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第3話『偽りの星空』 ~Section 6:アイドルの祈りと、不純な沈黙~

 時計塔が崩落し、九条一馬が街から『本当の闇』を奪い去ったあの一夜から、わずか十数時間。


 月見坂市は、何事もなかったかのように『完璧な朝』を迎えていた。焼けた旧校舎の残骸は、登校時間には既に不透明な工事用ホログラムによって覆い隠され、昨夜の炎も、僕たちが流した汗も、すべては新市街のクリーンな記憶の地層へと埋め立てられていた。何食わぬ顔で道をゆく自動運転車、塵一つないアスファルト、そして最適化された笑顔を浮かべる生徒たち。その『異常なまでの正常さ』こそが、この街の最も残酷な側面であることを、僕は昨夜の経験から痛いほど知っていた。


 だが、僕にとっては、そんな街の隠蔽工作よりも数千倍深刻な『緊急事態』が発生していた。


「……ありえない。……こんなこと、あっていいはずがないんだ……っ!」


 放課後の教室。僕はスマホの画面を、指が引き千切れるほどの勢いでスクロールしていた。

 画面に映っているのは、僕が人生の半分を、いや、可処分所得の九割を捧げている地下アイドルグループ『GyoGyoっとラブ』、通称『魚魚(ぎょぎょ)ラブ』のセンター――箱崎彩華(はこざき さやか)の公式ブログだ。彼女は新市街の『管理されたエンターテインメント』から零れ落ちた、旧市街の泥の中に咲く蓮の花のような存在だった。


 彼女の今日の投稿。一見すると、いつものように『今日のお弁当はアジフライでした!』という微笑ましい内容だ。だが、僕は見逃さない。僕は彼女の瞳の輝きから、背景のタイルの目地の数まで暗記している『プロ』なのだから。

 自撮り写真の隅、彼女の細い肩越しに映り込んだ鏡の端に、明らかに不自然な『影』があった。それは、彼女の楽屋のドアの隙間に挟み込まれた、一輪の、毒々しいまでに真っ赤な彼岸花。


「……ストーカーだ。……絶対に、ストーカーの仕業だ!誰だよ、さやかちゃんの楽屋(聖域)にこんな呪いみたいな花を置いたやつは!」


 僕は叫び、如月瑠璃が鎮座する旧校舎の図書室へと、文字通り死に物狂いで駆け出した。

 昨夜のボイラー暴走による筋肉痛?肋骨の軋み?脱出時の擦り傷?そんなものは、推しの危機というアドレナリンの前では、管理AIが計算した『無視すべき低優先度のエラーログ』に過ぎない。僕の脳内では、魚魚ラブの代表曲『恋の入れ食い爆釣警報』が爆音で鳴り響き、戦う勇気を僕に与えていた。


「如月さん!!大変なんです!事件です!さやかちゃんが……僕の、僕たちの『魚魚ラブ』のセンターが、何者かに狙われてるんです!命を狙われていると言っても過言じゃないんです!」


 図書室の重厚な扉を、両手で勢いよく跳ね飛ばす。

 窓際、午後の斜光を浴びながら、アンティークの椅子で優雅に百科事典をめくっていた瑠璃は、僕の必死な形相を冷めた目で見据え、静かに鼻を鳴らした。彼女の周りだけは、昨夜の崩落事故など夢だったかのような静寂と清潔さが保たれている。


「……サクタロウ。お主のその不快な心拍数は、図書室の静寂という名の均衡を著しく乱しておる。……アイドル?ストーカー?そのような、新市街のどこにでも転がっておる、凡庸で湿っぽい痴情のもつれを、なぜわしの耳に入れようとする。お主の脳の容量は、その程度のゴミデータで埋め尽くされておるのか?」


「痴情のもつれなんてレベルじゃないですよ!彼女は、僕たち魚魚ラブファンにとっての『生ける光』なんです!管理社会の効率に疲れた僕たちを、唯一『ただの人間』に戻してくれる存在なんです!如月さんのその、不純物を見抜く力があれば、犯人なんて一瞬で……!」


「断る」


 瑠璃は、手帳のページを捲る手を止めず、氷のような冷たい一瞥で切り捨てた。


「わしは、他人の色恋や、有名税という名の代償には興味がない。ストーカー被害が事実なら、警察へ行け。あるいは、新市街の警備ドローンを増設するよう申請すれば良い。わが如月コンツェルンのネットワークを使えば、その程度、一秒で終わる事務作業じゃ」


「警察なんて、実害が出るまで動いてくれないし、ドローンだって楽屋の中までは監視できないんです!彼女が恐怖で震えているかもしれないのに、事務作業なんて言葉で片付けないでください!如月さん、お願いします!これも一種の『ノイズ』でしょう!?」


「否。……それはノイズではない。……ただの『日常の残滓(ざんし)』じゃ。嫉妬や執着というありふれた感情が、その辺の道端で発酵しただけに過ぎぬ。わしが首を突っ込むに足る『未知の不純物』とは、次元が違うのじゃよ」


 瑠璃は、百科事典をパタンと閉じ、椅子から立ち上がった。彼女の視線は、僕のスマホ画面に映るアイドルの自撮り写真などには一瞥もくれず、窓の外、校庭の隅にある、誰も見向きもしない一本の枯れ木に向けられていた。


「サクタロウ。……お主がその安っぽい偶像への献身に現を抜かしておる間に、わしはもっと、知的で、美しく、そして救いようのないほど『不可解な落とし物』を見つけたぞ。お主のような節穴では、生涯かけても辿り着けぬ、真実の欠片じゃ」


「……落とし物?何の話ですか、今はさやかちゃんの方が……」


「これじゃ。お主のそのうるさい口を閉じて、刮目せよ」


 瑠璃が、机の上に置かれた保存容器の蓋を静かに開けた。

 中にあったのは、一つの『トイレットペーパー』だった。

 しかし、それは僕たちが知る『消耗品』とは決定的に異なっていた。未開封で、パッケージすら付いていない、真っ白なロール。だが、その形状は異様だった。

 トイレットペーパーの芯。本来なら、単なる中空の紙管であるはずのその中心部に、一本の、高級な『リップクリーム』が、まるで栓をするかのように、ミリ単位の隙間もなくギチギチに挟み込まれていたのだ。


「……トイレットペーパーの芯に、リップ……?なんですかこれ、悪戯ですか?」


「悪戯というには、あまりに『調和』が取れすぎておる。……見よ。このリップクリームは、後から芯の中に無理やり押し込まれたのではない。……ペーパーが巻かれる前の、芯そのものが成形される工程で、既にそこに存在しておった形跡がある。紙の巻き付き方に、リップの形状に合わせた微かな歪みがあるのじゃ。……そして、このトイレットペーパーそのものも、新市街のどの規格にも、旧市街のどの工場の製品にも該当せぬ、この世に存在せぬはずの『不純物』なのじゃよ」


 瑠璃の瞳に、獲物を見つけた猛禽のような、あの不吉で美しい輝きが宿る。

 彼女は、僕の推しへの訴えなど最初から一バイトも受信していなかった。彼女が興味を示すのは、常に、論理的な正解から最も遠い場所にある『ありえない物』――ありえない場所に、ありえない物が、ありえない形であること、それだけなのだ。


「芯にリップクリーム……。それがどういう経緯で校庭の、AI管理の死角に落ちておったのか。……これこそが、この管理された街に空いた、真の『情報の穴』なのじゃ。お主のアイドルの悩みなど、このミステリーの深淵に比べれば、水溜りの波紋にも劣る」


「芯にリップが挟まってたって、誰かの不注意かもしれないじゃないですか! それよりさやかちゃんの方が重要です!」


「ならば、一人で行くが良い。……サクタロウ、お主はそこでアイドルのブログと心中しておるが良い。わしは一人で、このペーパーのルーツを辿らせてもらう。お主に頼らずとも、わしの足と、わしのペンがあれば、真実は向こうから跪くのじゃよ」


「あっ、待ってください、如月さん!僕のさやかちゃんはどうなるんですか!如月さんがいないと、僕はただの、声のでかいオタクになっちゃうんです!」


「お主のさやかちゃんとやらは、お主のその立派な、しかし中身の詰まっておらぬ腕で守るが良い。……さらばじゃ、第一補助員(仮)。……お主の『好き』という感情の熱量が、管理AIの予測を上回り、物理的な奇跡を起こせるかどうか、遠くから見物させてもらうぞ。精々、不純な涙を流さぬようにな」


 瑠璃は、保存容器を愛おしそうに抱え、風のように図書室を後にした。

 後に残されたのは、彼女の冷たい香りと、絶望に打ちひしがれた僕。そして窓から差し込む、無慈悲なまでに明るい夕日。

 ……クソッ。如月さんが協力してくれないなら、自力でやるしかない。僕の愛は、如月さんに『凡庸』と切り捨てられるほど安くないんだ。


「……呼ぶか。……あいつらを。僕たちの、魚魚ラブへの愛を見せてやる」


 僕はスマホを取り出し、連絡先から二人の名前を選んだ。

 一人は、新市街のモデル事務所から常に狙われているほどの美貌を持ちながら、その実態は『魚魚ラブのライブのために学校をサボる』ことも辞さないガチ勢、川崎大輔(かわさき だいすけ)

 もう一人は、旧市街の定食屋『山ちゃん』の息子で、腹の肉と共にディープな情報収集能力(ネットサーフィン)を蓄え続けている、山田慎之介(やまだ しんのすけ)


 月見坂市の光と影、そしてオタクの純粋な絆。

 僕たちの、推しの未来を懸けた、絶対に負けられない戦いが、今、幕を開けようとしていた。



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