第3話『偽りの星空』 ~Section 1:屋根裏の熱帯と、仰け反る踊り子~
如月学園の旧校舎には、生徒手帳の校内図にも載っておらず、AIの清掃ルートからも意図的に削除された『空白地帯』が存在する。
三階の渡り廊下の突き当たり、壁と同化したような隠し扉の奥にある、埃とカビの臭いが充満した螺旋階段。その頼りない鉄の骨組みを、僕は自身の膝が上げる悲鳴と相談しながら、一段、また一段と踏みしめていた。
「……暑い。……なんで、二月の放課後なのに、こんなに蒸し風呂なんだよ……」
額から滴り落ちる汗を手の甲で拭い、僕は呪詛のように呟いた。
階段を上るにつれて、空気は粘度を増し、肌にまとわりつくような不快な湿気を帯びてくる。新市街の空調管理された快適な教室とは別世界だ。まるで、この旧校舎そのものが高熱を出してうなされている巨大な獣のようで、その食道を通って胃袋へと向かっているような錯覚に陥る。
壁に這う配管からは、断続的にゴボン、ゴボンという不整脈のような音が響き、錆びた鉄の継ぎ目からは、シューっという微かな蒸気の漏れる音が聞こえてくる。
「ハァ……ハァ……。筋肉痛が治る暇もない。……僕の高校生活、もっと爽やかな青春の汗を流す予定だったのに、なんでこんなオイル臭い汗ばっかり……」
思考が愚痴に染まる頃、ようやく最上階の鉄扉が見えた。
かつて時計塔の機械室だったというその屋根裏部屋。重たい扉を押し開けた瞬間、僕の視界は、窓から差し込む琥珀色の夕日と、舞い上がる無数の埃によって、幻想的かつ窒息しそうな黄金色に染め上げられた。
「遅いぞ、サクタロウ。……お主のその貧弱な心肺機能は、この程度の標高差で酸素欠乏を起こすよう設計されておるのか?」
部屋の中央。積み上げられた木箱や、錆びついた歯車の山に囲まれた空間に、如月瑠璃は涼しい顔で立っていた。
彼女の制服には、埃一つ、汗一滴すら付着していない。この劣悪な環境下で、彼女だけが真空パックされた美術品のように、異質なほどの清潔さと気品を保っている。その手には、いつもの革表紙の手帳ではなく、古びた、しかし手入れされた『ルーペ』が握られていた。
「……はぁ、はぁ……。如月さんこそ、どうやって先回りしたんですか。……それに、この部屋、異常に暑くないですか?下のボイラー室の配管、どこかイカれてるんじゃ……」
「室温は摂氏三十一度、湿度は七十八パーセント。……確かに、ここは新市街の基準で言えば『不快』の定義に分類される環境じゃな。だが、この高温多湿こそが、この部屋の主にとっては羊水のような役割を果たしておるのじゃよ」
瑠璃は、部屋の奥にある、布を被せられた一角を指差した。
そこには、長年の埃が積もった作業台があり、その上に、奇妙な物体が鎮座していた。
「……なんですか、これ。……木製の人形?」
僕は近づき、目を凝らした。
高さは五十センチほど。関節球体人形のような精巧な作りだが、その表面はニスが剥げ、木肌が黒ずんでいる。あちこちから真鍮の歯車やバネが露出しており、未完成なのか、あるいは修理の途中放棄されたものなのか判別がつかない。
だが、何よりも異様なのは、その『姿勢』だった。
人形は、椅子に座っていた。
しかし、背もたれに寄りかかっているのではない。
腰を起点に、上半身が信じられない角度で――ほぼ水平になるほど――後ろへと『仰け反って』いたのだ。
普通の人間なら脊椎がへし折れる角度だ。両手はだらりと重力に従って垂れ下がり、首だけがさらに後ろへ反らされ、ガラス玉の瞳は、埃にまみれた天井の梁を、虚ろに、しかし執拗に見つめている。
「……うわ、なんですかこのポーズ。……壊れてますね、これ。背骨のメインスプリングが切れたのかな。まるで、拷問器具にかけられたか、リンボーダンスの失敗直後みたいだ」
「節穴も極まれりだな、サクタロウ。……よく見よ。この関節の噛み合わせを。そして、この姿勢を維持するために計算された、腰部の重心バランスを」
瑠璃はルーペを覗き込み、人形の腹部の隙間にある極小の歯車を観察した。
彼女の顔が人形に近づく。美しい横顔と、朽ちかけた木の人形の対比が、奇妙なほど絵になっている。
「これは『故障』ではない。……『仕様』じゃ。この人形は、製作者の明確な意図を持って、このありえない角度で仰け反るように設計されておる。……重力に逆らい、バネの限界張力を利用してまで、何かを直視しようとしておるのじゃよ」
「直視って……天井のシミか、クモの巣くらいしかないですよ。……あ、もしかして、天井裏のネズミを見張るための『番犬人形』とか?」
「お主にはそう見えるか。……だが、この人形が作られたのは五十年前。この旧校舎が現役で、時計塔がまだ時を刻み、この街に『新市街』などという無粋な光の塔が存在しなかった時代の遺物じゃ。……その頃の空には、今とは違う景色が広がっていたはずじゃろう?」
瑠璃は人形の視線を指先でなぞり、天井にある明かり取りの窓を見上げた。
ガラスは煤と汚れで曇り、外の景色はぼんやりとした光の滲みにしか見えない。だが、人形の視線はその曇りガラスを突き抜け、さらにその向こうにある『何か』を捉えているようだった。
「……空?……星、ですか?」
「あるいは、もっと別の……一瞬の閃光か。……サクタロウ、この人形の名盤を見よ。製作者の刻印がある」
言われて台座を見ると、真鍮のプレートに、消えかかった文字が刻まれていた。 酸化して緑青が浮いたプレートを、僕は袖口で少し擦った。
『星見の座 試作三号』
「星見……。ロマンチックな名前ですね。でも、星を見るなら、普通は望遠鏡を覗き込むポーズとかにするでしょう。なんでこんな、ブリッジみたいな姿勢で空を見上げなきゃいけないんです?」
「そこじゃ。……そこにこそ、この人形に込められた『物語』の歪みがある。……普通の姿勢では見えない星。あるいは、全身全霊で仰け反らねば捉えられぬほど、天頂の、真上の死角を通り過ぎた何か。……この人形は、それを観測し続けるために、五十年もの間、この蒸し風呂の中で時間を止めておったのじゃ」
瑠璃は、愛おしそうに人形の頬に触れた。
冷たい陶器のような彼女の指先が、ささくれ立った木の表面を滑る。
「……美しいとは思わぬか、サクタロウ。……この街の人間たちは、スマートウォッチの画面ばかり見て、首を下に曲げることに忙しい。だが、この人形だけは、半世紀もの間、ただ一点の『上』を見ることだけに特化しておる。……その執念は、AIの計算よりも遥かに純粋で、そして狂気的じゃ」
その瞬間、床下からゴゴゴ……という低い地鳴りのような音が響き、部屋全体が微かに、しかし確実に振動した。積まれていた古本タワーが崩れ、埃が舞い上がる。
「……っ! うわっ、今の揺れ、何ですか? 地震?」
「否。……下のボイラー室じゃ。老朽化した配管が、限界を超えた圧力を逃がそうとして悲鳴を上げておる。……どうやら、この旧校舎の『心臓』は、誰かによって意図的にペースメーカーを狂わされているようじゃな」
瑠璃の瞳が、一瞬だけ鋭く細まった。
彼女はルーペをポケットにしまい、代わりに手帳を取り出すと、何かを素早く書き込んだ。その筆跡は、いつもより強く、紙を食い破らんばかりの筆圧だった。
「サクタロウ。……お主の筋肉を使う時が来たぞ。……この部屋の温度が異常なのは、自然現象ではない。……誰かがこの人形を『孵化』させるために、この校舎全体を巨大な保育器に変えようとしておるのじゃ」
「孵化……?まさか、この木の人形が動き出すとでも?ゼンマイも巻いてないのに?」
「動くさ。……十分な『熱』と『物語』さえ与えればな。だが、その前に……この熱源の正体を暴かねば、人形が目覚める前に我々が茹でダコになる。……お主はともかく、わしの肌に汗疹ができることなど、如月家の歴史的損失じゃ」
瑠璃は、振動する床板をヒールの踵で強く踏み鳴らした。
カツン! という硬質な音が、ボイラーの唸り声に対抗するように響く。
「行くぞ、機関室へ。……九条一馬の悪趣味な『舞台演出』が、また幕を開けたようじゃ」
その言葉と同時に、部屋の隅にあるスピーカー――校内放送用の古いスピーカーから、ザザッ、というノイズが吐き出された。それは、廃屋で聞いたラジオの音と同じ、あの神経を逆なでする電気信号の嘲笑だった。歪んだ音波が、湿った空気を震わせ、僕の鼓膜にへばりつく。
『……おや、気づくのが早いね、如月瑠璃。……やはり君の嗅覚は、旧時代の獣並みに鋭い』
九条一馬の声。
相変わらずの、人を食ったような、芝居がかった口調。
だが今回は、録音ではない。リアルタイムの応答だ。
『……君の言う通りだ。星を見るには、少しばかり照明が邪魔だとは思わないか? ……新市街の光も、君たちの理性の光もね。……だから僕は、この校舎の熱を借りて、もっと『暗い』場所を作ろうと思うんだ。……人間が、星を見上げるしかなくなるほどの、絶望的な闇をね』
九条の声が、熱気で歪んだ空気をさらに重く震わせる。
仰け反った人形は、そのノイズの中で、ただ静かに、見えない空を見上げ続けていた。
まるで、その闇の訪れを、五十年前から待ちわびていたかのように。




