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第2話『甘い重石の並べ方』 ~Section 6:銀の匙の審判と、不純な記憶~

 『プシュッ』という、極めて微細で、しかし張り詰めた静寂を真っ二つに切り裂くような音が、廃屋の淀んだ空気の中に響き渡った。

 それは単なる発酵ガスの放出音ではなかった。瓶の中に押し込められていた、数週間分の『拒絶』と『未練』が、現実の世界へと一気に解き放たれた音だ。

 直後、僕の鼻腔を襲ったのは、人工的なイチゴの香料を何百倍にも濃縮し、そこに古い鉄錆の匂いと、そして『誰かの冷えた涙』を混ぜ合わせたような、噎せ返るほど濃厚で、暴力的なまでに甘い芳香だった。それは、新市街の清潔な空気しか吸ってこなかった僕にとって、内臓を直接掴まれるような、激しい目眩を誘発する『毒』の匂いだった。


「……如月さん!やめてください、冗談じゃ済まない!相手は正体不明の菌と、九条の悪意が混ざった化物なんですよ!本当に、死にますよ!」


 僕は思わず絶叫し、彼女の細い手首を掴んで引き剥がそうとした。だが、瑠璃の動きは、僕の切実な制止よりも遥かに速く、そして精密な外科医のように正確だった。

 彼女は、蓋の隙間からドロリと溢れ出してきた、暗赤色の粘り気のある液体を、銀の匙の先に一滴、真珠の粒のように掬い取った。その液体は、新市街の無機質な街灯の下で見れば、単なる「清掃対象の汚物」にしか見えないだろう。しかし、この廃屋の微かな月光の中では、まるで深海で数千年の時を過ごした未知の生命体の体液のように、怪しく、そして蠱惑的(こわくてき)な輝きを放っていた。


「案ずるな、サクタロウ。わしのこの舌は、この程度の不純物で腐るほど安物ではない。……むしろ、この街の吐き気のするような『無味乾燥な正解』ばかりを飲まされ続けて、少々刺激に飢えておったところじゃ。この不協和音こそ、今のわしには相応しい」


 瑠璃は、僕の制止を氷のような冷たい一瞥で撥ね退けると、その銀の匙を、迷いなく自らの薄い、桜色の唇の間へと滑り込ませた。

 一瞬、世界のすべての音が消失した。

 床に膝をつき、泥を啜るように生きてきた男たちが、一斉に顔を上げ、固唾を呑んで瑠璃の白い横顔を見守る。ラジオから流れていた九条の、不愉快なノイズさえも、彼女が『毒』をその身に下したその瞬間には、まるで畏怖を抱いたかのように、ぴたりと息を潜めた。


 瑠璃の瞳が、微かに、しかし激しく揺れた。

 長く、形の良い睫毛が小刻みに震え、その白磁のような喉が、不純な『甘み』を飲み込むために、小さく、しかし重々しく動いた。

 次の瞬間、瑠璃の白い頬に、朱を指したような不自然な赤みが差した。それは健康的な体温の象徴などではなく、あまりに巨大で歪な『情報』を一度に摂取したことによる、神経回路のオーバーヒートそのもののように見えた。彼女の額には微かな汗が浮かび、その指先は銀の匙を握りしめたまま、小刻みに震えている。


「……ふむ。……なるほどな。……これは、想像以上に『不味い』のう」


 瑠璃は、銀の匙をゆっくりと口から抜くと、それをまるで歴史的な価値を判定する鑑定士のように、目の前に掲げた。

 彼女の声は、先ほどまでよりも僅かに低く掠れ、しかしその奥には、霧が晴れたような確かな勝利の確信が宿っていた。


「……不味い、ですか?当たり前ですよ!それは来月のゴミで、九条が汚した、死んだ記憶のスープなんですから!」


「否、サクタロウ。お主の言う『不味さ』とは、単なる成分的な劣化や衛生面での数値を指しておる。だが、わしが感じたのは、もっと根源的な……そう、この男の『未練』という名の、救いようのない不純物じゃ。……このジャムには、イチゴの種と一緒に、極めて醜悪な『嘘』が混ざっておるぞ」


 瑠璃は、廃屋の奥、闇に溶け込みそうになっていたあの清掃員の男を、鋭い、逃げ場のない眼光で射抜いた。

 男は、瑠璃の言葉が物理的な衝撃となって届いたかのように、ガタガタと肩を震わせた。


「……嘘、だと?……お嬢様に、私の、私の何がわかるというんだ……!私は、あの子との、唯一の思い出を……あの歩道橋を、守りたいだけなんだ!それを嘘などと、侮辱するな!」


「思い出、か。お主はそうやって、自分を騙し続けてきたのじゃな。……ならば問うぞ。お主がこのジャムに込めたという記憶の中で、あの子はどんな表情をしておった?……わしの舌に届いたのは、幸せな記憶の甘みではない。……自分を責め、世界を恨み、そして『あの子が死んだのは、この街が冷たかったからだ』という、安っぽい復讐心に塗り固められた、ヘドロのような執念だけじゃ」


 瑠璃の言葉は、銀の匙よりも鋭い刃となって、男の胸の奥底を真っ二つに切り裂いた。

 彼女は一歩、また一歩と、ジャムの山を崩さぬように慎重に、しかし圧倒的な、王者のような威圧感を持って、腰を抜かした男に近づいていく。


「お主は、歩道橋を守りたいのではない。……歩道橋を壊そうとするこの街に、己の醜い憎悪を『イチゴの血』として浴びせてやりたいだけなのじゃろう?九条という男は、お主のその濁った、腐敗した願望をいとも簡単に見抜き、この爆弾を育てさせた。……お主の娘は、こんなドロドロとした発酵臭のする重石など、一グラムたりとも、一ミクロンたりとも望んではおらぬはずじゃ。彼女が最後に握ったお主の手は、もっと別の『重み』を持っていたはずではないか?」


「……違う……違う!やめてくれ、言わないでくれ!ああ……あああああ!」


 男は頭を抱え、獣のような咆哮を上げながら、床に崩れ落ちた。

 瑠璃の命がけの『味見』によって、九条が仕掛けた『記憶の増幅装置』という名の論理が、根底から瓦解を始めたのだ。九条が利用したのは、純粋な、透明な哀しみではない。それが長期間放置され、腐敗して生まれた『他罰的な憎しみ』だった。そして瑠璃の絶対的な舌は、その微かな、しかし決定的な変質を、一滴のジャムから見事に、残酷なまでに嗅ぎ当てたのだ。


『……ククク、残念だよ、如月瑠璃。やはり君の感覚は、人間を辞めかけている。もう少しで、この吐き気のするような街に『最も甘い破滅』を届けられたというのに。……だが、種火は既に放たれた。……その瓶の蓋を、物理的に開けてしまった以上、真空の均衡は完全に崩れた。……連鎖反応は、もう誰にも、君にさえも止められない』


 ラジオからの九条の声が、冷酷な嘲笑とともに、廃屋の四隅に響き渡る。

 瑠璃が蓋を開けた瓶を起点に、周囲に積み上げられた数千の瓶たちが、まるで地鳴りのような、不気味な共鳴を始めた。

 『カタ、カタ、カタ……』という、乾いた死の足音のような響きが、今や『ドクン、ドクン……』という、巨大な心臓がのたうち回るような響きへと変わり、廃屋全体が、巨大な生き物の、熱病に浮かされた胎内のように、急激に熱を帯びていく。


「如月さん!もう御託はいい、逃げましょう!床が揺れてる、もう限界だ、爆発します!ここが吹き飛んだら、僕らもおしまいです!」


 僕は瑠璃の肩を両手で強く掴み、彼女を強引に出口へと向かわせようとした。

 だが、瑠璃は、まるで根を張った大樹のようにその場から動かず、僕の必死の手を無造作に振り払うと、再びあの、赤く染まった銀の匙を高く掲げた。


「サクタロウ、よく見ておけ。……不純物とは、排除するものではない。……『調律』するものなのじゃ。無粋な騒音を、意味のある音楽へと変えるのが、わしの役目じゃよ」


 瑠璃は、手にした銀の匙の硬い柄の部分で、踊り場から持ってきたあの『真鍮の呼び鈴』を、渾身の力を込めて叩いた。


 ――チーン!!


 今まで聞いたどの音よりも高く、鋭く、そして清廉な音が、廃屋の中に響き渡った。

 その透明な振動は、ドロドロとしたジャムたちが奏でていた醜悪な共鳴を、一瞬にして、ナイフのように切り裂いた。

 物理的な音波が、瓶の中の不安定な真空圧と、発酵したガスに干渉し、暴走していた破滅のリズムを、強引に「静寂」へと上書きしていく。


「……えっ?音が……止まった?揺れも、収まっていく……」


「……不純な憎しみを、純粋な音色で中和し、強制終了させたのじゃ。……このジャムたちは、男の執念で重すぎた。だから、わしが少しだけ、『軽く』してやったのよ。……ただの、甘すぎるだけのゴミに戻してやったのじゃ」


 瓶たちの震えが、まるで幻影であったかのように収まっていく。

 パンパンに膨張し、爆発寸前だった蓋が、まるで魔法が解けたかのように、カチリという小さな音を立てて元の平らな姿へと戻っていった。

 瑠璃の『命を懸けた味見』と、呼び鈴による『音の調律』。

 それは、管理AIにも、そして九条一馬の計算にも不可能な、人間という不完全で、しかし誇り高き不純な存在だけができる、綱渡りのような奇跡だった。


 瑠璃は、肩で激しく息をする僕を見つめ、不敵な、それでいてどこか『よくやった』と言いたげな、満足げな笑みを浮かべた。

 だが、彼女の手元にある銀の匙は、先ほどのジャムに含まれていた執念の毒か、それとも強烈な酸の影響か、微かに、不吉に黒く変色していた。


「……さあ、サクタロウ。茫然としている暇はないぞ。この『甘すぎる重石』の、本当の片付けを始めるぞ。……夜明けまでに、あの歩道橋に、復讐ではなく、本当の意味で相応しい『重さ』を届けてやらねばならぬからのう。それがわしの、今夜の『注文』じゃ」


 物理的な爆発の危機は去った。だが、瑠璃が男の心に見つけた『空白』を埋めるための戦いは、まだ終わっていなかった。

 彼女が選んだ、ジャムに代わる『本当の重石』とは、一体何なのか。

 僕たちは、夜明けの光が差し始める歩道橋へと、再び、しかし今度は確かな足取りで、重い身体を向け始めた。



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