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第3話『偽りの星空』 ~Section 9:繭の解体と、ストロベリーの毒~

 旧式のプレス機が、巨大な鉄の肺のように『シュゥゥゥ……』と不気味な蒸気を吐き出し、倉庫内の湿度は限界まで跳ね上がっていた。

 視界が白く濁る中、山代マネージャーの影が、積み上げられたトイレットペーパーの山を背に、ゆらゆらと不規則に揺れている。その手には、僕たちのさやかちゃんが明日、数千人のファンの前で輝くために用意された、純白のステージ衣装が握りしめられていた。


「……来るな!一歩でも近づいたら、この衣装をプレス機に放り込む!そうすれば、明日のライブは中止だ。……さやかちゃんは、汚れたステージに立たなくて済む。誰の視線にも晒されず、僕の作ったこの『白い繭』の中で、永遠の処女(おとめ)として保存されるんだ……!」


 山代の声は、歓喜と絶望が入り混じった、壊れた楽器のような音を立てていた。

 僕は、足元の瓦礫を踏みしめ、一歩を踏み出そうとした。だが、その足は、背後から突き刺さるような冷気――如月瑠璃の放つ、絶対的な威圧感によって縫い止められた。


「……サクタロウ。……下がっていろと言ったはずじゃ。お主のその直情的な熱量は、今のこの空間においては、山代の狂気を加速させるだけの『質の悪い燃料』に過ぎぬ」


 瑠璃は、僕の肩を細い指先で軽く押し退けると、優雅に、しかし氷のような殺気を孕んだ足取りで前へ出た。彼女の黒いコートが、蒸気の中で羽ばたくカラスの翼のように翻る。


「……山代幸成。……お主のその『聖域』とやら。……わしがこの舌で、その底にある醜悪な真実を暴いてやったぞ。……お主がリップクリームを芯の中に隠したのは、彼女を守るためなどではない。……彼女が自分以外の誰かに向けた『微笑み』や、誰かのために塗った『色彩』を、物理的に剥ぎ取り、自分の管理できる狭い穴の中に閉じ込めておきたかっただけなのじゃ」


「……黙れ!如月家の小娘に何がわかる!僕は彼女のすべてを管理しているんだ。彼女の食事、彼女の睡眠、彼女の唇の潤いまで、僕が、この僕が最適化しているんだ!」


「最適化?笑わせるな。……それは管理AIの傲慢さを、個人的な執着に置き換えただけの、救いようのない『模倣』じゃ。……お主がこのトイレットペーパーの芯に込めた脂分……。そこには、彼女への敬意など一ミクロンも含まれておらぬ。……あるのは、自分の思い通りにならぬ『生命』への憎悪と、それを物質化して所有したいという、安っぽいコレクターの腐敗臭だけじゃよ」


 瑠璃は、手に持っていたあの『芯』を、無造作に山代の足元へ放り投げた。コンクリートの床に落ちたペーパーのロールが、虚しく回転し、闇の中へ白い尾を引く。


「……そのリップクリームの味を、わしは覚えておるぞ。……お主、これを彼女に渡す前に、自らの不純な保存液を混ぜたな? ……彼女の香りを、己の所有物として塗り替えるために。……その微かな『不協和音』が、わしの舌にはドブネズミの死骸よりも酷い悪臭となって届いたのじゃ」


「……っ!!」


 山代の顔が、恐怖と羞恥で歪んだ。  自らの最も深層にある、自分ですら直視を避けていた『汚濁』を、如月瑠璃という少女に、言葉というメスで一瞬にして解剖されたのだ。


「……ああ……あああああ!壊してやる!全部、壊してやるんだ!!」


 絶叫と共に、山代はプレス機のレバーを力任せに引き下げた。


 ガガガガガ!!


 巨大な金属の顎が、無慈悲に閉じ始める。その間に、さやかちゃんの白い衣装が吸い込まれていく。


「……やめろ!!」


 僕は叫び、大輔と慎之介も同時に駆け出した。

 だが、プレス機の圧力は、人間の腕力で止められるようなものではない。火花が散り、衣装のレースが引き裂かれようとした、その瞬間――。


 パチン、という乾いた指パッチンの音が、工場の天井に反響した。


 直後、プレス機の駆動音が、ガクンという衝撃と共に停止した。

 黒い煙が立ち上り、機械の内部から、金属が激しく軋む断末魔の音が響く。


「……な、なんだ!?なぜ止まる!油圧は正常なはずだ!」


「……不純物じゃよ、山代。……お主が誇るその改造ラインの隙間に、わしが先ほど、ほんの少しだけ『異物』を投げ込んでおいたのじゃ」


 瑠璃は、いつの間にか手にしていたアンティークの銀のスプーンを、弄ぶように回した。


「……お主がさやかという娘に固執するように、わしもまた、物の『咬み合わせ』にはうるさくてな。……そのプレス機の動力伝達部に、お主が大事に溜め込んでおった『トイレットペーパーの芯』を一束、無理やり食わせてやった。……紙という柔らかな素材も、その芯を支える硬質な執着が重なれば、鉄の歯車をも狂わせる『(くさび)』となるのじゃよ」


 プレス機の隙間から、押し潰されたトイレットペーパーの芯が、ぐにゃりと歪んだ形で吐き出された。山代が『聖域』として積み上げた執着そのものが、自らの『破壊』を食い止める盾となったのだ。


「……う、うわぁぁぁぁ!!」


 自分の信じた世界が、自分の信じた道具によって否定された山代は、腰を抜かし、崩れ落ちた。

 僕はその隙を見逃さず、停止したプレス機の中から、辛うじて無事だった衣装を引きずり出した。  裾のレースが少しだけ汚れていたが、それはまだ、洗えば落ちる程度の『汚れ』だった。


「……大輔、慎之介!こいつを捕まえろ!」


「言われるまでもねえ!!」


「この、さやかちゃんの敵め!!」


 大輔と慎之介が、山代の両腕を羽交い締めにし、コンクリートの床に組み伏せた。

 男の啜り泣きが、冷え切った工場の中に虚しく響き渡る。


 瑠璃は、騒動の結末を見届けることもなく、手帳に最後の一行を書き込み、万年筆をカチリと閉じた。彼女の視線は、もはや山代にも、僕たちが守り抜いた衣装にも向いていない。

 彼女が見つめていたのは、床に転がった、芯にリップクリームが挟まったままのトイレットペーパー。


「……サクタロウ。……記録せよ。……この管理社会における『愛』とは、時として、このように救いようのない『ゴミの山』と見分けがつかぬものになる。……お主の抱えているその『推し』という名の情熱も、一歩間違えれば、このストロベリーの毒に侵されることになろう」


 瑠璃の言葉は、正論だった。けれど、僕は彼女のあまりに徹底した『不純物の排除』と、山代の『歪んだ保全』のどちらにも、釈然としないものを感じていた。


「……如月さん。……僕は、如月さんのように何でも綺麗に選別することはできません」


 僕は衣装を抱えたまま、瑠璃の背中に向かって言葉を繋いだ。


「汚れたら洗えばいいし、壊れたら直せばいいはずなんです。……それを拒んで、さやかちゃんの思い出をあんな狭い芯の中に閉じ込めるなんて、やっぱり、山代さんのやり方は間違っていますよ」


 山代がさやかちゃんを『物』のように扱って閉じ込めようとしたことも。

 瑠璃が感情を『不純なデータ』として突き放すことも。

 僕にはどちらも、本当の『好き』とは違うような気がしたのだ。


「……ふむ。……汚れを許容する強さ、か。……お主のような単純な脳細胞には、それがお似合いじゃな」


 瑠璃は、微かに、本当に一瞬だけ、口元に嘲笑ではない笑みを浮かべた気がした。

 だが、彼女はすぐに背を向け、霧散し始めた蒸気の中を、出口へと向かって歩き出した。



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