第1話『砂場の卵焼き』 ~Section 1:黄金の欠片と、令嬢の異常な情熱~
昨日、彼女は『この街にはノイズが足りない』と言った。その言葉が、まさかこれほどまでに具体的で、かつ食欲をそそる――あるいは胃を逆なでするような形で現実になるとは、僕は夢にも思っていなかった。
放課後の旧三年二組。
西日が差し込み、無数の埃が琥珀色の光の中でダンスを踊っている教室へ足を踏み入れた瞬間、僕は思わず鼻をつまんだ。古い木材の匂いや石灰の粉っぽさに混じって、濃厚な『醤油』と『出汁』、そしてわずかな『焦げ』の匂いが充満していたからだ。
「――来たか、サクタロウ。お主の到着を、わしも、この『黄金の迷い子』も首を長くして待っておったぞ」
如月瑠璃は、昨日と同じようにコタツの中に下半身を沈めていた。しかし、その表情は昨日よりもずっと険しく、かつ歓喜に満ちている。彼女の目の前の皿には、およそこの世で最も場違いな拾得物が鎮座していた。
一個の、卵焼きだ。
だが、それは弁当箱の中で誇らしげに胸を張るような代物ではない。表面には粗い珪砂がびっしりと付着し、出汁の水分が抜けて少し萎び、まるで過酷な旅を終えて力尽きた遭難者のような悲壮感を漂わせている。
「あの……如月さん。その……なんですか、それは。今日の『ノイズ』は、食べ物なんですか?」
「瑠璃で良いと言ったはずじゃ。お主の記憶力はザルか? それとも、わしの名を発音すると舌が腐る病にでもかかっておるのか?」
彼女は銀色のピンセットをカチカチと鳴らしながら、僕を睨みつけた。
女の子に耐性のない僕は、その紫色の瞳に見つめられるだけで、背中に冷たい汗が流れるのを感じる。彼女は美しい。如月コンツェルンの至宝と呼ばれるだけあって、その造形は完璧だ。だが、その瞳の奥にある『知的好奇心』という名の怪物は、美しさというオブラートを軽々と突き破って僕を威圧してくる。
「すみません。如月さん。それで……その、砂まみれの物体は何なんです?」
「これは、南公園の砂場の、それも同心円上の中心地点に、儀式的なまでの正確さで置かれていた遺失物じゃ。わしはこれを『砂場の卵焼き』と命名した」
彼女はピンセットの先で、卵焼きの表面に付着した砂粒を一粒、慎重に剥がし取った。
「見よ。この断層。層の重なり方が一定ではない。これは、職人が一本の菜箸で、迷いと情熱を交互に注ぎ込みながら巻き上げた証拠じゃ。機械によるプレスではない。この街のすべてがAIによって最適化され、無機質な立方体へと加工される中で、この卵焼きだけは『不完全な人間』の呼吸を宿しておる」
瑠璃はそう言うと、コタツの脇に置かれた電子顕微鏡のモニターに目を落とした。そこには、卵焼きの断面が細胞レベルで映し出されている。
「サクタロウ。お主はこれがなぜここにあると思う? 誰かが弁当をこぼした? 否。周囲に米粒一つ、他のおかずの破片一つ落ちておらなかった。これは、単体でそこに存在したのじゃ。まるで、誰かが自分の魂の一部をそこに置いてきたかのように」
彼女の熱弁は止まらない。昨日までの『ネジ』への関心など、すでに過去の遺物だ。彼女の興味は、常に最新の『ノイズ』へと最短距離で加速する。
「成分分析の結果、驚くべき事実が判明した。使用されている卵は月見坂産の高級地鶏。だが、隠し味に微量の『リンゴ酢』、そして三河みりんとは異なる、自家製の果実酒の成分が検出された。わしの膨大な味覚データが、この配合を記憶しておる」
彼女はピンセットを置き、勢いよくコタツから立ち上がった。一四七センチの身長を大きく見せるように、背筋をピンと伸ばし、不敵な笑みを浮かべる。
「決定じゃ。サクタロウ。わしはこの卵焼きの『ルーツ』を突き止める。この砂まみれの死体に、本来あるべき物語を返してやるのじゃ。この味、この配合……源流は、港の第4倉庫裏にある弁当屋『月見亭』に相違ない」
「港……? 港って、ここからかなりの距離がありますよ。如月さん、まさか今から行くんですか?」
「当然じゃ。わしが思い立った瞬間に、世界は動き始める。真実は鮮度が命なのじゃよ」
彼女はパチンと指を鳴らした。すると、いつの間に控えていたのか、教卓の後ろから黒服の使用人が音もなく現れ、深々と頭を下げた。
「車を回せ。最速のルートを確保せよ」
瑠璃は風のように廊下へと踏み出した。彼女の歩みには、他人を待つという概念が欠落している。 僕は慌てて彼女を追いかけようとしたが、廊下の入り口で彼女が立ち止まり、肩越しに冷徹な視線を投げかけてきた。
「サクタロウ。お主には機動力という名の特権を与えよう。わしのリムジンでは、港の迷路のような路地裏には入り込めぬ。お主には、わしの『目』となり、証拠の残滓を追う猟犬になってもらう」
「猟犬……? まさか、一緒に車に……」
「お主のような、女の子を名前で呼ぶ度胸もない臆病者と密室など、わしの名誉に関わる。お主には専用のビークルを用意した。校門の裏じゃ。……十五分後に港の弁当屋へ来い。一秒でも遅れたら、お主の進路調査票はわしが受理し、お主の将来を『如月コンツェルン・地下農場』での強制労働に書き換えてやるからな」
それは、冗談には聞こえなかった。彼女なら、それを実行する権力も、そして何より『興味』がある。 瑠璃は僕の返事を聞くこともなく、旧校舎の階段を飛ぶように下りていった。
窓の外を見下ろせば、既に校門前には、不気味なほど長く黒いリムジンが、獲物を待つ獣のようにアイドリングを始めていた。瑠璃が吸い込まれるように車内へと消え、重厚なドアが閉まる。一拍置いて、V8エンジンの低く力強い唸りが、旧校舎の古い窓ガラスをビリビリと震わせた。
リムジンが猛然と加速し、夕闇の坂道を下っていく。後に残されたのは、わずかな排気ガスの匂いと、僕の中に広がる絶望だけだ。
「……やるしかない。やるしかないんだ」
僕は叫びたい衝動を抑え、旧校舎を駆け下りた。
校門の裏。そこには、彼女が『用意した』という、僕の運命を呪うことになる銀色のママチャリが、夕日に照らされて不気味な鈍色に光っていた。タイヤの空気は心もとなく、サドルはカチカチに硬い。だが、今の僕にとって、これが唯一の蜘蛛の糸だった。
僕はひび割れたサドルに跨り、港を目指してペダルを踏み込んだ。




