第3話『偽りの星空』 ~Section 5:微熱の余韻と、墜落する観測者~
空を飛んでいるのか、あるいは地獄の底へと引きずり込まれているのか。
風を切る耳鳴りと、背中に感じる如月瑠璃の微かな震え、そして腕の中に抱えた木製人形の無機質な硬さ。それらすべてが渾然一体となって、僕の意識を加速する重力の中に溶かしていく。
「……っ、死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ!!」
絶叫は、旧校舎の壁に反響することもなく、闇に閉ざされた新市街の沈黙に吸い込まれていった。
三階の窓から飛び出した僕たちの体を、半世紀前の遺物である避難シュートが、悲鳴のような布の擦れる音と共に迎え入れる。長年の埃を吸い込んだ分厚い布が、僕たちの体重を受けて激しく波打ち、摩擦熱が制服越しに皮膚を焼く。
視界が目まぐるしく回転し、上下の感覚が消失する。
やがて、衝撃。
地面に敷き詰められていた、放置された緩衝材の山に突っ込み、僕は肺の中の空気をすべて吐き出しながら、雪の吹き溜まりのようなゴミの山に埋まった。
「……ぐ、はぁっ……!げほっ、げほっ……!」
肺の奥まで煤と埃が入り込み、激しくむせ返る。
だが、安堵する暇はなかった。
背後で、あの旧校舎の時計塔が、断末魔のような音を立てて崩れ落ちたのだ。
ゴォォォォォ……ン!!
最上階の窓から噴き出した火柱が、一瞬だけ夜空を真っ赤に染め上げ、崩落した瓦礫が地面を激しく叩きつけた。僕たちが数分前まで立っていた場所は、今や巨大な焚き火の跡のような残骸へと姿を変えている。
新市街のブラックアウトは依然として続いており、その炎だけが、この世界の唯一の光源として、不気味に揺らめいていた。
「……ふむ。……着地の質は、お主の成績表と同様に『改善の余地あり』じゃな、サクタロウ」
僕の背中から、何事もなかったかのように瑠璃が這い出してきた。
彼女は乱れた髪を指先で一撫ですると、煤だらけの制服を、まるで勲章でも誇示するかのように悠然と正した。その瞳は、燃え盛る校舎を冷徹に見つめている。
「……成績表なんて、今どうでもいいでしょう。……如月さん、人形。人形は……」
僕は慌てて、腕の中を探った。
ゴミの中に埋もれていた『星見の座』。
仰け反った姿勢のまま、人形は依然として空を見上げていた。だが、あの偽りの彗星を映し出していた胸のレンズは、崩落の衝撃か、あるいはゼンマイの寿命か、今はもう光を失い、冷たい真鍮の瞳に戻っている。
「……壊れて、ない。……よかったです。これ、九条が狙ってたやつですよね」
「否。……九条が狙っていたのは、人形そのものではない。……この人形をトリガーにして、わしたちの心に『取り返しのつかないノイズ』を刻むこと。……そして、この管理社会の完璧な静寂の中に、五十年分の未練を爆発させることじゃ」
瑠璃は、人形の頭にそっと手を置いた。その指先は、僕が回したゼンマイの熱を帯びて、微かに震えているように見えた。
「……サクタロウ。……お主は、あの天井に映った『偽りの空』を、どう思った?」
「……。……綺麗でした。……偽物だって分かってても、あんなに空を見上げたのは、生まれて初めてでした。……新市街のライトが消えて、本当の闇が来たからこそ、見えた景色……」
「皮肉なものじゃな。……真実の星空を見つけるために、わしたちは偽物の彗星を追い、管理社会という名の光を壊さねばならなんだ。……九条一馬。……奴は、最悪の脚本家であるが、最高に悪趣味な『調律師』でもあるというわけか」
瑠璃は、手帳を開き、今夜の最後のページにペンを走らせた。
灯りはない。だが、彼女の指先は、記憶に刻まれた真実を正確に、闇の中に綴っていく。
「……如月さん。……九条は、どうなったんでしょう」
「奴は影じゃ。……光が戻れば消え、闇が深まれば現れる。……だが、今回の実験で、奴は確信したはずじゃ。……如月瑠璃と、その第一補助員であるサクタロウ……。わしたちという『不純物』こそが、この街を最も面白くかき乱す因子であることをな」
その時。
遠く、新市街の中央タワーから、一本の光が空へと伸びた。バックアップ電源が起動したのだ。
光は瞬く間に街の血管を伝わり、街灯が、ホログラムが、レーザーが、ドミノ倒しのように次々と息を吹き返していく。
『月見坂市は、完璧です。異常は排除されました』
無機質なAIの合成音声が、校内のスピーカーから虚しく響く。数分前までそこにあった『本当の夜』は、暴力的なまでの白光によって瞬時に塗りつぶされ、空には再び、星一つ見えない紫色の不透明な膜が張られた。
崩落した時計塔も、消防ドローンの迅速な消火活動によって、明日には『老朽化による管理ミス』として処理され、立ち入り禁止のホログラムフェンスで囲われるだろう。
すべてが、なかったことにされる。それが、この街の『正解』の形なのだ。
「……如月さん。……人形、如月家の宝物庫にでも預けますか?これ、そのままにしておいたら、ゴミとして回収されちゃいますよ」
「……否。……これは、わしの図書室に置く。……仰け反り、空を見上げ続けるこの愚かな観測者を、わしの『思考の重石』としてな」
瑠璃は、人形を僕から奪うように抱え上げると、暗闇から滑り込んできた漆黒のリムジンへと歩み寄った。
ドアが開く。
彼女は車内に乗り込む直前、一度だけ立ち止まり、僕を振り返った。
「サクタロウ。……お主の進路調査票の余白、さらに一文字書き加えておいてやったぞ」
「……えっ!?今度は何を書いたんですか!まさか『人形の持ち運び係』とか……」
「……『星屑の拾い人』じゃ。……お主には、その泥臭い名前がよく似合う。……感謝せよ」
バタン。
重厚なドアが閉まり、リムジンは音もなく、光の洪水の中へと消えていった。
後に残されたのは、煤だらけの僕と、アスファルトの上に放置された僕のママチャリ。そして、胸の中に残った、あの青白い彗星の、冷たくて熱い余韻だけだ。
僕は大きく溜息をつき、ひっくり返った自転車を起こした。筋肉痛はもはや限界を超え、感覚が麻痺している。
だが、見上げた空。新市街の光に隠されて、一ミリも見えないはずの宇宙の深淵が、僕の瞳の裏側には、確かに焼き付いていた。
「……星屑の拾い人、か。……勝手に、格好いい名前にしやがって……」
僕はペダルを漕ぎ出した。
明日になれば、また新しい『ノイズ』がこの街のどこかで産声を上げるだろう。如月瑠璃という嵐に巻き込まれ、九条一馬という亡霊に弄ばれる、僕の不純で、非効率な日常。
それは、管理AIが計算した『幸福』よりも、ずっと、ずっと……生きている味がした。




