第3話『偽りの星空』 ~Section 8:製造ラインの亡霊と、閉ざされた楽屋~
夜の旧市街は、新市街の眩い光が『効率的ではない』として切り捨てた、あらゆる影と未練の吹き溜まりだ。
僕、大輔、慎之介の三人は、慎之介が特定したプリペイドカードの使用ログと、自販機の裏で見つけた彼岸花の花びらを頼りに、迷路のように入り組んだ路地を奥へと進んでいた。足元には割れたガラス片、錆びた空き缶、そしてどろりとした正体不明の油液が散乱し、一歩踏み出すごとに不快な粘着音が夜の静寂を乱す。鼻を突くのは古い下水と安っぽい揚げ物の脂、そして腐りかけの野菜の匂い。新市街のクリーンで脱臭された無機質な空気の中では決して感じることのない、この『剥き出しの生活臭』が、今の僕たちの焦燥を暴力的に煽り立てていた。
「……サク、落ち着け。心拍数が上がりすぎて、足音がデカくなってるぜ。……あいつがこの近辺にいるのは間違いない。慎之介がハックした、付近の放置された防犯カメラの、あのノイズだらけの断片データ……。そこに映っていたのは、まぎれもなく魚魚ラブのスタッフ用ジャケットを羽織った男だったからな」
大輔が、低く、押し殺したような声で僕の肩を叩いた。
彼の整った顔は、暗闇の中でより一層鋭利に、まるで見知らぬ彫刻のように冷たく見える。モデルのスカウトを何十回と断り続けてきたその強固な意志の力は、今、彼にとって唯一無二の光である『推しを守る』という純粋な目的のために、殺気となって研ぎ澄まされていた。
「分かってる……分かってるけど、あの写真を見たら……。さやかちゃんの楽屋での無防備な寝顔を勝手に撮って、あんな『一等賞の席』なんて不気味なメッセージを送ってくるなんて、人として絶対に許せないんだ。……あいつは、さやかちゃんを血の通った『人間』として見てない。……ただの、自分の歪んだ欲望を投影するためのキャンバスか、あるいは死んだ蝶のコレクションの一部だと思ってるんだ!」
「……静かに。この角を曲がった先だよ。……魚魚ラブの事務所が、かつて機材搬入に使っていたという、今は名簿からも抹消された旧式の地下倉庫。……さっきの男は、大きな段ボールを抱えて、吸い込まれるようにあそこに入っていった」
慎之介が、汗ばんだ手でスマホの画面を僕たちに見せた。そこには、猫背で、重そうな荷物を抱えた男の、歪んだシルエットが映し出されていた。その男の胸元で微かに光ったのは、魚魚ラブの公式ロゴと、その下に刻まれた『マネージャー・山代』のネームプレートだった。 僕たちは息を潜め、錆びついたシャッターの重い隙間から、その『聖域を汚す者の巣窟』を覗き込んだ。
一方その頃。
如月瑠璃は、僕たちが泥を這って掴んだ『人間的な感情の足跡』などには一瞥もくれず、物体の裏側に隠された、目に見えぬ『因果の糸』を、その卓越した五感だけで手繰り寄せていた。
彼女が立っていたのは、旧市街の港湾地区。廃材置き場と不法投棄区域のちょうど境界線に位置する、市の台帳からも、如月コンツェルンの管理データからも完全に『消失』しているはずの、『未認可のリサイクル製紙工場』の跡地だった。
……カサ、カサ……。
「ふむ、この乾いた音じゃ。……パルプの繊維が限界まで乾燥し、旧市街の湿気を吸い、再び自己崩壊を始める、断末魔の呻き。……あの『芯にリップが挟まった奇行の産物』は、この澱み、腐敗した空気の中で産声を上げたのじゃな」
瑠璃は、白い手袋をはめた指先で、工場の入り口に無造作に放置された、ボロボロのトイレットペーパーの『端材』を拾い上げた。
彼女は、新市街のクリーンなデバイスなど一切使わない。代わりに、彼女はバッグから一本の、鈍く光るアンティークの『銀のピンセット』を取り出した。
「……接着剤の成分。この、動物性の膠を混ぜた独特の粘り気……。先ほどのペーパーの芯に付着していたものと、完全に一致する。……そして、この工場の、本来なら廃棄されているはずの製造ライン……。不自然に、そして執拗に改造された形跡があるな」
瑠璃は、暗闇の中で、まるで夜目の利く猫のように音もなく工場の奥へと進んだ。
そこには、本来ならトイレットペーパーをドラムに巻き取るための、単純なはずの回転機構の横に、異質な『自動供給装置』が、手作業で、それも狂気的な熱量を持って強引に溶接されていた。それは、トイレットペーパーの芯が回転し、紙が巻かれ始めるその刹那――中心部の空洞に『別の物体』を精密に、かつ暴力的なまでの速さで挿入するための、異常なこだわりが詰まった機械仕掛けの心臓部だった。
「……なるほどな。……トイレットペーパーを製造するという、この世で最も凡庸で日常的な工程そのものを、自分だけの『聖域』を鋳造するための儀式へと変質させたというわけか。……山代幸成。……お主、精密機械工場の品質管理担当を『過剰なまでの潔癖症』で解雇された後、このゴミ溜めで、自らの職能を最も醜悪な形で開花させたのじゃな。……この機械の動き、お主の心の歪みそのものじゃよ」
瑠璃は、装置の隅に付着していた、あの『人工的なストロベリーの香料』が混ざった重たい脂分を、再びルーペで凝視した。
彼女は、デバイスが弾き出す『犯人の氏名』など必要としていなかった。
この機械にこびりついた執着、接着剤の乾き具合から逆算される時間、そして、この空間全体を支配している『女神への冒涜的なまでの崇拝』という強烈なノイズ。それだけで、彼女にとっては指紋を採取するよりも確実に、犯人の精神構造を解剖し、その正体を断定するに至っていた。
「……リップクリームを、トイレットペーパーの芯という『最も消費され、最も早く忘れ去られる場所』に封印する。……そうすることで、彼女の肉体に触れる不純物を、誰にも見られぬ深淵へ葬り去ったつもりか。……だが、不作法じゃな。……お主のその不純な祈りは、如月瑠璃の不興を買うに十分すぎるほど、鼻を突く独善の悪臭を放っておるのじゃよ」
瑠璃は、手帳に最後の一行を、紙を切り裂くような筆致で書き込み、万年筆をカチリと閉じた。 彼女の瞳には、慈悲も怒りもなく、ただ、この不条理な『物』がこの世に存在することへの、冷徹なまでの鑑定結果だけが宿っていた。
その時。
倉庫の奥、重厚な鋼鉄の扉の向こうから、ガタン!という激しい衝撃音と、何かが倒れる音が響いた。
「……っ、やめろ!離せ、この変態野郎!」
サクタロウの、喉を引き裂くような叫び声だった。
瑠璃の眉が、微かに、ほんの微かに、不快そうに動いた。それは彼女の静寂を乱されたことへの苛立ちか、それとも補助員の無様に向けられた失望か。
「……ふむ。……やはり、わしの補助員は、静寂という高貴な概念を理解できぬ、どこまでも騒がしく不器用な生き物じゃな」
一方、倉庫の中では、僕たちは想像を絶する最悪の光景を目の当たりにしていた。
積み上げられた段ボール箱の中から溢れ出していたのは、数百、数千という、あの『芯にリップが挟まったトイレットペーパー』の山だった。それはまるで、白く無機質な墓標のようにも見えた。
そしてその山の中心、不気味な赤熱灯の下に、山代は座り込んでいた。彼の手には、明日のライブでさやかちゃんが着るはずの、まだ一度も袖を通されていない、真っ白なステージ衣装が握られていた。
「……ああ、さやかちゃん。……君は、汚れてはいけないんだ。……新市街の、あの脂ぎった大人たちの欲望に晒され、消費されてはいけない。……だから、僕が、僕だけが……君をこの『白い繭』の中に、誰にも触れられない場所へと、閉じ込めてあげるからね……」
山代の瞳は、完全に焦点が合っていない。
彼が衣装を握りしめるその指先には、あの毒々しい彼岸花の花びらが、乾いた血のようにへばりついていた。
「……山代さん。……あんた、正気か!?それ、さやかちゃんが明日着る衣装だぞ!それを奪って、こんなゴミ溜めで何をするつもりだ!」
「ゴミ……?違う、これは聖域だ!誰も、このリップクリームの中心部にある『彼女の残り香』には辿り着けない!彼女の純粋さは、この紙の芯の中で永遠の眠りにつくんだ!僕が、そう決めたんだ!」
山代が、狂気的な笑みを浮かべて、ゆっくりと立ち上がった。
その背後には、彼が独自に改造したであろう、旧式のプレス機が、不気味な熱と『ウォォォォン』という重低音を響かせながら唸り声を上げていた。
彼はそのプレス機の、巨大な金属の顎の中に、さやかちゃんの衣装を、まるで祭壇に供物を捧げるような手つきで押し込もうとしていた。
「……止めろ!!それをやったら、さやかちゃんの明日が、彼女の夢が壊れるんだぞ!」
僕は叫び、山代に向かって、もつれる足を叱咤して飛び出した。
だが、その瞬間。
工場の入り口、厚い蒸気と闇の中から、冷たく、澄み切った、しかし逆らうことを許さない絶対的な威圧感を持った声が響き渡った。
「……サクタロウ。……無様に騒ぐな。……その『不純物』の解体と審判は、わしが許可した時のみ許されるのじゃ」
白い蒸気が渦巻く中、一人の少女が、優雅に、そして残酷なまでに美しく、そこに立っていた。
如月瑠璃。
彼女の手にあったのは、あの『トイレットペーパーの芯』。
「……さあ、山代。……お主のその『繭』の正体、わしの舌と指先が導き出した鑑定結果を聞くが良い。……お主が隠したかったのは、彼女の純粋さか。……それとも、己の救いようのない、醜く腐敗した独占欲か。……その答え、この不条理な紙の山と共に、今ここで精算させてやろう」
瑠璃の一歩が、工場のコンクリートの床を鋭く、そして冷酷に叩いた。
サクタロウたちの『推しへの情熱』と、山代の『歪んだ狂気』。そして瑠璃の、一切の情を排した『真実の審判』。
すべての因果が、このゴミの城の中で、一気に臨界点を迎えようとしていた。




