!」
僕が興奮で鼻息を荒くして話しかけると、瑠璃はヘッドフォンを片方だけ外し、氷点下の冷たさを孕んだ視線を僕に向けた。
「……サクタロウ。お主のその不快なまでの発汗量と、知性を著しく欠いた咆哮。……やはり、この場所はわしの高貴な五感にとっては『物理的な暴力』以外の何物でもないな。……この衣装、わしの調律と、お主の無駄な足掻きによって救われたというのに。この娘は感謝の一言も、わしの銀の匙に相応しい真に不可解な献上品も用意しておらぬ。ただ踊るだけとは、芸のないことじゃ」
「あはは……。まあ、さやかちゃんは如月さんの正体、知りませんから。……でも、本当に、本当にありがとうございました。マネージャーの山代、今朝のニュースで『健康上の理由で辞任』って、新市街らしい綺麗な言葉で処理されてました。如月さんの手回しのおかげですよね」
「……。……興味はない。……わしが興味を抱いたのは、あの『芯にリップが挟まったトイレットペーパー』という、管理社会が産み落とした不条理な卵、その一点のみじゃ。……その殻が割れ、中から醜い執着という名の黄身が漏れ出したのを見届けた以上、この喧騒の中に身を置く理由は一バイトも残っておらぬ」
瑠璃は、抱えていた豪華なグッズセット――数万円はくだらないであろう限定品やポスターの束を、まるで『処分に困る粗大ゴミ』を押し付けるかのような無造作な手つきで、僕の胸にドサリと積み上げた。
「……な、なんですか、これ。まさか、全部僕に……?」
「……わしの部屋に、このような不純な色彩を持ち込むことは許さぬ。お主のような、頭の中がイチゴジャムの糖分とアイドルのダンスステップで満たされておる、救いようのない空洞の持ち主にこそ、相応しいガラクタであろう。……大切に、そのカビ臭い自室の祭壇にでも飾るが良い。わしの『慈悲』を形にしたものだと思ってな」
「……如月さん。……これ、さやかちゃんの直筆サイン入りポスターと、限定ボイスメッセージ入りの特注ぬいぐるみ、それに全メンバーの生写真セットですよ!? プレミアがついてて、ファンなら喉から手が出るほど……。僕、一生如月さんについていきますよ!」
「……不快じゃな、その涎混じりの忠誠心は。……帰るぞ、サクタロウ。……これ以上、この脂ぎった人間の情念が蒸発した空気の中に身を置いては、わしの『最適解』という名の調律が狂ってしまう。……明日の放課後、図書室へ来い。……お主の進路調査票の余白、また新たな『不純な役職』を書き加えねばならぬからのう」
瑠璃は、僕の感動の言葉を待つこともなく、優雅に、しかし冷酷に背を向けた。
彼女が去った後には、新市街の高級なインクの香りと、冬の静寂の余韻だけが、爆音のライブハウスの中で奇妙に浮き上がって残されていた。
僕は、胸に抱えられた『夢と熱狂の詰まったガラクタ』を、壊れ物を扱うように、しかし全世界の何よりも価値のある宝物として強く抱きしめた。ライブの後半戦が始まり、ステージではさやかちゃんが一番の笑顔を僕たちの方向に向けてくれた――気がした。
「……。……やっぱり、あの人は、どこまでも如月瑠璃だな」
僕は苦笑いしながら、再びステージの光の渦へと向き直った。
アンコールの曲が始まり、全力の「魚魚コール」が響き渡る。
月見坂市の、完璧に管理された社会。
そこから零れ落ちた、砂場の卵焼き、不条理なジャムの瓶、天頂を指し続けた時計塔の人形、そして狂気のマネージャーが作った、白く虚しいトイレットペーパーの繭。
僕たちは、いつだって『無価値なゴミ』と『至高の宝物』の境界線で、危ういダンスを踊り続けている。
でも、もしその境界線がなくなってしまったら。
すべてがAIの計算通り、汚れない『正解』だけで満たされた、真っ白で清潔な世界になってしまったら。
それはきっと、死ぬほど退屈で、星一つ見えない、あのブラックアウトした夜よりも暗い世界だろう。
「……さあ、明日も、不純で最高な一日を始めよう」
僕は、ライブハウスの爆音と熱気の中に、自分の声を全力で解き放った
月見坂市の空に、本物の星は見えない。
けれど、僕の手には今、確かに熱を帯びた、重たくて愛おしい『明日への重石』が握られていた。




