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第3話『偽りの星空』 ~Section 7:三位一体の追跡と、芯に潜む予感~

 新市街の清潔な夕闇が、青白いLEDの光によって人工的に塗りつぶされようとしていた。

 校門のすぐ近く、管理ドローンの巡回ルートから僅かに外れた街路樹の影で、僕たちは密会を行っていた。旧校舎の崩落現場から漂う微かな焦げ跡の匂いが、鼻の奥で鉄錆のような後味を残しているが、今の僕たちの関心は、瓦礫の山よりも、スマホの画面に映る『一輪の彼岸花』に集中していた。


「……間違いない。これは、ただの悪戯(いたずら)じゃないぜ、サク。花の配置、角度、そして何よりこのライティング……。犯人は、さやかちゃんの美しさを『自分だけが理解している』と誇示しようとしている、極めてナルシスティックな個体だ。この茎の切り口を見ろ、ナイフではなく、わざわざ園芸用の高価な(はさみ)を使っている形跡がある」


 深刻な顔で画面を凝視するのは、川崎大輔だ。

 無駄に整ったその顔立ちを、魚魚ラブ公式グッズのくたびれたニット帽で隠しているが、その瞳にはモデル事務所のスカウトを何十回も無視し続けてきた男特有の、純粋で偏った光が宿っている。彼にとって、さやかちゃんは守るべき『聖域』であり、その聖域を侵す者は、どんなエリートであろうと許しがたい不純物なのだ。


「大輔の言う通りだよ。僕が旧市街の非公式掲示板と、新市街の植物管理ログをクロスオーバーさせて解析した結果、この彼岸花は新市街の高級フラワーショップ『エデン』で、三日前に予約販売されたものと一致する。購入履歴は高度に暗号化されているけど、支払いに使われたのは……旧市街の、あの錆びついた自販機でしか売っていない、匿名性の高いプリペイドカードだ。……相手は、新市街のシステムを熟知した上で、あえて足がつきにくい旧市街の『影』を隠れ蓑に利用している。極めて慎重、かつ計画的な犯行だね」


 隣で、まるでもう一本の腕のようにスマホを高速で叩き続けているのは、山田慎之介だ。

 旧市街の定食屋『山ちゃん』で、大量の白米と油物を摂取して鍛えられたその太い指は、ネットの海に漂うゴミのようなデータの中から、瞬時に『真実』という名の小魚を釣り上げる。


「大輔、慎之介……ありがとう。やっぱり、頼りになるのはお前らだけだ。如月さんは、あんなに冷たくて、トイレットペーパーの方が大事だなんて言って……。でも、僕たちには僕たちのやり方がある。管理AIに頼らなくても、さやかちゃんに人生を救われた僕たちのこの熱量は、どんなスパコンの計算速度よりも速く犯人に辿り着いてみせる!」


 三人の、汗と期待の混じった拳が、夕闇の中で重なり合う。

 僕たちはまず、山田の特定した『プリペイドカードが購入された可能性のある、旧市街の腐った商店街』を一件ずつ、文字通り足で回ることにした。

 新市街の住民なら、支払いはすべて生体認証かデバイス一つで済む。わざわざ旧市街の、防犯カメラさえ壊れかかっているような、カビ臭い個人商店でカードを買うのは、身元を隠したいという後ろ暗い理由があるからだ。

 僕たちはママチャリのチェーンを軋ませ、旧市街の湿った夜風を切り裂いて走った。商店街の入り口に立つと、そこには新市街の眩い光を拒絶するような、どろりとした濃密な闇が溜まっていた。


 一方その頃。

 如月瑠璃は、僕たちのそんな『青春ドラマのような熱血』など露知らず、一人で月見坂市のさらなる深淵へと足を踏み入れていた。

 彼女の手に握られているのは、あの『芯にリップクリームが挟まったトイレットペーパー』。

 彼女は、如月グループが誇る最新の画像解析サーバーや、指紋照合システムを使うことさえ、思考の純度を汚すものとして拒絶した。彼女にとって、デジタルな計算が導き出す『正解』は、推論のプロセスを省略した無機質な欠陥品に過ぎないからだ。


「……ふむ。パルプの質感。指先に残る、この僅かな毛羽立ちと、不自然な吸水性の悪さ。……これは再生紙ではない。バージンパルプの、それも極めて安価な海外製じゃな。……そして、この接着剤の匂い……。どこか、焦げたゴムと動物性の脂肪が混ざり合ったような、不快な甘さがある」


 瑠璃は、街灯の乏しい旧市街の路地裏で、保存容器から取り出したトイレットペーパーを、まるで数千年前の古文書を鑑定するように、至近距離でその『肌』を見つめた。

 彼女は目をつむり、鼻腔を僅かにひくつかせる。新市街の無機質で脱臭された空気の中では決して感じ取ることのできない、微細な『情報の粒子』を、彼女はその五感だけで選別し、脳内の地図にプロットしていく。


「……微かな、腐った潮の匂い。……そして、劣化した機械油の焦げた香り。……これは、港湾地区の第三倉庫付近で使われている、規格外の重油の燃焼カスじゃ。……このペーパーが置かれていた場所、あるいは一時的に保管されていた場所は、あの黒い煙が届く範囲に限定される」


 瑠璃は、手帳を開き、万年筆の先を紙の上に滑らせた。

 彼女は地図アプリなど一切使わない。自らの足で歩き、網膜に焼き付けた月見坂市の『歪んだ地理』を脳内で立体的に展開する。

 次に彼女が目を向けたのは、芯に隙間なく挟まり、物理的な『栓』と化しているリップクリームだった。彼女は白い手袋を脱ぎ捨て、剥き出しの指先で、芯の端から僅かに溢れ出していたリップの脂分に、そっと触れた。


「……シアバター。ホホバオイル。……そして、この鼻を突くような、野暮ったいまでの人工的なストロベリーの香料。……これは、一般の市場に出回っておる品ではないな。……サクタロウが以前、涎を垂らさんばかりの勢いで熱弁しておったな。……あのアイドルのグループが、デビュー一周年記念で関係者にのみ配った、特注のノベルティ。……つまり、この『芯』の主は、あの娘の極めて近くにおる者……。いや、彼女の私生活を、執拗なまでに管理下に置こうとする者じゃな」


 瑠璃は、指先に付着した脂分を、僅かに、本当に僅かに舌の先で舐めとった。

 一瞬、彼女の美しい眉が、汚物でも口にしたかのように不快そうに歪む。


「……味が濃すぎる。……誠実さの欠片もない、執着を煮詰めたような、ドロドロとした独占欲の味じゃ。……これを作った者は、このリップを『唇を潤すための道具』とは見ておらぬ。……永遠に、枯れることのない『偶像の証』として、最も無価値で、最も人目に触れぬ紙の芯の中に、文字通り封印しようとしたのじゃな。……滑稽なまでの、愛の形じゃ」


 瑠璃は、暗闇の中で確信を得た。

 彼女にとって、ストーカーという人間社会のバグは、もはや解決すべき『正義』の問題ではない。このトイレットペーパーという『物理的な不条理』を完成させるための、パズルの最後の一片に過ぎない。

 彼女は、夜の帳が降りた旧市街の、最も影の濃い一角――古びた芸能事務所が立ち並び、下水の匂いが立ち込めるエリアへと、迷いのない、優雅な足取りで進んでいった。


 一方、僕たちは、旧市街の寂れた商店街の隅で、ついに『物理的な手がかり』に指をかけていた。


「……おい、サク!これを見ろ!自販機の裏の、空き缶入れの隙間に……!」


 慎之介が、震える指でピンセットを操り、地面に落ちていた『赤い花びら』を拾い上げた。

 それは、新市街の高級店『エデン』でしか扱っていない、人工的に色を固定された、特殊な彼岸花の一部だった。その花びらには、まだ新しい『指の跡』がついていた。


「……この先に、犯人がいる。……さやかちゃんを泣かせているやつが、この闇の向こうに隠れてるんだ。……行くぞ、大輔、慎之介。僕たちの青春のすべてを賭けて、彼女を救い出すんだ!」


 僕たちは、自分たちが如月瑠璃という巨大な嵐の、その『余白』を埋めるための駒として機能していることも知らず、夜の旧市街へと、再び猛烈に走り出した。


 サクタロウたちの「デジタルと情熱」による、泥臭いドブ板捜査。

 瑠璃の『五感と知性』による、冷酷なまでに美しい解剖。

 二つの異なるアプローチが、魚魚ラブの事務所という、運命の特異点に向かって、急速に、そして残酷に収束し始めていた。


 その時、僕のスマホが震えた。

 表示されたのは、送り主不明の、たった一行のメッセージ。


『明日のライブ、一等賞の席を用意したよ』


 そのメッセージに添付されていたのは、さやかちゃんが、楽屋で眠っている、無防備な寝顔の写真だった。


「……っ、ふざけるな……!!」


 僕は夜の路地で、絶叫した。

 背後の新市街のビル群が、僕たちの焦燥を嘲笑うように、冷たく、白く輝いていた。



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