第3話『偽りの星空』 ~Section 3:真鍮の鼓動と、密着する調律~
『ここからは、僕の戦いだ』
そう口にしたものの、指先に伝わる真鍮の巻き鍵の重みは、僕の覚悟を嘲笑うかのように無慈悲だった。
スマホの予備ライトが照らし出す人形の背中は、熱気と湿気でじっとりと濡れ、まるで生き物の皮膚のような生々しい質感を帯びている。背中の蓋が外され、剥き出しになった内部機構は、まるで精密な時計と、複雑な知恵の輪を無理やり結合させたかのような、狂気的な密度の迷宮だ。
その迷宮の最深部――心臓にあたる巨大な香箱から、一本の太い真鍮の軸が突き出している。
「……っ、熱いな、この人形……」
僕は思わず指を引っ込めそうになった。
人形は、下のボイラー室から立ち上る熱気を吸い込み、内部のワックスを溶かして、今や自ら熱を発する機械の塊と化していた。焦げたグリスと古い木材が混ざり合った、頭がクラクラするような芳香が鼻を突く。そして、その背後に立つ如月瑠璃の存在が、僕の脳内をさらなるパニックへと陥れていた。
「何を躊躇しておる、サクタロウ。……お主のその『光る板』に表示された蒸気圧の限界値まで、あと数分もない。……わしがこの人形を支えてやる。お主は、その野蛮な握力をすべて、この小さな真鍮の鍵に集中させるのじゃ」
瑠璃が僕の背後に回り込み、僕の腕を挟むようにして人形の両肩をがっしりと掴んだ。
狭い時計塔の屋根裏。彼女のしなやかな肢体が、僕の背中と密着する。
ドクン、ドクンと、自分の心臓の音がうるさい。彼女の体温が制服越しに伝わり、首筋には彼女の静かな、しかし期待を孕んだ熱い吐息がかかる。
女子に耐性のない僕にとって、これは九条の仕掛けた爆弾よりも、ある意味で致命的な状況だった。 新市街の清潔な無臭の世界で生きてきた僕にとって、瑠璃から漂う、冬の澄んだ空気のような香りと、この廃墟の重苦しい熱気が混ざり合う空間は、感覚を狂わせるのに十分すぎた。
「……如月さん、近い。近すぎますって……。これじゃ力が入りませんよ……!」
「黙れ。……わしの体温すら制御できぬ者に、五十年前の職人の執念を制御できるはずがない。……いいか、サクタロウ。この巻き鍵は、右に三回転と四分の一。……それ以上回せば、劣化した真鍮のバネが千切れ、すべてが水の泡となる。逆に四分の一足りねば、この人形は彗星を捉える前に、再び永遠の眠りにつく。……お主の指先の神経を、一本ずつこの鍵に繋ぎ合わせるのじゃ」
瑠璃の声が、僕の脳髄を直接叩くように響く。彼女の指が、僕の震える手首を力強く、それでいて壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。その感触で、不思議と震えが止まった。
僕は、覚悟を決めた。
スマホのライトを消し、再び完全な闇へと沈む。
視覚を捨て、すべての意識を指先に集約させる。
……格闘ゲームのコンマ数秒の先行入力、アクションゲームのシビアなパリィのタイミング。これまで僕が『無駄な時間』として浪費してきた、画面の向こう側の攻防。そのすべての経験値が、今、この瞬間のためにあったのだと自分を無理やり納得させる。
ギリ……。
一回転目。巻き鍵を回し始めた瞬間、指先に伝わってきたのは、暴力的なまでの反発だった。五十年間、一度も解き放たれることなく蓄積された、錆とワックスの固着。それが、ボイラーの熱によってようやく解け始め、ヌルリとした不気味な感触と共に、巨大な抵抗となって僕の右腕に襲いかかる。
「……重っ!これ、本当にバネなんですか!?まるで、巨大な岩をロープで引き上げてるみたいだ……」
「……その抵抗こそが、時間を遡ろうとする力の反動じゃ。……耐えろ、サクタロウ。お主の腕が千切れるのが先か、人形の心臓が動き出すのが先か。……わしがその重みを共に受け止めてやる」
瑠璃の腕に力がこもる。彼女の細い腕が、僕の腕を補強するフレームのように機能していた。
二回転目。鍵が一段、カチリと音を立てて深くなった。その瞬間、人形の内部で、眠っていた無数の歯車が「ガチッ」と一斉に噛み合う感触が、掌を通じて全身に伝わってきた。
ボイラーの唸り声、配管から漏れ出す蒸気の音、そして、窓の外に広がる沈黙した街。すべての『ノイズ』が、僕の中で一つの調律されたリズムに変わっていく。
「……あと、少し。……あと一回転と、わずかな隙間……」
三回転目。鍵を回す感触が、それまでの『重い抵抗』から、ある種の『鋭利な予感』へと変化した。バネが限界まで巻き上げられ、金属が悲鳴を上げる直前の、ピンと張り詰めた静寂。
もしここで指が滑れば、巻き戻される鍵の勢いで僕の指の骨は粉砕されるだろう。だが、僕を背後から支える瑠璃の存在が、僕に一歩も引くことを許さなかった。
「……サクタロウ。……来るぞ。……職人が、五十年前のあの夜に仕掛けた、『最後の一打』が」
最後の四分の一回転。僕は、自分の鼓動さえも停止させた。
指先の皮が一枚剥けるような感覚。バネの張力がピークに達し、香箱の内部で金属の爪が、解放の瞬間を待って震えているのがわかる。
カチ。
最後の一段を乗り越えた瞬間、巻き鍵が不思議なほど軽くなった。いや、軽くなったのではない。人形そのものが、僕の指先から動力を奪い取り、自ら『脈打ち始めた』のだ。
「……っ、動き出した!?」
僕は慌てて手を離した。巻き鍵が、ひとりでに逆回転を始める。
ヒュルヒュルヒュル、という、どこか鳥のさえずりを思わせる軽やかな金属音。それと同時に、人形の内部で、複雑に絡み合っていた数百の歯車が一斉に解き放たれた。
床を揺らしていたボイラーの低音が、この瞬間、人形が奏でる『からくり』の旋律に飲み込まれていく。
仰け反っていた人形が、ゆっくりと、しかし驚くほど滑らかな動作で、その姿勢をさらに深く、深く……天頂を見上げる角度へと変えていった。
「……見よ、サクタロウ。……レンズが、開くぞ」
瑠璃が感嘆の声を漏らした。
人形の瞳。埃を被っていたはずのガラス玉が、内部のカムの動きに連動して左右に割れ、その奥から、隠されていた『本物の光学レンズ』がせり出してきたのだ。
それだけではない。人形の喉元、真鍮の蛇管が通っていた場所から、微かな、しかし澄んだ音が響き始めた。
――キィ、キィ、キィ……。
それは、蓄音機が古いレコードの溝をなぞるような、ノイズ混じりの音。その音が、九条一馬がスピーカー越しに鳴らしていた嘲笑を、塗りつぶすように屋根裏に広がっていく。
「……これ、声ですか?人形が、喋ってる?」
「否。……記録じゃ。……五十年前の、あの彗星が通過した夜の、『大気の震え』そのものを、金属の円盤に刻み込んでおったのじゃな……」
人形が、ゆっくりと口を開いた。
そこから漏れ出してきたのは、一人の少女の、透き通るような、しかし今はもうこの世界のどこにも存在しない、亡霊のような歌声だった。
『……見つけたよ。……パパ、あそこ。……星が、流れてる……』
その声が響いた瞬間。
ブラックアウトしていた新市街の闇の向こう、人形がレンズを向けた天頂の死角に、奇跡のような『光』が差し込んだ。




