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第2話『甘い重石の並べ方』 ~Section 7:夜明けの空席と、手渡された重み~

 東の空の端が、新市街を象徴する無機質なホログラム広告の輝きを塗りつぶすように、淡い、しかし剃刀の刃のように鋭い白磁の色に染まり始めていた。

 深夜の廃屋で起きた、あの心臓を握りつぶすような『真空の合唱』が嘘のように、月見坂市の国道沿いは死に絶えたような静寂に包まれている。僕と如月瑠璃は、長い、あまりに長い一夜の果てに、再び、あの十二段の鉄の階段を持つ歩道橋の前に立ち尽くしていた。


 僕の両手には、男の廃屋から運び出した、中身がただの『不純で、甘すぎるだけのジャム』へと戻った十二個の瓶が、ずっしりとした段ボール箱に収まって抱えられている。腕の筋肉は既に悲鳴を上げ、指先は冷気で感覚を失いかけていた。


「……如月さん。結局、これらをまた元の場所に並べるんですか? 如月さんの調律で爆発の危険が去ったとはいえ、これが誰かの『復讐の象徴』であることに変わりはない。……街の人から見れば、ただの不気味なゴミの陳列ですよ。こんなものを置いたって、歩道橋の解体スケジュールは一秒だって遅れない」


「サクタロウ、お主は相変わらず、物事の表面張力しか見ておらぬな。……モノそのものに罪や悪意があるのではない。あるのは、それを用いる者の『注文』の質と、その重さだけじゃ。……お主、そこに魂を抜かれたように蹲っておるあの男を、その無駄に大きな目で見開いて、よく観察せよ」


 瑠璃が、手袋をはめた指先で示した先。歩道橋の錆びついたたもとには、先ほどの清掃員の男が、重力から見放された幽霊のように力なく座り込んでいた。

 瑠璃の『銀の匙』によって己の醜い嘘を暴かれ、九条の甘美な呪縛から強引に引き剥がされた彼は、もはや怒る気力さえも、悲しむ体力さえも失っているようだった。その虚ろな瞳は、来月の『五月十二日』をもって跡形もなく消え去る予定の、冷たい鉄の階段を、ただ空虚に見つめている。


「……もう、いいんです。……ジャムを爆発させて、この眩しすぎる街を赤く染め上げたところで、……あの子が、私の名前を呼んで帰ってくるわけじゃない。……私はただ、あの子を忘れたふりをして進んでいくこの街が、……あの子の不在を『効率的ではないノイズ』として処理するこのシステムが、許せなかった。……だから、あの子の思い出を、呪いに変えてでも、この街に爪痕を残したかったんだ……」


 男の声は、夜明けの冷たく澄み切った空気の中に、今にも消え入りそうなほど細く、震えながら響いた。

 瑠璃は、無言のまま僕の手から、重たい段ボールを受け取った。彼女は、まるで儀式を執り行う司祭のような厳かさで、階段の一段目に、あの日付のズレた真っ赤なジャムの瓶を一つ、置いた。

 だが、彼女はそれを、今朝のように『街を破壊するための重石』としては置かなかった。


「……。お主の娘は、この殺風景な歩道橋が好きだったと言ったな」


「……ええ。……ここから見える、遠い海の夕焼けが好きだった。……新市街のビルが建ち並ぶ前、まだここが、ただの不潔で、でも確かに人の温もりがあった商店街だった頃の、黄金色の景色を……」


「ならば、お主がここに置くべきは、復讐という名のドロドロとした重いジャムではない。……お主の脳の深層にだけ残っている、その『失われた景色』の欠片じゃ」


 瑠璃は、黒いコートの深い内ポケットから、一冊の、古びた、しかし背表紙まで丁寧に手入れされた『スケッチブック』を取り出した。

 それは、砂場の少年に贈ったものと同じ、如月家が秘蔵する『記録を拒絶する紙』を用いた旧時代の遺物だ。瑠璃はそれを、膝をつく男の目の前に、まるで挑戦状を叩きつけるかのように無造作に放り投げた。


「……これは、私にどうしろと?」


「お主の娘が、この場所から何を見て、何に心を震わせたのか。……それをこの街の高度な管理AIは、一バイトのデータとしても記憶しておらぬし、残す価値もないと判断した。……ならば、お主が、お主自身の手で記せ。……来月、解体されるのは単なる鉄の骨組みと、劣化したアスファルトだけじゃ。……お主がここに『美しかった過去の真実』を刻みつけることができれば、それは物理的な質量を超え、この街の完璧な記憶の(レイヤー)に永遠に消えないバグとして刻み込まれる『特異点』となるのじゃよ」


 瑠璃は、さらに段ボールから残りのジャムを取り出すと、それを階段の隅に、今度は階段を上る者を導く『道標(ガイド)』のように、ミリ単位の狂いもなく等間隔に並べていった。

 瓶の中の透き通った赤い液体が、地平線から登り始めた朝日に照らされ、まるで本物のルビーのような、澄み切った、気高い光を放ち始める。

 そこにはもう、僕を震え上がらせたあの不気味な熱も、爆発の予兆を孕んだ不吉な振動も、何一つ残っていなかった。

 ただ、かつてこの場所に立ち、この街を愛した誰かの『記憶の色彩』が、そこに静かに置かれているだけだ。


「……重石とは、何かを底に沈めるための凶器ではない。……サクタロウ、よく覚えておけ。それは、そこにあった大切なものを、時の流れに流されないように繋ぎ止めておくための『栞』なのじゃよ」


 瑠璃は、僕の隣で、満足げに夜明けの街――光と影が混ざり合う境界線を見下ろした。

 男は、震える指先でスケッチブックの真っ白なページを開いた。その最初の一頁に、彼は、街が捨て去ったどんな風景を記すのだろうか。

 解体される歩道橋の物理的な運命は変わらない。管理AIが弾き出した解体スケジュールは、一人の初老の男の感傷ごときで一秒たりとも修正されるほど、この世界は甘くない。

 だが、今、この瞬間に、この歩道橋は単なる『廃棄予定の巨大なゴミ』から、一人の父親が娘と再会するための『聖域』へと変貌を遂げたのだ。


『……フフフ、相変わらず、最高に『不味い』、そして胸の焼けるような解決策だね、如月瑠璃。君はまたしても、完璧なシステムに修正不能な『意味』という名のウイルスを書き込んだ。……だが、忘れないでほしい。……砂場が産み落とした卵は、まだこの街のいたるところに転がっているということをね』


 どこか遠く、建物の隙間に放置されたままの、あるいは回収し忘れた無線端末からか、九条一馬の、あの不敵で、しかしどこか満足げな声が微かに聞こえた気がした。

 しかし、瑠璃はその声を、冷たく鋭い朝の風とともに、鼻で笑って一蹴した。


「……サクタロウ。……帰るぞ。……夜通しお主のような鈍重な者を連れ回したせいで、わしのこの特注のコートに、わずかではあるが『旧市街の廃屋の匂い』がついてしまったではないか。……帰宅し、わしの舌に相応しい最高級の茶葉で、この不純で、しかし悪くない後味を洗い流さねばならぬ」


「……如月さん。僕の進路調査票、返してくれませんか? 『思考補助員』なんて、やっぱり僕の肩には重すぎますよ。僕はただ、普通に卒業して、普通の大人になりたいだけなんです」


「断る。……お主には、わしの描く、この『不純で、歪で、美しい未来』の唯一の目撃者としての重大な責任がある。……さあ、自転車を漕げ。筋肉痛など、わしのわがままという名の潤滑油で吹き飛ばせ。……わしを追い越すことは決して許さぬが、背中を見失うほど置いていかれることも、このわしが許さぬ」


 瑠璃は、僕に反論の隙を一切与えず、黄金色に輝き始めた国道の大動脈へと、優雅に、しかし凛とした足取りで歩き出した。

 僕は、空っぽになった段ボール箱を抱え、まだ少しだけガクガクと震える脚で、しかし心の中にある奇妙な『軽さ』を感じながら、彼女の背中を全力で追いかけた。

 

 背後の歩道橋の階段には、十二個の赤いジャムが、朝日に溶けるように、しかし確かな存在感を持って輝いている。

 それは、この完璧すぎる無菌の街に対する、最も小さく、最も無力で、そして決して消し去ることのできない、誇り高き『落書き』そのものだった。


 僕たちは、次の『不純物』が、この街のどの死角で産声を上げるのかを予感しながら、眩しすぎる、あまりに眩しすぎる朝の光の中へと消えていった。



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