第3話『偽りの星空』 ~Section 2:計算された熱狂と、レンズ越しの亡霊~
九条一馬の、あの耳障りな笑い声がノイズに溶けて消えた瞬間、旧校舎の心臓部は一段と激しく脈打ち始めた。
足元の床板を通して伝わってくる振動は、もはや単なる老朽化の悲鳴ではない。それは、ボイラー室で無理やり沸騰させられた高圧蒸気が、行き場を失って配管を内側から叩き壊そうとしている、破滅へのカウントダウンだった。
「……っ、如月さん!冗談抜きで逃げましょう!九条のやつ、本気ですよ。この温度の上がり方、あと数分で配管が破裂して、この部屋は蒸気で満たされます。そうなったら、茹でダコどころか、ただの肉塊になりますって!」
僕は、震える指でスマホを握りしめた。
画面には、先ほど瑠璃に命じられてバックドアから侵入した、校内管理システムの異常値が真っ赤なアラートとして踊っている。蒸気圧は既に安全圏を二〇〇パーセント超え、温度計の数値は、冬の夕暮れにはあり得ない放物線を描いて上昇し続けていた。
「慌てるな、サクタロウ。……九条は『闇を作る』と言った。……奴は、この建物をただ破壊したいわけではない。……破壊という名の劇薬を使って、この時計塔に、五十年分の沈黙を吐き出させようとしておるのじゃ」
瑠璃は、汗一滴かかぬまま、再びルーペを人形に向けた。彼女の視線の先――人形の仰け反った首の付け根、真鍮の継ぎ目には、微かな『蒸気の筋』が漏れ始めていた。
「……見てみよ。この人形、内部に蛇管が通っておる。……下のボイラー室から立ち上る熱気が、この部屋の湿度と温度を上げることで、人形内部のワックスを溶かし、固着した歯車を潤滑させておるのじゃ。……つまり、この『不快な熱』こそが、人形を目覚めさせるための『鍵』なのじゃよ」
「そんな……。じゃあ、九条はこの人形を動かすために、校舎ごと自爆させようとしてるってことですか!?」
「左様。……九条は、効率を重んじるAIが捨てた『情緒という名のバグ』を、最も暴力的な形で再起動させたいのじゃな。……サクタロウ、ぼうっとしている暇はない。その『光る板』を動かせ。……この人形が指し示す、空の座標を特定するのじゃ」
僕は、汗で滑りそうになるスマホを操作し、天体シミュレーションのログへとアクセスした。
ここ、月見坂市の北緯、東経。そして、この人形が作られた五十年前の、今日と同じ二月十一日の夜空。
「……検索しました。……でも、如月さん。おかしいです。……人形の指し示している仰角、天頂から約十五度の南。……その位置には、五十年前も、そして今夜も、目ぼしい恒星は存在しません。……ただの、何もない暗闇です。……シリウスも、オリオンの三つ星も、もっと低い位置にあります」
「何もない……?否。……そんなはずはない。……この職人の執念が、ただの闇を指し示すためにこれほどの機構を組み上げるはずがない」
瑠璃が、人形の胸元に刻まれた、さらに微細な刻印を見つけた。彼女は万年筆の先で、その文字をなぞるように僕へ示した。
「……『彗』?如月さん、これは……」
「……彗星じゃ。……恒星のように永遠にそこにあるものではなく、長い長い旅の果てに、一瞬だけこの空を通り過ぎ、そして二度と帰ってこぬ、孤独な旅人。……サクタロウ、五十年前にこの街の天頂を通過した、大彗星の記録を洗え!」
僕は、指先を熱くさせながら、情報の深層へと潜った。
新市街のクリーンな百科事典には、もはや『過去の天体ショー』などという非生産的な情報は残っていない。僕は、管理AIがゴミ箱に捨てた、旧市街の古本屋の在庫目録や、当時の学生たちの手書きの観測日記をスキャンしたアーカイブを掘り返した。
「……ありました。……一九九六年。……百武彗星。……極めて地球に接近し、その長い尾は夜空を半分以上も覆い尽くしたという、伝説の彗星。……その極大期、月見坂市での南中高度は、天頂付近……!」
「――ビンゴじゃ」
瑠璃の声に、確信の響きが戻った。
「……一九九六年。……この街がまだ、新市街という光の檻に閉じ込められる前。……人々は皆、この場所から、その『不純な光』を見上げておったのじゃな。……この人形は、その一瞬の奇跡を、永遠に定着させるために作られた『記憶の墓標』だったのじゃ」
その時、スピーカーから再び、九条の冷徹な声が響いた。
ボイラーの咆哮を切り裂くような、鋭利な声だ。
『……正解だ、如月瑠璃。……百武彗星。……数万年に一度しか戻ってこない、美しき迷い子。……だが、今夜の月見坂市から、その星を望むことはできない。……君たちの足元に広がる、あの傲慢な新市街の光が、空を焼き尽くしてしまったからだ』
九条の言葉通り、窓の外を見下ろせば、新市街のホログラムとレーザーが、夜空を不自然な紫色に塗りつぶしている。その眩しすぎる光の中では、どんなに巨大な彗星がやってきたとしても、それはただの『観測不能なノイズ』として処理されるだけだ。
『……だから、僕は提供するのさ。……君たちのために、最高に純粋な『闇』をね。……システムが管理する『正解の光』を、物理的に遮断してあげるよ』
「……遮断?まさか、九条……あんた……!」
僕が叫ぶよりも速く、校内放送から、激しいパルス音が鳴り響いた。 そして。
バチッ!!
強烈な放電音と共に、旧校舎のすべての照明が消え去った。
それだけではない。窓の外、先ほどまで不夜城のように輝いていた新市街の摩天楼が、まるで一斉に瞳を閉じたかのように、ドミノ倒しで暗転していくのが見えた。月見坂市を管理する巨大な配電サーバーに、九条が何らかの致命的な『ノイズ』を流し込んだのだ。
静寂。そして、完全なる闇。
新市街のあらゆるデジタル信号が死に絶え、街全体が、巨大な死骸のように沈黙した。そこに残されたのは、ボイラーの唸り声と、時計塔の屋根裏に漂う、湿った熱気だけだ。
「……如月さん。……街が、消えました。……九条のやつ、本当にブラックアウトを起こしやがった……」
僕はスマホのライトをつけようとした。だが、その光さえも、瑠璃の制止の声によって遮られた。
「つけるな、サクタロウ。……無粋な光で、この神聖な闇を汚すな。……見よ。……五十年ぶりに、この街に『本当の夜』が帰ってきたぞ」
瑠璃は、闇の中で、人形の傍らに立った。
窓の向こう。新市街の光が消えた空には、これまで見たこともないほどの、無数の星々が、宝石をぶちまけたように輝き始めていた。光害という名のノイズが消え去り、宇宙の沈黙が、月見坂市の真上に降りてきたのだ。
「……あ」
僕は息を呑んだ。
美しい。……暴力的なまでに、美しい。
新市街のホログラムが描くどんな精緻な映像も、この剥き出しの宇宙の深淵には及ばない。
「……だが、彗星はいない。……一九九六年の旅人は、もうここにはおらぬ」
瑠璃の声は、どこか哀悼の響きを帯びていた。彼女は闇の中で、仰け反る人形の肩を、そっと掴んだ。
「……サクタロウ。……九条は、わしたちに『闇』を与えた。……ならばわしたちは、この人形に『魂』を与えねばならぬ。……この空に、もういない旅人の影を、この人形の瞳を通して再構築するのじゃ」
床下の振動が、ついに物理的な限界点に達しようとしていた。配管が激しく鳴り、屋根裏の隅から、白い蒸気が噴水のように噴き出し始める。
「……熱っ!如月さん、本当に爆発します!人形に魂を吹き込む前に、僕たちが幽霊になりますよ!」
「黙れ。……ゼンマイじゃ。……人形の腰の裏に、巻き鍵の穴がある。……お主のその、精密な指先で、この熱狂の最中に、バネの限界を叩き出せ!」
瑠璃は僕の腕を掴み、強制的に、熱を帯びた人形の背後へと引き寄せた。彼女の香りと、焦げたオイルの匂いが混ざり合う。
闇と熱。
そして、空には無数の星。
「……やってやりますよ!どうせ死ぬなら、このノイズの正体を暴いてからにしてやる!」
僕は叫び、スマホの予備ライトを一瞬だけ点灯させ、人形の背中に突き刺さった、巨大な真鍮の巻き鍵を掴んだ。ここからは、僕の戦いだ。




