第2話『甘い重石の並べ方』 ~Section 4:地図にない足跡と、砂場の反響~
歩道橋の反対側。そこは、新市街の眩い光が『非効率』として切り捨て、視界の端へと追い散らした、影の巨大な吹き溜まりだった。
アスファルトは幾重にもひび割れ、その隙間からは管理AIによる殺菌処理を免れた野太い雑草が、アスファルトを食い破るように生い茂っている。放置された錆びついたゴミ箱からは、正体不明の有機的な腐敗臭が漂い、新市街の無機質な空気感とは対極にある『生物の死』を予感させた。清掃ドローンさえも足を踏み入れないこのエリアは、月見坂市が『発展』という名の脱皮を繰り返す中で、無造作に剥がれ落ち、そのまま忘れ去られた古い皮膚のような場所だ。
「……はぁ、はぁ、はぁ……如月さん、少し、少しだけ待ってください。あの男、あんなに痩せ細って、今にも折れそうな脚をしていたのに、どうして、あんなに、速いんだ……っ」
僕は膝に両手を突き、激しく上下する肩を無理やり抑えながら、湿った闇が口を開ける路地の入り口で立ち止まった。
サクタロウとしての数少ない誇りであるはずの脚力も、ここ数日の『如月瑠璃による有無を言わせぬ強制徴用』の連続によって、既に限界を超えていた。太ももの筋肉が、新市街の冷たい空気と衝突するたびに、熱い、脈打つような痙攣を起こしている。肺の奥が、冷えた大気に焼かれて血の味がした。
「何を情けない、肺魚のような音を上げておるのだ、サクタロウ。お主のその不格好で頑強な肺が、今のこの死に絶えた街の中で、最も『生きている音』を鳴らしておるというのに。……見よ、あの男はただ逃げているのではない。……引き寄せられておるのじゃ。自分という人間を構成する、最後の、そして最も重い断片が残されている場所へな」
瑠璃は、呼吸一つ乱さぬ平然とした、それでいて極めて優雅な様子で、暗闇に沈む路地の奥を細い指で指し示した。
彼女の右手には、いつの間にか歩道橋の踊り場から回収してきた、あの真鍮製の重厚な『呼び鈴』が、月光を弾いて握られていた。
「如月さん、それ……勝手に持ってきたんですか?それこそ、警察に届けるべき証拠品っていうか、あの男の数少ない私物でしょう?窃盗ですよ、それじゃ」
「証拠品?否、お主は何も見えておらぬな。これは、この深い闇の中を歩むための『灯火』じゃ。……サクタロウ、お主は気付かなんだか。あの男がこれを震える手で置こうとした瞬間、この真鍮の表面が、新市街のどのビルよりも強く、熱く、あの『砂場』の方向を向いて輝いていたことをな」
「砂場の方向……?まさか、あの南公園の砂場のことですか?あそこはもう、管理AIが二十四時間体制で監視しているはずですよ。第二の卵焼きなんて、許されるはずがない」
瑠璃は僕の問いには答えず、手に持った呼び鈴を、白い手袋をはめた人差し指で、まるで楽器を奏でるように軽く叩いた。
――チーン。
静寂を切り裂く、場違いなほど澄んだ、透明な音が響く。
その音は、冷たく湿ったアスファルトの上を波紋のように広がり、古い路地の奥、腐りかけた木材の隙間から、信じられないような『残響』を引き出した。
――チーン、チーン。
遥か奥、入り組んだ建物の隙間から、まるでこちらの呼びかけに応えるかのような、同じ音色、同じリズムの音が返ってきた。
それは単なる物理的な反射ではない。明確な、そして切実な意志を持った、別の『呼び鈴』の音だ。
「……今の、聞こえましたか?まるで、あっちにも誰かいるみたいだ」
「左様。……サクタロウ、あの『砂場の卵焼き』というノイズは、翔太くんという一人の少年の空想や九条の悪戯で終わったわけではないのじゃ。……あの事件は、高度管理社会という名の檻に閉じ込められ、感情の代謝を奪われていた、名もなき『飢えた者たち』の耳に、救済のファンファーレとして響いてしまった。……彼らは、あの砂場に本物の、因果を超えた奇跡があると信じ込み、自分たちの人生にとって『最も切実で、捨てられぬ何か』を、重石として供え始めたのじゃよ。あの男のように」
僕たちは、闇の奥から聞こえる音に手繰り寄せられるように、迷路のような路地を奥へと進んだ。
突き当たりにあったのは、かつては商店街の主役だったと思われる、崩れかけた木造二階建ての廃屋だった。軒先には錆びて文字の読めなくなった看板が今にも落ちそうにぶら下がり、窓ガラスはことごとく割れて、内側からは厚手の遮光カーテン――あるいは、泥に塗れた古いボロ布――が、外部の新市街の光を完全に拒絶するように垂れ下がっている。
その建物の入り口の、ひび割れたコンクリートの床には、白いチョークで、歪な、しかし巨大な『円』が描かれていた。
それは、九条一馬が標榜していた『迷い子たちの聖域』の紋章を、知識のない者が記憶を頼りに極めて稚拙に模倣したような、歪んだ、呪術的な円だった。
「……ここが、あの男の住処ですか?それとも、新種のホームレスのキャンプか何かか……」
「……『配給所』じゃ。……サクタロウ、中に入るぞ。……お主のその無駄に大きな鼻で、この街が『完璧さ』の裏側に隠し続けている『甘い嘘』の正体を、一滴残らず嗅ぎ当てるのじゃ」
瑠璃が、古びた、今にも外れそうな引き戸に手をかけた。
鍵はかかっていない。建付けの悪い戸が、ギギギ、ギギギと、夜の静寂を逆なでするような不快な音を立てて開くと、中から溢れ出してきたのは、新市街のどのレストランでも決して嗅ぐことのない、強烈な『調理の匂い』だった。
それは、あの歩道橋にあったイチゴジャムの甘い香りではない。
焦げた醤油の香ばしさ。高温の油で揚げた何かの衣の匂い。そして、あの「リンゴ酢」の、鼻を突くような微かな、しかし決定的な酸味。
「……卵焼きの、匂いだ。……でも、あのときよりも、ずっと……何て言うか、必死で、重たくて、ドロドロした匂いがする。まるで、執念を煮詰めたような……」
薄暗い、裸電球一つない室内の中央には、僕の想像を絶する光景が広がっていた。
埃まみれの床の上に、不自然なほど清潔な、真っ白なビニールシートが幾重にも敷き詰められている。その上には、数百個、いや、数千個に及ぶであろう、あの『イチゴジャムの瓶』が、巨大な円錐状の山となって積み上げられていた。
すべて未開封。すべて同じ、あの廃棄予定のロット。
そしてその赤い山を囲むように、数人の男女が、祈るように、あるいは絶望を噛み締めるように、無言で膝をついていた。
彼らは、先ほどの男と同じく、使い古された、もはや色が判別できないほどの作業着や、何年も洗っていないであろう汚れの目立つ分厚いコートを羽織っている。
彼らの手には、ジャムの瓶ではない、それぞれ別の『拾得物』が握られていた。
ある老人は、中央で真っ二つに折れた、泥だらけの木製バットを。
ある女性は、ゼンマイの切れて、二度と動くことのない、金色の目覚まし時計を。
ある若者は、ラベルが完全に剥がれ落ちた、中身の空の、しかし高価そうな香水瓶を。
彼らはそれらを、まるでもうこの世には存在しない神への供物のように、ジャムの瓶の山の前に捧げ、額を床に擦り付けていた。
「……如月さん、これ、何かの新興宗教かカルト集団ですか?ジャムを偶像か何かに見立てて、集団幻覚でも見てるんじゃ……」
「否。……彼らは、自分たちの『記憶』が、AIによって歴史から廃棄されるのを食い止めるために、物理的な抵抗をしておるのじゃ。……管理AIが『不必要』と断じ、リサイクル用のシュレッダーに放り込もうとした物たち。それらを集め、そこに自分たちの、誰にも語れぬ人生の重みを重ね合わせることで、自分がまだこの冷たい世界に存在していることを、必死に証明しようとしておるのじゃよ」
部屋の奥、深い影の中から、先ほどの男が、幽霊のようにゆっくりと、音もなく姿を現した。
彼の目には、先ほどの歩道橋で見せたような逃亡者の鋭い光はなく、ただ深い、深い、底の見えない空洞のような孤独が、沈殿するように揺れていた。
「……お嬢様。……如月家の方、ですね。……その呼び鈴の音で、わかりました。……どうか、わかって、いただけますか。……このジャムが、歩道橋の階段を一段、また一段と下りていくたびに、……私の娘の生きた証が、この街から、永久に削り取られていくんです」
男は、ジャムの瓶を一つ、壊れものを扱うように、それでいて自らの心臓を守るように震える手で抱きしめた。
彼の言葉は、新市街のどんな完璧なデータサーバーにも記録されていない、致命的で、そしてあまりに人間的な『バグ』の告白だった。
「……あの歩道橋は、あの子が最後に私と手を繋いで歩いた、たった一つの場所なんだ。……管理AIは、冷たい声で言いました。あの歩道橋は老朽化し、一日の利用率が基準を下回ったため、来月の『五月十二日』をもって跡形もなく解体すると。……だから、それまでに、重さを。……忘れ去られないための思い出を、一段ずつ、一段ずつ、重石として繋ぎ止めておかなければならないんです。一段、瓶を下ろすたびに、私はあの子の声を一つ、思い出すことができる……。それが終わる時、私は……」
瑠璃は、手に持っていた真鍮の呼び鈴をそっと傍らの机に置き、手帳をゆっくりと閉じると、冷徹なまでの静寂を持って男を見つめた。
彼女の瞳には、安っぽい同情も、温かい憐れみも、微塵もなかった。
ただ、この因果が『Lライン』という、崩壊寸前の絶妙な均衡を保っていることへの、冷ややかな、しかし最大級の感嘆だけがあった。
「……サクタロウ。……記録せよ。……この真っ赤なジャムの瓶は、糖分ではなく、この街が強引に飲み込もうとした『奪われた時間』で満たされておる。……そして、この男たちが夜毎並べているのは、ゴミではない。……管理AIという名の冷酷な神の胸元に突きつけた、静かな、しかし最も重い挑戦状じゃよ」
その時、部屋の隅にある、半ば壊れかけた古い真空管ラジオが、突如として激しいノイズを吐き出した。
バリバリという耳障りな音の向こうから流れてきたのは、機械的な加工が施されているが、どこか人を食ったような、あの九条一馬の声音に酷似した、不敵な声だった。
『……素晴らしい。……砂場は、またしても新しい、芳醇な卵を産み落としたようだ。如月瑠璃、君はその殻を割る勇気があるかな?』
僕たちの足元で、数千個のジャムの瓶が、共鳴するようにカタカタと震え始めた。
それは男たちの祈りの震えか、それとも、この街の『完璧』という名のメッキが剥がれ落ちる予兆なのか。
僕たちは『卵焼き』の向こう側にある、さらに巨大で、甘美な闇の入り口に、逃げ場を失ったまま立っていた。




