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第2話『甘い重石の並べ方』 ~Section 5:真空の破裂と、赤いノイズ~

 古い真空管ラジオが吐き出すノイズは、廃屋の淀んだ空気を物理的に震わせ、鼓膜を逆なでするほどの刺々しさを帯びていた。


 『……如月瑠璃、君はその殻を割る勇気があるかな?』


 加工され、金属的な残響を伴った声が、剥き出しの電球すらない腐った天井に反響し、床に膝をつく男たちの背中に、逃れられぬ運命のような冷たい影を落とす。僕はその、相手を見下すような、それでいてどこか芝居がかった声音の主を、生理的な嫌悪感とともに瞬時に思い出していた。

 砂場の平穏を汚し、僕たちの日常を勝手な理論で『実験場』に変えた男――九条一馬(くじょう かずま)の、あの傲慢で不遜な響きそのものだ。


「……九条。また、あんたなのか。……まだ、こんな嫌がらせを続けているのかよ!」


 僕は震える声を絞り出し、ジャムの山の背後に隠されているであろう無線発信源を探して、必死に視線を走らせた。

 だが、隣に立つ如月瑠璃は微動だにしない。彼女は、足元でカタカタと、まるで意志を持って共鳴し続ける数千のジャム瓶の軍勢を、静かに見つめていた。その瞳は、行進の合図を待つ兵士の列を検分する冷徹な将軍のようであり、あるいは、これから解剖する標本を愛でる狂気の科学者のようでもあった。


「サクタロウ、無様に騒ぐな。九条のような承認欲求の塊は、自分を演出するに相応しい舞台装置がなければ言葉一つ発せぬ。……それよりもお主、その鈍い五感をフル回転させて見よ。このジャムの山から立ち上る、この『不自然なまでの熱』を。そして、鼻を突くこの『腐敗と発酵の境界線』の匂いをな」


 瑠璃に鋭く指摘され、僕は慌てて、目前にそびえ立つ赤いジャムの山に、恐る恐る手をかざした。

 ――熱い。

 冬の夜、暖房器具一つなく、隙間風が容赦なく入り込む廃屋だというのに、数千の瓶が密着して積み上がったその中心部からは、高熱にうなされる病人の吐息のような、じっとりとした、湿った熱気が漏れ出していた。それはイチゴを過剰に煮詰めた濃厚な甘い匂いと、先ほどの古いエンジンオイルの不快な金属臭が混ざり合い、胃の奥を激しく掻き回すような、酸っぱい発酵臭へと変質している。


「……これ、まさか、本当に爆弾なんですか!?この瓶の中に、火薬か何かが仕込まれているとか……」


「火薬などという、旧時代の野蛮なエネルギーは必要ない。……サクタロウ、お主も物流ログで見たであろう。このロットのジャムたちは、製造工程の致命的なミスによって、瓶内部の真空圧が極めて不安定な、奇跡的な均衡の上に成り立っておる。……そこに、この男たちが持ち込んだ『想い』という名の不純物が、オイルや泥と共に蓋の隙間から侵入したのじゃ。結果として何が起きたか?瓶の中で、特定の菌による爆発的な発酵が始まったのじゃよ」


 瑠璃は、積み上げられた山の中から一瓶のジャムを、まるで地雷を撤去するような、しかし残酷なほど迷いのない手つきで抜き取った。

 その瓶は、今朝歩道橋で見かけたものよりも明らかに一回りほど膨張していた。内圧に耐えかねた金属製の蓋は、今にも弾け飛ばんばかりに無残に歪み、ガラスの表面には網目のような微細なヒビが走り始めている。


「……発酵?でも、未開封のジャムが、そんな短期間でこんなに膨らむなんて……」


「この廃屋の床にこびりついた、古いオイル。そしてリンゴ酢。それらに九条が撒いた、あの『因果を歪める特殊な菌』が混ざり合ったのじゃよ。ここは、管理社会が捨てたノイズが凝縮された、最悪の培養液なのじゃ。……九条は、この男たちの『捨てられぬ記憶』という純粋なエネルギーを燃料にして、この街の物流システムそのものを内側から食い破る、前代未聞の『生物学的・物理的ハイブリッド爆弾』を仕立て上げたというわけじゃ」


 男たちのすすり泣きが、ジャムの瓶が奏でる『カタ、カタ……』という、秒読み(カウントダウン)のような不気味なリズムに飲み込まれていく。

 彼らは、自分たちが愛する者の記憶を繋ぎ止めるために、一段ずつ、心を込めて並べてきた『重石』が、自分たちが住むこの街を物理的に破壊するための、最凶の兵器に変質させられていることなど、微塵も気づいていないようだった。その無垢な絶望が、この部屋の温度をさらに数度、押し上げている。


「……そんな、ひどすぎる。この人たちは、ただ、大切だったものを忘れたくなかっただけなのに。それを九条は、爆弾の部品にするなんて……っ」


「ただ、記憶を捨てたくなかっただけか。……だが、サクタロウ。この管理された世界において、捨てられぬ記憶、すなわち更新を拒むデータとは、往々にして『社会を破壊する猛毒』となる。……管理AIがこの男を排除し、歩道橋を廃棄しようとしたのは、案外、システムとしての正当な自己防衛本能だったのかもしれぬぞ」


 瑠璃は、手にした、今にも破裂しそうな赤い瓶を、僕の鼻先に突きつけた。

 瓶のラベルには、来月の解体予定日である『五月十二日』の文字が、歪んだガラスの向こうで、僕を嘲笑うように不気味に拡大されて見えた。


『……ハハハ、如月瑠璃。やはり君は面白い。正解だよ。……その瓶の一つ一つには、この街の不完全な住人たちの執念と、僕が贈った『変化の触媒』が詰まっている。……もし、来月の解体工事が予定通り強行され、重機の一振りがこの歩道橋に衝撃を与えれば、その瞬間に数千の『真空の悲鳴』が一斉に爆発する。……新市街のクリーンな大通りは、不純なイチゴの血で赤く染まり、二度と、あの吐き気のするような清潔さを取り戻すことはないだろうね』


 ラジオからの声が、完全にこちらを弄ぶような、勝利を確信した響きで告げる。

 九条の狙いは、あまりにも悪趣味で単純だった。歩道橋の解体という、街の「新陳代謝」そのものをトリガーにして、管理社会が最も忌み嫌う『汚れ』と『過去の怨念』を、新市街の心臓部に物理的に撒き散らすこと。それは、物理的な破壊以上の、精神的なテロルだった。


「……やめてくれ……。解体なんて、させない。……俺たちが、この瓶を、一段ずつ、また一段ずつ並べて……重くすれば……思い出が、街を支えてくれるはずなんだ……」


 清掃員の男が、這いずるような動作でジャムの赤い山に縋り付いた。

 その必死な姿は、傍から見れば、もはや救いようのない狂人のそれだ。だが、僕には分かってしまった。彼は、自分の娘との数少ない思い出が『爆弾の部品』にされているという現実さえも、もはや受け入れるしかないほど、孤独に、そして絶望的に追い詰められているのだ。彼にとって、ジャムが爆発することよりも、ジャムが『無意味なゴミ』として回収されることの方が、何千倍も恐ろしいことなのだ。


「……如月さん、どうすればいいんですか?今すぐ通報して、処理班を……。いや、でも、警察が来たら、彼らは間違いなく逮捕されるし、このジャムも全部没収される。……そうすれば、歩道橋は誰にも守られず、予定通り壊されます。……どっちに転んでも、この人たちの『重石』は、失われてしまう……!」


「警察?……あのような、AIが弾き出した最適解をなぞるだけの、意志を持たぬ操り人形を呼んで何になる。……サクタロウ、これは、わしの問題じゃ。……この街に、わしという『最大級にして最凶の不純物』が存在する以上、このような無粋で品のない爆発を、如月家の名において許すわけにはいかぬ」


 瑠璃は、黒いコートのポケットから、一本の、月光を受けて冷たく、しかし美しく銀色に輝く細い匙(スプーン)を取り出した。

 それは、物語の初期段階で提示されたタイトルの欠片(ピース)でありながら、今のこの異常な状況下では、全く別の、鋭利な『覚悟』を宿した道具に見えた。


「……その銀の匙、何に使うんですか?爆弾を解体するための工具にでもなるんですか?」


「……『味見』じゃよ、サクタロウ。……この男たちが溜め込み、九条が汚したこの『毒』が、本当に救いようのない廃棄物なのか。それとも、まだこの世界で噛み締めるに値する『甘み』が残っておるのか。……それを判断できるのは、わしという絶対的な舌だけなのじゃからな」


 瑠璃は、手にした膨張したジャムの蓋に、迷うことなくその銀の匙の先端を突き立てた。

 ――プシュッ。

 空気が勢いよく漏れ出すような、あるいは、誰かが長い間堪えていた溜息を吐き出すような音が、静寂に包まれた廃屋の中に、不気味に響き渡った。



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