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第3話『偽りの星空』 ~Section 4:爆ぜる記憶と、天頂の幻影~

 人形の喉から漏れ出した少女の歌声は、時計塔の屋根裏を満たしていた不快な重低音を、一瞬にして浄化するような清冽さを湛えていた。しかし、その神秘的な静寂を切り裂くように、足元から再び――今度はこれまでとは比較にならないほどの――轟音が響き渡った。


 ドォォォォン!!


 旧校舎の底、機関室の配管が、ついに九条の与えた過剰な熱量に耐えきれず破裂したのだ。

 床板が跳ね上がり、壁の隙間から、まるで生き物の触手のように白い蒸気が噴き出してきた。視界は一瞬で乳白色に染まり、熱帯夜を通り越して、肌が焼けるような熱風が僕たちの体を包み込む。


「……っ、如月さん!本当に爆発しましたよ!もう一刻の猶予もない、このままじゃ校舎ごと崩れます!」


 僕は、蒸気で曇る眼鏡をかなぐり捨て、視界を失いながらも瑠璃の肩を掴んだ。だが、瑠璃は僕の腕を振り払うと、蒸気の向こう側でさらに熱心に、動き出した人形へとその手を伸ばした。


「待て、サクタロウ!まだじゃ……まだ、ピントが合っておらぬ!この人形の瞳が、真実を捉えるまで、わしは一歩も退かぬぞ!」


「何言ってるんですか! 真実より命の方が大事でしょう!」


「如月家の人間にとって、解明されぬ謎を残して死ぬことほど、無様で屈辱的な敗北はない!お主はそこで、わしが真実に辿り着くための『重石』となっておれ!」


 瑠璃は、吹き出す蒸気の熱も厭わず、人形の首の角度をミリ単位で微調整し始めた。

 ゼンマイによって駆動する内蔵レンズが、カタカタと乾いた音を立ててピントを合わせる。人形が仰け反り、その瞳のレンズが天井の明かり取りの窓――今や完全な闇に包まれた、新市街の光が消えた空――を捉えた瞬間。


 人形の胸部にある、もう一つの隠された機構が作動した。


 チィィィン……!


 それは、オルゴールの櫛歯が弾けるような、鋭く、しかし美しい共鳴音だった。

 人形の胸にある小さな真鍮の扉が開き、そこから強力な『光』が放たれた。それは、ボイラーの熱を利用して発光する、古い化学反応式の光源。その光が、人形の内部にある『百武彗星の軌道を刻んだ特殊な幻灯板』を透過し、天井の煤けた明かり取りの窓を、巨大なスクリーンへと変貌させた。


「……っ、これ、は……」


 僕は、頭上の光景に目を奪われ、逃げることさえ忘れて立ち尽くした。


 暗い天井の窓に映し出されたのは、今そこにある本物の星空ではなかった。

 一九九六年、二月のあの夜に、この場所から見上げたはずの――巨大な、青白い尾を引いた、空の半分を支配するほど雄大な『大彗星』の姿だった。


 新市街の光に隠され、管理AIの歴史からも消去された、かつての空。人々が夜の冷たさに震えながら、しかし同じ空を見上げて、宇宙の神秘に息を呑んだ、その瞬間の記憶そのもの。


「……美しい……。これが、五十年前の、月見坂市の空……」


 瑠璃の声が、蒸気の唸り声にかき消されそうなほど、小さく震えていた。彼女の白い頬が、天井に映る青白い彗星の光に照らされ、この世のものとは思えないほど神聖な輝きを帯びる。


『……ハハハ!どうだい、如月瑠璃。それが僕からの、最後にして最高の『偽物』だ』


 九条一馬の声が、崩落の音に混じって響く。

 その声は、もはやスピーカーからではなく、崩れかけた壁の向こう側、あるいは僕たちの意識の深層から直接語りかけてくるような、不気味な浸透力を持っていた。


『……本物の彗星はもういない。本物の闇も、君たちが壊した時計塔と共に消え去る。残るのは、精巧に作られた人形と、君たちの網膜に焼き付いた『偽りの星空』の残像だけだ。……この美しいエラーを抱えたまま、この建物の残骸と共に、歴史の塵に帰るがいい!』


 その瞬間、頭上の巨大な梁が、メキメキと音を立てて軋み始めた。ボイラーの爆発によって土台を失った時計塔が、ついにその重力に抗えなくなり、ゆっくりと傾き始めたのだ。


「……如月さん!もうおしまいです!梁が落ちてくる!」


 僕は、瑠璃を抱きかかえるようにして、その場から飛び退いた。

 刹那、僕たちが先ほどまで立っていた場所に、数トンの重みを持つ巨大な木材が、激しい火花と埃を撒き散らして墜落した。


「……っ、サクタロウ、人形を!人形を離すな!」


 瑠璃が叫ぶ。

 僕は、倒れ込みながらも、ゼンマイを使い果たして動きを止めたあの人形を、反射的にその腕に抱きしめていた。


 床が四十五度に傾き、僕たちは積み上げられたガラクタと共に、部屋の隅へと滑り落ちていく。

 窓ガラスが割れ、外の冷気が室内に流れ込む。

 新市街のブラックアウトはまだ続いており、外の世界は墓場のように暗く、静まり返っている。唯一の光は、足元の配管から噴き出す火花と、割れた窓から差し込む、冷淡なまでの本物の月光だけだ。


「……出口が……扉が塞がった!」


 崩落した瓦礫が、唯一の脱出口である螺旋階段への入り口を、完全に埋め尽くしていた。

 背後からは、猛烈な勢いで火の手が上がり始めている。

 ボイラーから漏れ出した重油に引火したのだ。

 熱と、煙。そして、出口のない絶望。


「……ふむ。……なるほどな。……九条、貴様の書いた脚本は、ここで終わりというわけか」


 瑠璃は、僕の腕の中で、煤だらけになりながらも、不敵な笑みを浮かべた。彼女は、自分が死ぬかもしれないという状況にあっても、依然として九条との『知的な勝負』を楽しんでいるようだった。


「……如月さん、笑ってる場合じゃないですよ!どうするんですか、これ!この高さから飛び降りたら死にますよ!」


「飛び降りる?否。……サクタロウ、お主は忘れたのか。……わしたちがここへ来るまでに、何に乗ってきたかを」


「え……? 自転車?」


「左様。……お主のあの、美学の欠片もない、しかし異様に頑丈なママチャリじゃ。……わしのリムジンが到着するまでの繋ぎとして、お主が外に放置したガラクタがな」


 瑠璃は、割れた窓の外――暗闇の地面を指差した。

 そこには、三階の窓から見える位置に、校舎の壁を這うように設置された、古い『非常用避難シュート』の残骸が見えた。

 新市街のビルなら最新の降下ポッドがあるはずだが、ここにあるのは、布製のトンネルを滑り落ちるだけの、半世紀前の遺物だ。


「……あれを使えと?でも、あんなの古くて千切れるかもしれませんよ!」


「千切れる前に、重力に従って落ちれば良い。……サクタロウ。……お主に、最期の『労働』を命じる。……その人形を抱えたまま、わしを背負え。……そして、あの彗星が空から降りてくるように、この絶望から飛び降りるのじゃ」


「……はぁ!?無理です、僕一人ならともかく、如月さんを背負ってなんて……」


「……三秒じゃ。……選ぶ権利をやる。……ここでわしと共に、九条の描いた結末通りに焼き尽くされるか。……それとも、わしの重みを感じながら、この街の『管理』という名の檻を、物理的に突き破るか」


 彼女の瞳が、至近距離で僕を射抜く。煤で汚れ、髪を乱しながらも、彼女は圧倒的な気高さを失っていない。

 ……ああ、クソッ。やっぱり、僕はこの人に抗えない。


「……分かりましたよ!その代わり、後で絶対に、高い焼き肉を奢ってくださいからね!」


 僕は叫び、瑠璃を背中に、人形を胸に抱えた。彼女の細い腕が僕の首に回り、彼女の体温と、鼓動が背中に伝わってくる。女子の重み。人形の冷たさ。そして、迫りくる火炎の熱。


「行くぞ、サクタロウ!……闇の中へ、ダイブじゃ!」


 僕は、崩落寸前の窓枠に足をかけ、暗闇の虚空へと、その身を投げ出した。



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